第23話 姥捨て山の老人
伊月と安都真は古びたアパートの前で佇んでいた。鉄製の階段は長年の風雪にさらされてすっかり錆びており、手摺を掴むと茶色い薄皮がパラパラと落ちた。昭和の遺物のようなアパートだった。
阿比留の捜索は、三人が合流した翌日から開始された。
ボロボロのアパートは飯塚荘といい、台東区浅草橋の住宅街にあった。玲佳が五百城花紗音から聞き出した阿比留の居住地だったが、影も掴めなかった。最初から当たりを引くことを期待するなと自身に言い聞かせていたが、実際に迫れなかったとわかると、身を焦がすほどの失望に襲われる。縋ってでも手掛かりを得たかった。
飯塚荘は八世帯が収まるこぢんまりとしたアパートだ。二階建てで、各階に四部屋ずつ配置されている。住人に聞き込みも行ったが、老人の一人暮らしが多く、ろくな話が聞けなかった。耳が遠くて会話が困難な者もいた。警戒心丸出しで食って掛かる老婆もいたが、不快には思わなかった。特殊詐欺が溢れているご時世だ。あれくらいの威嚇をした方がよいとも言える。世知辛い世の中だ。
ただ、一人だけ丁寧に話を聞いてくれた老人がいた。話し相手に飢えていたようで、二人のいきなりの訪問にも笑顔で応対してくれた。古ぼけた表札には滝沢と記されていた。
「半年前に、けったいな奴が越してきたな。こんな姥捨て山みたいなアパートに、四十代? もしかしたら三十代の男が、ろくに荷物も持たずに住みついてな」
老人が自分の住むアパートを姥捨て山に例えたことから、ここに住むようになった経緯が伺い知れた。一年前といえば、五百城が離婚した時期と一致する。阿比留本人に間違いないと思われた。
「なんかトラブルを起こしそうな、剣呑な雰囲気を持った奴でな。はっきり印象に残ってるんだ」
「実際、なにか問題を起こしたんですか?」
「いいや。入居したと思ったら、すぐにいなくなってた。二週間もいなかったんじゃないかな。あんまり短かったんで、あんときゃなにかの手違いだったんじゃないかって思ったんだ」
滝沢の話が事実なら、阿比留ははじめから行方をくらますつもりだったとも考えられる。飯塚荘は、五百城母娘から完全に雲隠れするための仮初めの住居にしただけか。
滝沢に礼を言って、アパートを辞去した。
「ここはハズレだったね」
安都真が残念そうに呟いた。
伊月が目覚めたときには、すでに丸一日が経過していた。いつ不幸が降り注ぐかわからない状態での行動は、ひどく精神力を吸い取られた。常に神経を張っていなければならない。ブレーキが壊れた車を、ハンドル捌きだけで事故から避けなければならない心境だ。無駄足を踏むと苛立ちで頭を掻きむしりたくなる。
「落ち着きなよ」
伊月の内心を見透かしたような投げ掛けに、ついかっとなってしまった。
「落ち着けるかっ」
筋違いだとわかっていても、口調が荒れるのを抑えることができない。すぐに悪いと思ったが、謝罪の言葉すら頭に浮かばなかった。焦れったさで思考が掻き乱され、一向に解決へのイメージが湧かない。相当追い詰められている証拠だ。
「おまえはいいよなぁ。呪われたことなんかないんだろ?」
「………………」
「俺はまだ死にたくないっ。やりたいことが山ほどあるんだっ」
「………………」
「死にたくねぇ。死にたくねぇよ……」
恥も外聞もなかった。爪の先を引っ掛けてでもこの世に留まりたい。これまで何人もの霊をあの世に送ってきたが、いざ自分の身に起こるとなり振り構っていられなかった。安都真の冷淡な目を痛いほどに感じているが、子供みたいに喚き散らすのを止められない。
「伊月……そんなに死にたくないのか?」
安都真の馬鹿げた問いに血液が沸騰する。この男は俺にケンカを吹っ掛けているのか? 生活に行き詰まっているわけではない。かけがえのない人がいなくなって灰心喪気しているわけでもない。不条理な呪いに巻き込まれて死の宣告を受けている者が、あっさりと死を受け入れられるものか。
「あたりまえだろっ。ふざけているのかっ!?」
「だったら、自暴自棄になるな。希望を失うな。羅針盤を捨てた船は確実に遭難する」
「そんなこと、おまえに言われなくてもわかってるよっ。けど、どうすりゃいいんだっ!?」
安都真に当たるのはまったくのお門違いだ。落ち着かなければと自制するも、呼吸が荒くなる。伊月の幼稚な態度に腹が立たないのか、安都真は飽くまで通常運転だ。
「気持ちを落ち着けるには、一服入れるのが最適だ。ちょっと休憩しよう」
そう言って、安都真はすたすたと歩きだした。放言を気にした素振りも見せない彼に毒気を抜かれた伊月は、激しく首を振って安都真の後を追った。
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