捌ノ肴:献立

「また、かみさんとやりあったのかい」


賑やかな大衆酒場で、難しい顔をした2人のサラリーマンが、犬も食わないような話をしていた。

2人の間には汗をかいた茶色いビンと、金色の液体に満たされたグラスが2つ。

肴は冷奴とわかめの酢の物である。


「相も変わらず、目が利くじゃないか」

「長いからね。よければ聞こうか」

「まあ、いつも通り仕様もない話さ。この間の休み、昼飯に何を食いたいか聞かれてね」

「ははあ」


聞いていた男は、既に何が起こったのか察したように笑うと、それを誤魔化すようにグラスを口に運んだ。

それに気付きつつも、男は面倒くさそうに続ける。


「『なんでもいい』と答えたわけだよ。そうしたらもう、烈火のごとくさ」

「よく聞く話じゃないか。なんでもいいなんてのは、一番厄介で気に障る答えだってさ」

「そうは言うがね」


男は、生姜の色が変わるほど醤油をかけた豆腐を口に運ぶと、グラスを干して言った。


「本当に何でもいいのさ。いや、白飯だけ出されても困るし、ある程度の希望がないと言ったら嘘になる。とはいえ、一般的な昼飯なら文句は言わない」

「それにしたって、米がいいのか麺がいいのか、それくらいはあるだろう」

「それなんだよ」


手酌でビールを注ぐと、男は困ったように口を開いた。


「こっちとしては、気を使っているつもりなんだ。まずもって、家に何があるのか把握していない」

「食材とか、そう言う事かい?」

「その通り。急に『ほっけが食いたい』なんて言われても、冷蔵庫になければ出せないだろう」

「もっともだね」

「それに、手間もそうだ。変に凝った料理を言ったら、それはそれで面倒をかける」

「意外に、かみさんのことを考えてるじゃないか」

「おいおい、意外は余計だろう。こっちとしても、楽させてやりたいとは思ってるんだ」


聞いていた男は、茶化しながらもわかめを口に運ぶと、少しだけビールを呑んだ。


「しかしその気遣いが、仇になっちまったわけだ」

「おまけに、その後の言葉もよくなかったらしい」

「さらにやらかしたのかい?一体何を言ったのさ」

「『なら、簡単に冷やし中華でいい』とね」


聞いていた男は、今度は声をあげて笑った。


「お手本のような地雷の踏み方じゃないか」

「どうにもそうだったらしい。だが聞いてくれよ。俺は別に、具沢山のやつを食いたかったわけじゃないんだ。麺と、それにつゆだけあればいい」

「成程、それなら存外簡単にできるだろうね」

「それでも許されなかったよ。『冷やし中華なら具は必要だし、いちいち準備するのも面倒なんで、簡単なんかじゃない!』ってなわけさ」

「かみさんにも、それなりにこだわりがあるようだね」


聞いていた男は互いのグラスに瓶を傾けながら、落としどころを探っているようだった。


「思うに、わざわざ自分から手間を掛けに行ってるきらいがあるね。あいつは俺に希望を聞いた。俺は麺だけの冷やし中華を頼んだ。しかしこだわりが許さず、大変だからと目くじらを立てたわけだ」

「んん......」

「自分にこだわりがあるなら、最初から希望なんか聞かなくていいだろう」

「お互いの言いたいことは、何とはなしにわかる気がするよ」


考えていた男は、ぐいとグラスを傾けると、考えながら話し始めた。


「君はかみさんを想って、楽なものを希望した。楽だと君が考えたものだな」

「まあ、そうなるな」

「おそらくはかみさんも、君を想ったんじゃないか?平日は会社の周りにある蕎麦屋か定食屋しか行けないし、休日くらいは別の物を食わせてやりたいと」

「ん......」

「ただ、それにしたってその昼飯は、かみさんも一緒に食うものだろう?自分だって楽しい食事がしたいだろうさ。そんな折、麺しかない冷やし中華なんて目の前に出されてみろよ」

「確かにかみさんは、具沢山のやつが好きだった」


いつものように、理路整然と話を整理されて、男はしおらしくなっていく。


「それなら、かみさんの手間だけじゃなく、好みも考えて希望を出すのがいいだろうね」

「そうは言っても、結局食材がわからんことには仕方ないだろう」

「聞けばいいじゃないか」

「なんだって?」

「何が食いたいか聞かれたら、こっちから聞き返すのさ。『何ができるんだい』とね」


男は考えてもみなかったというように、目を丸くした。


「そうすればかみさんも、自分の希望と許容できる手間を織り込んだ献立を提案してくれるかもしれないよ」

「まったく、いつも君には助けられる」


男はあっさりと観念して、向かいのグラスに瓶を傾ける。


「なに、お互い様さ」


こともなげに返すと、ふたりはビールを呑み干した。


「はじめっから、かみさんがいくつか提案してくれりゃいいものを」

「存外、君との会話を楽しみたいのかもしれないよ。君、普段はろくすっぽしゃべらないだろう」

「一緒になってずいぶん経つんだ。話題もたいして残ってないさ」

「だからこそ、昼飯をどうするか、話し合えばいい。それに」

「それに?」

「俺とだってそこそこ長いが、こうしていつも喋ってるじゃないか」

「それは......」

「かみさんと、件の小説の話はしたのかい?」

「いや、なんだかこっぱずかしくて......」

「おいおい」


酔っぱらい達はその先もしばらく話を続けたが、内容はころころと移り変わっていった。

意味のある話をしたいのではない。

こうした会話が、いい肴のひとつなのだ。

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