第3話 廊下でバッタリ
隣の席の田村(たむら)すぐるの家を出てバスに乗り、風呂上がりの陣がバス停に降りたときには夕刻だった。五月の夕方はまだ明るい。それでも家に着いたらもう外に出ないようにと、家の近所のスーパーで肉野菜炒めの材料を買う。カット野菜と豚の細切れ肉を炒めるだけだから包丁は使わないメニューだ。ついでに惣菜のポテトサラダも追加する。
日曜日の夜は、明日から始まる学校に備えて体力を温存する。勉強も部活も気力と体力を使うので休日くらいは手抜きをして過ごしたい。
アパートの外階段を上る。古い金属が軋む音が不穏だといつも思う。
涼しい風に当たりながら二〇四号室のドアの前を通ったとき――突然、鍵の回る音がして、ゆっくりとドアが開いた。
ほとんど確信めいた嫌な予感を感じ、そのドアの中を見ないように通り過ぎようとした陣は、隣人――羽山氷に強く腕を掴まれた。
「神くん、いい匂いがするね」
にこやかに言う氷はTシャツにオーバーサイズのカーディガンを羽織り、ジャージ素材ののハーフパンツを履いた格好でドアを押さえていた。大き目のTシャツなのに胸の部分が張っている。陣は年上の女性の隙まみれの格好を視界に入れないように顔を背けたまま、
「友達んちに風呂借りて来たんで」
と、何か悪いことをしたように尻すぼみな声で言った。
聞いた氷が「ふうん」と外に出てきてドアの鍵を締める。ガチャガチャしている間の沈黙が気まずい。
「ねえ、約束覚えてる?」
陣に向き合った氷が垂れぎみの双眸で陣を見上げる。彼女の言いたいことをすでに察していた陣はぐうと息をつめて、ゆっくりと頷いた。
「でも、羽山さんとこの風呂は借りてないから、一緒に入る約束は無効でしょ」
「でも一回は貸したじゃん」
「ええ……一回きりで……?」
不本意そうに陣が頬を引き攣らせる。
「それに平日はどうするの? 部活終わるの遅いんでしょ? そんな時間に借りに行くの?」
だんだんと意地悪な笑みを浮かべ始めた氷に、陣は目を細しながら黙った。
痛いところを突かれたのは間違いなかった。部活後、人によっては眠りについている時間に余所様を尋ねるのはあまりに厚かましい。正直、陣は困っていた。明日から始まる平日をどう乗り切るか。
「だからさ、うちに来ればいいじゃん」
陣の無言の当惑を楽しんでいるような顔で、氷が背中で手を組み笑う。
「言ったでしょ? きみが入るときにに一緒に入れてくれればいいだけなんだって」
本当に何でもないように言うが、陣にとってはそうじゃない。
大人の女性と裸同士で狭い空間にいるなんて異常事態にもほどがある。実際この間初めて入浴をともにしたときだって、細い綱の上を渡るような緊張感に苛まれ湯のぬくもりを楽しむどころじゃなかった。あんなに苦悶した入浴は初めてだ。
だから、できることならば断りたい。
しかし汗をかいた体で布団に入り登校するのは絶対に嫌だ。
陣は己の体の清潔に関しては厳しいところがあった。そういう性質なのだ。不潔でいることは堪えがたい。
外廊下の真ん中で怖い顔をしながら懊悩し、しかしその間暢気に外を眺めている氷を見て「ていうか」と切り出した。
「……最近風呂入りました?」
「え、何で?」
「いや、何か埃みたいな匂いがするような…………」
ヒイッ、と余裕面だった氷が飛び退いた。
ああ、うん、……だよな。
「何日入って無いんすか?」
「あ、えーっと、ねえ……木曜日は入ったよ」
「今日、日曜っすよ。……二日も入ってねえんだ」
きたねぇ、と言いそうになって素早く唇に鍵をかけた。さすがに女性にそれは駄目だ気がする。
しかし自分の常識に反した衛生観念の低さには、それ以上言葉が出なかった。気のせいかほんのりと頬を染めた氷が口元に袖を当てて小さく呻く。
一歩踏み出し距離を詰めると、同じくらい氷も後ろに下がった。
「さすがに二日はまずい、と自分でも思ってるの」
「うん、まずいっすよ」
陣がまた一歩近付く。恥ずかしそうに逃げる姿に少々の加虐心が疼く。
「お風呂入りたい気持ちはあるんだけど、こう……結界が張ってあるっていうか」
「風呂場に? 無いっすよそんなの。むしろウェルカムでしょ」
徐々に体が近付いていく。気付けば二〇二号室のドアの前まで来ていた。
「でも、どうしても入れないの! だからお願いしてるのに……」
潤んだ瞳で言われた「お願い」という言葉に、陣の体の奥底からは『親切心』という名の温泉がじじわじわと湧き上がってきた。
心を温かくした彼は氷の両手を掴み、真っ直ぐにその目を見つめる。
「――わかりました。一緒に風呂に入ります。でも俺はもう入ってきたので明日……」
「え、無理!」
手の自由を奪われたままの氷は悲しみに顔を歪めて叫んだ。
「絶対今日入る! ね、いいでしょ?」
必死な形相に、陣は気圧される。
ていうか顔が近い。
前のめりになった彼女から――否、体の中で一番前に出ている胸のふくらみから、逃れるように後ろに下がり、陣は苦渋を顔面に滲ませた。
「俺にまた入れって言うんですか?」
氷が熱烈な目をして頷く。
陣はうーんと考えて、そして「わかりました」と折れた。明日からの入浴事情を考えると、ここで臍を曲げられたら困る。そうした思惑を抱えながら、ルンルンと嬉しそうな彼女に手を引かれ二〇四号室に上がり込んだ。
自分の部屋と同じ間取りだから、真っ先に彼女がどこに入って行ったかすぐに分かった。
「え、もう入るんですか…………って、ちょっ!」
バァンッ! と派手な音を立てながら、陣は開いていた脱衣所の戸を高速で閉めた。
中にいたのは、薄水色のショーツを身に着けただけの氷だった。
胸が……胸が見えた…………。
一瞬のことだったので細部は見えなかったが、その大きさくらいははっきりと思い出せる。
服を着ていても主張しているんだから、そりゃ裸だったらそういうボリュームだよな……。
前回は湯気と緊張でさっぱり見えなかったが、今度はっきり見てしまって自己嫌悪した。事故とはいえ安易に女性の胸を見てしまうなんて、しかもちょっと喜んでいる自分の変態さに消沈する。
「おーい、早く早くー」
中から声が掛かると同時に、再び戸が開く。
陣は良過ぎる運動神経を駆使して刹那のうちに閉めた。
「先に入っててて下さい。換気扇は必ず消して」
「湯気籠るよ」
「籠ったほうがお互いの体が見えないって前言ったじゃないすか」
「そんなこと気にしなくていいのにー」
「気にするんすよ、こっちが」
深い溜息を吐くと、「ちゃんと来てね」と風呂場のドアを開ける音が聞こえた。
陣は自分の早鐘になった鼓動を聞かなかったことにしながら、無許可で冷蔵庫に購入品を入れ、空になった脱衣所で時間をかけて服を脱いだ。
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