第4話 少女と自転車

 東京メトロ木場駅の階段を上がり、地上に出た。竹ノ塚駅からは一回の乗り換えで済んだので、帰路も面倒ではなかった。

 歩道に踏み出すと、途端に身を引き締めるほどの冷たい風が顔面を襲った。やはり、秋はこの風に運ばれて去ってしまったらしい。秋にとって日本は留まる魅力がなくなった国になってしまったのか。

 伊月が住んでいるマンションは、永代通りと夕浜運河に挟まれた一画にある。これといったものはない辺鄙な町だが、東陽町や門前仲町まで歩いても十五分ほどで、その間には様々な商店が建ち並んでいるから生活するには便利な場所だ。清澄白河も徒歩圏内で、気の利いたカフェが多いのも、伊月にとっては嬉しかった。都心のような洗練さはないが、住みやすく永住してもよい町だと気に入っている。


「どこか寄ってくか」


 いつの間にか正午を過ぎていた。伊月は朝食は摂らずにコーヒーだけで済ます。じっとしていても昼には空腹感に支配される。ここら辺一帯は、永代通り沿いはもちろん、裏路地に入ってもあちこちに居酒屋や飲食店がある。しかも値段も手頃だ。

 蕎麦屋で牛もつ煮込みやだし巻き玉子を肴に一杯ひっかけ、カツ丼で腹を満たすか。それとも、久し振りにうな重をかっこむのもいい。懐には十二万もの現金がある。軍資金は潤沢だ。我知らずに口角が上がる。どんな経緯であれ、金が手元にあるのは気分がいい。

 少し迷ってから、東陽町方面に向かって歩き出した。う巻で日本酒をきゅっと干してから、うな重を食べる。頭に思い浮かべるだけで唾が出てきた。

 永代通りを外れて早々に生活道路に入った。途端に下町情緒に満ちた雰囲気に包まれる。しばらく進むと、道の傍らで座り込んでいる少女を見掛けた。歳は五~六歳くらいか。先日までの暖かい陽気に油断したのか、スウェットだけで少し寒そうだ。自転車のペダルを握りながら、なにやら弄っている。

 周囲を見渡したが、平日の昼間、加えて路地裏という場所柄もあり、伊月以外に人はいなかった。面倒なことに首を突っ込まない方がよいと脳が囁いたものの、少女からはなにか無視できない雰囲気が醸し出されていたため、伊月はゆるゆると近づいてみた。


「どうした?」


 少女を怖がらせないように、努めて優しい声を出した。声に反応した少女が振り向いた。目は充血して涙をいっぱい浮かべているので、伊月は少し驚いた。


「自転車がどうかしたのか?」

「……チェーンが外れちゃった」

「ああ……」


 見ると、チェーンがだらしなく垂れていた。


「なんだそれくらい。俺が直してやるよ」


 少女の手が油で黒く汚れているので少しだけ躊躇したが、このまま知らん顔をして通り過ぎることはできなかった。

 チェーンを手繰ってチェーンホイールに引っ掛けようとした。カバーが被さっているので見えづらい。左側から手を伸ばしがなぜか上手くいかない。


「なんだこれ?」


 チェーンが外れないよう、リングガードが設けられていた。これがあれば滅多なことではチェーンは外れないはずだが、なにかの拍子に外れてしまうと、今度はリングガードが邪魔になってしまう。

 自分が子供の頃には、こんな工夫された自転車なんかなかったよな……。

 苛立ちを抑えながら手の角度を変えアプローチするが、なかなか上手くはまってくれない。手こずる伊月を見て、少女はますます不安げになっていった。


「大丈夫だよ。ちゃんと直すから」

「お母さんに叱られちゃうっ……」


 少女の呟きに、伊月は衝撃を受けた。この少女は自転車がこげなくなったことを悲しんでいたのではなく、親に叱られる方を怖れて泣いていたのだ。少女は親が恐ろしくて、壊れた自転車を持って帰れなくて、冷たい風が吹くのに、小さな手を汚してたった一人で一生懸命直そうとしていたのだ。


「うっ」


 ふいに胸が締めつけられた。


「……きみのお母さんは、怖い人なのか?」

「……前は優しかったんだけど、前の月から急におっかなくなっちゃった」

「お父さんは? お母さんになんにも言わないのか?」

「お父さんはお仕事に行ってるから……」

「ふ~ん……」


 あれこれと弄っているうちにコツが掴めてきた。リアディレーラーを前に押し出せば、チェーンがたわんで余裕が生まれる。こうすればリングガードを越えてチェーンホイールにはめることができる。試行錯誤のうえ、やっと成功した。


「やった」 


 ペダルをぐるぐる回すと、シャーッと心地好い音を奏でた。少女はようやく笑顔を浮かべた。年相応の可愛らしい笑顔だったので、伊月もつい嬉しくなった。

 伊月の手は少女以上に真っ黒に汚れてしまったが、苦労した甲斐があるというものだ。伊月も少女に会わせて歯を見せた。



 自転車を押して永代橋通りに戻り、ドラッグストアでアルコールティッシュを買った。棚に商品を並べていたパートらしいおばちゃんに事情を話すと、三十二枚入りのものを持ってきてくれ、さらに先に手を拭かせてくれた。おばちゃんは少女の手を特に念入りに拭いてくれた。

 もう開けてしまった商品にバーコードを当てるおばちゃんは、終始笑顔を絶やさなかった。


「すみません。お手数お掛けしちゃって」

「いいのよぉ。困ったときはお互いさま」


 なんだか救われた気分になって、伊月は少女と一緒に店から出た。


「家、近いんだろ? おにいちゃんも一緒に行くよ」

「…………」

「どうした?」

「……知らない人についてっちゃいけないって」

「ついていくんじゃない。きみの家まで一緒に帰ろうってんだ。それなら問題ないだろ?」

「うん……」


 大人の小賢しい屁理屈に納得したわけではないのだろうが、少女はおとなしく伊月を案内した。伊月がいれば緩衝材になるのではないかとの計算もあるのかもしれない。いずれにせよ気を揉んでいるのが伝わってくる。本来なら、こんな年端もいかない子供が持たなくてもよいストレスだ。


「おにいちゃんは伊月稀李弥ってんだ。お嬢ちゃんは?」

「………………」

「おいおい、俺たちもう友達だろ? 名前くらい教えてくれよ」

「……わたしは杏奈あんな吉沢杏奈よしざわあんな

「杏奈ちゃんか。洒落た名前だ」


 伊月は押している自転車を改めて観察した。あまり自転車には乗らない伊月でも知っている有名メーカーのロゴがフレームに貼ってある。リアキャリアがフレームと同一のデザインだし、サドル、ベル、グリップは色が統一されている。各所にデザイナーのこだわりが盛り込まれており、けっして安物ではないはずだ。杏奈という名前にも、可愛らしい子であることを願い、実り豊かな人生を歩めるようにと願いが籠もっている。

 伊月には子供がいないので断言はできないが、幸せを想う名をつけ、安物でない自転車を買い与えながら、些細なことで厳しく叱責する接し方に歪なものを感じた。子供から怖れられるなんて、余程のことだ。しかも、先月から態度が急変したという話も気になった。



 一陣の冷たい風が二人を追い越していった。杏奈は鼻を真っ赤にしながら寒さに耐えている。自転車のカゴにはにんじんが三本とタマネギが四つ入っていた。


「今日の晩飯はカレーか?」

「ううん。クリームシチューだって……」

「クリームシチューか。もう何年も食べていないな」

「そうなの?」

「ああ。料理なんかしないからな」

「だったら、お店で食べればいいのに」

「シチューを? 店で? なんの店に行けば食えるんだ?」

「……わかんない」


 杏奈の家はすぐ近くだった。家の前に立った時点で、伊月は勘が当たったのを確信した。霊や念が漂っている空間特有のニオイが漏れていた。嗅覚を刺激するものではなく、感覚で捉えるニオイだ。しかも、この類いのニオイを発するのは必ず人に害をなす悪霊で、伊月はこのニオイを『悪臭』と呼んでいた。

 杏奈は完全に怖じ気づいていたが、伊月に促されるままインターフォンを押した。泣きそうな顔をして振り向いたので、伊月は大丈夫だと頷いた。伊月はカメラに映らないよう、死角に立っていた。

 しばらくしてドアが開いた。モニタ越しに杏奈の帰宅を確認したのだろう。


「あの…ただいま」


 とても我が家に帰って母に迎えられた子供の態度ではない。まるで新入社員が上司に命じられて、初めてアポなし訪問をしているみたいにおどおどしている。伊月は嫌悪感を強めた。


「なにやってたのっ。おつかいも満足にできないのっ?」


 出てきたのは父親の物であろう男物のセーターにジーンズという、他人の目を意識しているとは思えない服装の女性だった。この人物が母親だろう。細面の顔立ちは整っているのに化粧はしていない。だらしない格好と相まって、ひどく不整合な印象を受けた。

 ビクリと杏奈が跳ねるのと、伊月が飛び出すのがほぼ同時だった。


「待てよ」


 いきなり見知らぬ男が登場したので、母親は怯んだ。すぐに態勢を立て直して、無遠慮に伊月を睨めつけた。


「なによあんた。人んちに勝手に上がり込んで……」

「まだ上がってないよ。こんなところで喚かれたんじゃ、宅配便も郵便も届かないな」

「揚げ足を取るなぁっ」


 いきなり大声をあげた。杏奈は今にも泣き出しそうだ。しかし、伊月は動じなかった。睨めつけられていた間に、彼の方こそ冷静に観察していたのだ。そして、念の塊を見つけた。


「低級霊が……」


 低級霊は、生前か死の直前に強い恨みや憎しみ、後悔などを抱いて死亡した者がなる。内気な者やネガティブな者、不潔にしている者などが取り憑かれやすい。家や身なりを見る限りでは、清潔感に不足はない。今は攻撃的だが、本来は引っ込み思案な性格なのだろうと推測した。

 破魔札を握った拳で、母親の胸を突いた。殴るほどの勢いはなく、押す程度だ。それでも派手に吹っ飛び、そのまま倒れて動かなくなった。


「お母さんっ」


 杏奈は伊月の脇をすり抜けて、母親に駆け寄った。どんな目にあわされても、親を思う気持ちは簡単には消えない。お母さんお母さんと、泣きながらすがりついている。


「心配するな。すぐに気がつく」


 伊月が言った通り、母親は腕の力で上半身を起こした。ぼぅっとしており、なにが起きたのか、状況が把握できない様子だ。


「あの……わたし?」

「お母さんっ。大丈夫っ?」


 杏奈は母親に抱きついた。狼狽えながらも杏奈を包むように抱きかえす姿は、なかなか感動的だった。

 伊月に気づき、戸惑いながら問い掛けてきた。


「……あなたは? 人の家でなにを……?」


 説明しても理解できないだろうし、面倒だし、なにより通報でもされたら厄介だ。


「いい娘だな。大切にしなよ」


 それだけ言うと、そそくさとその場から去った。


「あっ、おにいちゃん」


 杏奈の声を背中に聞いたが、伊月は足を止めなかった。これは余計なお節介だ。深く関わらない方がいい。

 足早に歩き、ある程度離れてから振り返った。追いかけてくる気配はない。スマートフォンで時刻を確認したら、すでに二時近かった。目当てだった鰻屋は二時に閉まって、再び開くのは夕方の五時だ。


「鰻を食いそびれた上に、ただ働きか……」


 いいさ。たまにそういうことがあるのが人生だ。少なくとも、可愛らしい少女の苦しみを一つ取り除いてやった。気分は悪くない。懐は十二万で温かい。どこかで弁当を買って、家でゆっくり食おう。

 伊月は軽い足取りで我が家を目指した。

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