壱哉
◆◆
俺の名は壱哉。
誰もが長男だと思う名を、次男の俺につけたマトモではない母親。
母親は雲雀の当主、俺の父親の後妻となり、父親に愛されているのかを試すために自殺を繰り返し、あるとき自殺に成功した。
後妻の死後、元からどこかおかしかったのだろう父親は、さらに輪をかけておかしくなったとババアは言っていた。俺の記憶にある父親はすべて歪だ。
俺がまだ幼かったころ、父親に霊術の修行だと呼ばれ家の道場へ赴くのが日常だった。そこへ行くたびに俺は調教されていたのだと今となっては思う。
道場では父親の岩のように固くでかい体に抱きしめられた。父親は汗と垢を煮詰めたような臭いが酷くて、そのときのせいか俺は今でも汚いものが許せない。
俺を抱きしめた父親から毎日
「壱哉、パパが好きか?」
と問いかけられる。
「好き」と答えなければ折檻。「好き」と答えた場合は「証拠を見せろ」と言い、お前の爪を剥げ、地面に額をつけて『パパのためなら死ねます』と言え。そんな異常な行動の数々を強要する。
そんな俺があの頃、人間の精神を保っていられたのは野々香がいたからだ。
野々香は雲雀の家が定めた俺の婚約者で、雲雀の家が俺に与えた唯一の贈り物だ。俺は小学校に通っていなかったが、学校帰りの野々香は毎日、俺に会いに来てくれた。
父親との地獄の時間が過ぎたあと、野々香と屋敷の玄関前で会うのが楽しみだった。赤いランドセルを背負った野々香の前髪は眉の上くらい短くて、いつも風に揺れていた。
巨大な日本家屋の玄関前、のどかな田舎の土道で俺たちはしゃがみこんで話をしていた。
野々香の母親は雲雀の家を良く思っていなかった。父親があの有様だ。あの狂気の父が率いる雲雀に娘を嫁に出すのを憚る母親の危惧はわかる。だが雲雀は村で権力を持っていたので、母親は内心嫌がりながらも拒否できなかったのだろう。
心配する母親から、野々香は雲雀の家の中に入ってはいけないと言われていて。俺は外出が禁止だった。だから俺たちはいつも玄関前にいた。
「壱哉くん、見てみて」
野々香は村に入ってくる野良の霊を体に取り込んでは浄化する。雲雀の霊術者たちは霊を消滅させることはできても、浄化はできない。
消滅は永遠に輪廻から追い出し、ただ殺すこと。
浄化は成仏と同じ。また、輪廻に戻れる。
そんな偉業を息をするようにやってのけた。野々香が身体に取り込んだ霊は、静かに眠るようにぼんやりとした光となり浄化される。
「この光、綺麗でしょ?」
その救いの光を野々香は笑いながら俺に見せてくれた。
「うん、綺麗」
俺がそう言うと野々香は自慢げに大きな口でにっこり笑い、野々香の額を添う短い前髪が揺れる。それだけで、嬉しかった。
「壱哉くん、今日もお父さん痛いされたの?野々香、今度壱哉くんのお父さんに会ったら、怒るから!」
野々香が俺の生傷に絆創膏を貼って、口をとがらせてくれると俺の胸にも救いの光が灯っていた。その光の温かさを、俺はいつまでも忘れられない。
俺のそんなささやかな喜びをぶっ壊すのが父親だ。
俺と野々香が玄関先で話し込んでいると、父親が玄関から現れた。和服に身を包んだ岩のようにでかい父親の憎悪に満ちた視線が、野々香に向いた。
俺は父親に睨まれると身がすくむのに、野々香は父親に睨まれてもキッと睨み返した。あまつさえ、文句を言った。
「ちょっと、おじさん!壱哉くんに痛いことするのやめてよ!お父さんだからってやっちゃいけないことあるんだよ!野々香、ずっと言おうと思ってたんだから!」
野々香の命知らずな言葉に固まったのは俺だ。黙りこくった父親は光のない目で俺たちを見つめ、ゆらりと玄関へ舞い戻った。俺は野々香の背を押した。
「野々香!逃げて!」
「どうして?おじさん、悪いことしたなって反省してくれたんだよ?」
野々香がにこっと笑ったが俺は背筋が寒かった。野々香を追い返そうとしたが玄関からまた、父親が現れた。父親の手には玄関に飾られていた、花瓶だ。父親の剛腕に振り上げられた花瓶が、野々香の額を殴り飛ばした。
「ッ!」
野々香は言葉もなく地に倒れ、額から血を流した。
「野々香!」
倒れて動かない野々香に縋りついた俺の背後から、父親の地を這うように低い声が俺を包んだ。
「壱哉、パパが好きか?」
俺がゆっくりふり返ると、にこりと父親の優しい笑顔があった。
「パパが好きなら、その小娘を殺せ」
俺はそのときのことをあまり覚えていないが、俺が父親に最後に言った言葉は覚えている。
「お前が死ね」
キレた俺の中の霊力が爆発して手がつけられなかったとババアは何度も語っていた。
俺が、人間を止めた瞬間だった。
父親は俺の異常な霊力のせいで吹き飛び、命はあったが、片腕を失った。雲雀の家一帯が吹き飛んだそうだが、野々香だけは無事だった。
雲雀の霊術師総出で俺を確保して封じ込め、ババアが俺の悪霊じみた霊力を抑えるためのピアスを作った。俺の霊力を常に他の場所へと転移し続けるピアスだ。
耳にバシバシ穴を開けられ、やっと人間らしい霊力の量に収まった。何ヶ月押し込められていたのかわからない部屋を出た時、俺の世界は一変していた。
「壱哉くん!おかえり!」
「壱哉!久しぶり!でっかくなったなぁ!」
人間の世界へ戻った俺を抱きしめてくれたのは、額の傷の癒えた野々香と、兄の一也だった。俺がぽかんとしていると野々香が明るく話し出す。
「壱哉くんがお部屋で寝てる間にね、一也くんが帰ってきてくれたの!良かったね、壱哉くん!」
兄の一也は俺よりも十歳以上も年上だが、霊術の才能がまるでなく、父親に勘当同然に村から追い出されていた。物心ついてから一度も会ったことがなかった兄だ。色素の薄い茶色いさらさらの髪をした一也は悪霊じみた俺を嫌悪するどころか、申し訳ないと涙を滲ませた。
「壱哉、長く留守しててごめん。これからは僕が守るから……」
父親との悲惨な時間でも俺は決して涙を流さなかった。感情を止めて泣けないようにすることでなんとか生きていたというのが正しいかもしれない。
けれど、初めて一也が涙を滲ませる柔和な笑みを見て、一也のあたたかい腕に抱きしめられたとき。
俺は初めて、泣いた。
「あ~泣かないで壱哉くん!壱哉くんもうお外で遊んでいいんだって!これからいっぱい野々香と遊ぼう!」
「……うん」
野々香はまるで俺のことを憎んでいなくて、俺の、人間らしい涙は終わりがなかった。野々香と一也がまた、俺を人間に戻してくれた。
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