-深紅-
ひっそりと佇む屋敷。
忘れ去られた屋敷の主。
着流しを纏い煙管をふかす。
その隣には、
飼い猫がひとり寄り添う。
♦
「こんにちはー……」
縁側から中へと呼びかける私は代わり映えのしない、学生の象徴とも言える制服を身に纏い屋敷へと侵入する。
庭も変わらず広く閑散として、尚且つ無愛想。屋敷の中だけではなくこの庭もまたどこか世界と切り離されたように空気が、雰囲気が、色が、風が、違う。
ささくれだった風が室内へ躍り込むのに紛れ、ぎしりと板敷の廊下が鳴ったので私は弾けるように右へ視線を投げた。
「また来たのかい」
歓迎は期待していなかったにしても、すこぶる淡々とそう呟く呉さんに自然と眉根を寄せていたらしく、私を視界にいれるとふふっと堪らずに微笑んで見せた。笑った拍子に流れる前髪に容易く揺れる胸の底。
お手軽な恋心を見透かされたくなくて、胸の奥から臆病が顔を出しそれとなく視線を逸らすと、何かを思い出した呉さんが「そうだ」と呟くのでちらっとだけ目線を戻した。
「どうかしましたか?」
呉さんは言葉の代わりに私を手招きするもんだから首を傾げてしまった。
が。その時間すらも惜しいと言うように。「早く、こっちにおいで」とやけに急かす。
「なんですか?」
「本当に要領の悪い娘だ」
なんか至極失礼なことを言われた気がしたが、反論するより先に呉さんがこちらに歩み寄り、ぼけっと突っ立っている私の腕を掴んで屋敷の中へ。
うわ、なんて間抜けな声がこぼれる。ちょっと待って、まだ靴も脱いでいないと言うのに乱暴な。蹴躓くようにしながら靴を脱ぎ捨て、その背中を追った。
回遊魚のようにどんどん奥に進むものだから、どことなく、怖くなる。
「なんですか。変なことなら嫌ですよ?」
「最近君は俺のことをなにか勘違いしてはいないか」
心外そうな声には肩を竦めて流してみる。そうこうしている間にも呉さんに引っ張られて連れてこられたのは普通の座敷。
いや普通とは言っても、だ。呉さんの屋敷なわけで、一般的な座敷とは格が違う。美しく豪奢な襖と、何で出来ているのか光に透けるとやたら綺麗な日除け。ステンドグラスみたいだ。
そう言えばこのお屋敷は昔料亭だったのだと、視線をぐるりと回しながら思い返す。
真ん中には年季の入った高価そうなテーブル。
「そこ、座っていて」
ほらほら、と座布団の上に強引に座らされた私は渋々従う。それに満足そうに可愛く笑った呉さんは足早に部屋を出て行ってしまった。
なに、これ。なんで置き去りにされているんだろうか私。意味というか意図というか、とにかく訳が分からなくて私は居心地の悪さだけを感じていた。
しかし幸いなことに、困惑を十分に堪能する間もなく呉さんは戻ってきた。
「お待たせしました」
足音に気付き、テーブルばかり見つめていた私ははっと顔を上げ声の方へ振り返る。心細かったけど呉さんを見た途端分かりやすく肩から力が抜ける。
「おかえりなさい」
安堵が声音に出ていたのか、それとも気まぐれか。呉さんは口元に笑みを浮かべて座敷の中に入る。そして私と向かい合うように腰を降ろすと喜色を散らした瞳を細め、テーブルにある物を置いた。
「これをね、君に」
呉さんがテーブルの上に置いたのは和紙で仕立てられた小箱だった。丹念な美しさに見惚れると、目で触れて良いと微笑まれるから恐る恐る手を伸ばす。
金箔が混ざったそれの表面をさらりと指先で撫で、それから私は呉さんを見上げた。
小さく首を傾げると呉さんは子供のように笑って、私の指先から一旦それを奪う。
「いやはや。箱を見せびらかす趣味を持っていると思われているのでしょうか。察しが悪い」
「饒舌に辛辣なことを言う……」
文句をつければ嫋やかに笑って流され、男の人にしては細い指先で箱の中から何かを取り出す。
きらり、と。日除けの間をすり抜けてきた光に反射して一瞬それが何なのかは見えない。
「(なに……?)」
すっと目を眇めてそれを見ようとするより前に呉さんはポイと箱を捨ててしまったので、思わずそちらを目で追ってしまった。
──と。
「ッうわ……!」
ひんやりとした温度に腕が引き寄せられる。
いや、ひんやりなんて可愛いものでは無い。氷を手首に当てられたみたいな急激な冷たさに肩は震え、遅れてその原因へと顔を向けるとそれは呉さんの手の温度だった。
その冷たい手に左腕を引っ張られている。
「なんですか急に!」
どれに意識を向けたら良いか迷うほどの情報量に、ついつい声を張上げてしまうが、しかし。無反応の呉さんを前に妙な緊張感を覚え唇を引き結ぶ。
触れられたところから体温を奪われる心地なのに冷たい温度が、熱い。冷たいはずなのにぼやけたような掴み所のない熱が内から暴れるのだ。
それを助長するのは呉さんの思わせぶりな手付きのせいで。すりすりと指の腹で肌を撫で、手首を握り、余った自分の指を見てはぐっと力を込める。
ああ、もう、簡単に触れてくるのをやめて欲しい。
中途半端な甘やかしは私のような馬鹿に期待させる。疼く胸の痺れの裏でどこかが痛んだ。
「……細い手首……」
独白なのか。小さくそう呟いて何故か眉をひそめた呉さんは上目使いとは裏腹に私を咎めるような視線を向ける。
愛想笑いでも返せば今すぐに説教しそうな顔に、思わず目を逸らしてしまったことに反省は無い。だっていちいち面倒なんだもん。
「食べていますか」
「勿論」
「困ったものだ」
またその台詞。おじさんぽいですよ、と嫌味でも言ってやろうかと口を開きかけた私は手首に流れたさらりとした感触に揶揄うタイミングを失って、単純な言葉を返していた。
「何ですか?」
左手首にかかる、細いシルエットのブレスレット。さらさらと音がたちそうなほど華奢な鎖。その先には真紅色をした蝶々結びのそれがついていた。それに。
「これ……」
呉さんはそれを指先で弾くと喉の奥で艶やかに笑った。
「鈴、ですよ」
「ですよね」
真紅の先には小さな鈴が仲良く2つ並んでいた。腕を揺らすたびに心地良い控えめな鈴の音が鳴る。
私はそれを顔と同じ高さまで持ち上げて、呉さんに見せた。
「似合っていますよ」
「あ、嬉しい……え? これ何でしょうか」
「何とは?」
とぼける呉さんだけれどしっかり口元は弧を描いているし、分かっているくせに聞き返したなと嘘吐きを睥睨するも、痛くも痒くもないと軽い調子で肩を竦めるに留められた。
「だから! これ! いきなりどうしたんですか!」
リンリン、リンリンリンリンと。わざと音を鳴らして呉さんに問いかけると、呉さんは心底満足げにその音の余韻を確かめる。この騒音を楽しめる独特な感性に怯むと、ふっと笑み孕んだ吐息を残して立ち上がってしまった。
つられて、私も顔を上げてその呉さんを追う。
「まあ、大人しく縁側で待っていなさい」
それはそれは楽しそうな声音で告げると腕を組みながらまたどこかへ行こうとするから、私は急いでその着流しの背中を追っては見たが、角を曲がる瞬間に狡いほど綺麗な笑みで手を振られてしまっては追えないじゃないか。
「……大人って狡い」
否、「呉さんが、狡いんだ」とひとり独白し頷いた。これが正解。
誰もいない空間に溜め息を残し、結局は言い付け通りに鈴の音を屋敷に響かせながらとぼとぼと縁側へと向かった。
♦
「鈴………」
鈴か。ちりん、と爽やかな高音を響かせるそれを光にかざしてみれば手首から中ばあたりまでするすると落ちてきてしまった。少しばかり、大きい。
私は先ほど乱雑に脱ぎ捨てたローファーをそっと石の上に並べ、靴下に包まれた足を揺らす。呉さんはまだ来ないし、鈴だし、庭広いし、つまらないし。
なんて。意味の分からない呟きを並べて遊んでいれば、また床が鳴いた。
「お待たせ」
振り返るよりも先に視界に黒が割り込んできた。私の左隣にそっと腰を降ろした呉さんは私の顔を見た途端、苦笑。
「暇だったんですね」
「顔に出ていますか」
「言葉にするより雄弁に」
流れるように揶揄う呉さんは、反論に口を開きかけた私へ先手を打つように、眼前にいきなり何かを差し出すからびっくりして少し後ろに退いてしまった。
「ほら」
「えっ、ほらって何ですか。近過ぎて見えない……」
「あーん」
この人、今なんて言ったの……?
質問を完璧に流された私はじっとその綺麗な指先に包まれたものを凝視した。
「腕が疲れるのだから、早く口開けて」
あたふたと顔を赤らめる私の顎を容赦なく掴むと、一気に呉さんのほうを向かされる。そして下唇を親指で刺激し、驚いて開いた口にそれを突っ込んだ。
「っ!」
「うん? どうですか?」
乾燥した舌触りと溶け出してくる甘みと冷たい温度──
全てを丸呑みすることは出来ないので一口噛めば、呉さんは満足そうに口元に笑みを浮かばせアイスを離してくれる。
慌てて咀嚼する間もじっくりと観察される居心地の悪さに早々に飲み込み、早速とばかりに噛み付いた。
「い、きなり……!」
「なんだか君を見ているとつい、苛めたくなるもので」
「真っ当に性格悪いじゃないですか」
中々にてらいなく罵倒したせいか、いつもより楽しそうに身を揺らして笑われた。いや笑ってる場合じゃない。呉さんの最近の行動は笑って誤魔化せるレベルをはるかに超えている気がしてならない。
しかし不都合なことにアイスがとびきり美味しいもので、強く出ると残りを食べれなくなる可能性があり、大変に悩ましい。
未練がましくアイスを見ていた私の視線に気づいた呉さんは、 直ぐに何かひらめいたように笑うと、食べかけのアイスを私に揺らし見せる。
ので、目で追う単純な私。
「美味しかったかい?」
「……まあまあです」
「ほぉ……」
あっ! と声を荒らげた時には呉さんの口へひと齧りアイスが入っていった。
絶望に打ちひしがれる私を至極満足そうに眺める呉さんに悪びれた様子は無い。
「狡いですよ……!」
「本当分かりやすいねえ」
残りの分も食べちゃうのかな。呉さんの手にあるアイスに視線を向けると、今度はふわりと笑って、私に差し出す。
「はい、あーん」
「い、いいです、自分で食べます」
「いいから」
唇にアイスが触れると恥ずかしさは倍増して、私は呉さんから逃れるように腰を引く。が、距離を離さないと言わんばかりに腕を掴まれて逃げ切れない。
早くと黒曜石のような深い瞳に見つめられた私はアイスの誘惑と、呉さんの雰囲気に負けてそっと口を開いた。
ゆっくりと微睡む猫のように瞳が三日月に歪む。
やけに丁寧に口内へ入れられるアイス。指先まで中に入ってきそうなほどで、脅えた私の舌の動きに気付いた彼の瞳が、不自然な熱っぽさを帯びて揺れた。
何かに飢えているような、飢餓感を理性で押し留めている姿は、しなやかな猛獣みたいだ。
「美味しい?」
低い声は少し掠れている。
返答次第で取り返しのつかない場所に突き落とされそうな恐怖を感じた私は、ひたすら黙りこくって時間経過を享受した。
すると何故かそれに、にわかに興奮したように息を呑んだ呉さん。
喉仏がこくりと上下して──……、
「──……、!?」
突然口の中に入ってきたのは酷く生々しい感触と、ひやりと背筋が震えるほどは低い温度。
目を見開きいきなりの事態に変な声と息をもらしてしまった。
「ん、……っ」
呉さんは頭が本格的におかしくなったらしい。
彼は私の口内に無遠慮にも自身の指先を差し込んだのだった。舌を指の腹でなぞり、圧迫感に歯を立てそうになる私を情欲に浸った瞳で見下ろしている。
「へぇ……」
辛うじて平静を装っているようにも、器用に理性をコントロールしているようにも見える。
何ですかその反応はと眉根を寄せて反抗の意を見せ、その指先を引っこめろと懇親の目力で伝えるが呉さんは興味深そうに私の口内でゆるりとそれを遊ばせる。
いきなり予想外の動きをするもんだから、びくり、全身が驚きに跳ねた。
「擽ったい?」
なんでもいい、本当、なんでも良いから、指を引っ込めて欲しい。泣き出しそうな心境で私は小刻みに首を縦に振る。
呉さんは加虐心丸出しの笑みで私を見下ろし、たっぷりと間を置いてからやっと指先を引き抜いた。
「っ!!!!!」
思い切り後退る私。
艶やかに相好を崩す着物の男。
「変態!」
「語彙が少ないなあ」
「私をなんだと思っているんですか……! あ、あい、アイスが食べたかったのに……!」
しどろもどろになりながらそう答える私は舌に残る感覚が中々消えないことに恥ずかしくて口元を手で覆った。打って変わり、呉さんは庭の奥から吹いてくる風に髪を揺らされながら目を細め、満足感を隠しもせず飄々としている。変態め。
「変態以外に何かないの」
「ふしだら! すけべ! 顔の良い変態!」
「最近の若人は平気で人を傷つける」
ふう、なんて物憂げな表情で溜め息を吐いている呉さんだけれど、人の口に指を突っ込んだ分際で何を被害者面しているのだろうか。
例えその横顔が今まで見てきた人間の中で最高に綺麗で極上に甘美であったとしても許し難い暴挙に他ならない。
「慰謝料」
私は呉さんの手にあるアイスを奪い取り、1人分の距離をあけて座り直したところでそれに噛み付く。ああ、溶けている。あんなことばかりしているからだ。
抹茶の甘さが広がり、黙々と飲み込むことで少しばかり落ち着いた。
すると横から呉さんがわざとらしく、遠くの人に呼びかけるような口調で喋りかけてきた。
「不機嫌だねえ?」
無視をしてみる。けれど呉さんはめげずに声を飛ばす。
「聞こえていますか?」
「聞こえません」
「そうですか。聞こえませんか」
ふふ、と一見して清白な微笑みを浮かべる呉さんの二面性には恐れ入る。瞳の端で動向を見守れば、身体を後ろに傾け、腕を板敷につきながら空を見上げる。
つられて仰けば、もう、空は気まぐれな色合いで夜の帳を匂わせていた。
「呉さんて……例えどんなことでも、思いついたことは実行しますよね」
「いかにも」
いかにも、じゃないですよ。私は再度最中に齧りついたところで黒を睨んでみる。
だがそれに気づきもしない呉さんの前髪が夕風に遊ばれて、気持ち良さそうに身を任せていた。もういいや。本当に気まぐれで生きているような人だし、いちいち気にしていたら身が持たない。
私は最後の一口を食べたとところでそう無理矢理納得する。
「美味しかったですか?」
「はい。とても」
「それは良かった。たまには甘やかしてやろうと買ってきたんです」
口元に小さな笑みを浮かべた呉さんは居住まいを正し、腕を組んで庭を見つめた。私はそのまま呉さんだけを見つめ続ける。
言葉はない。呼吸音はある。合図はない。きっかけはあった。
ぽちゃん、と。庭の奥の池で鯉が水面と戯れる音がそれだった。
「──っ」
ちりん。
寂しげに手首の鈴が鳴る。
腕を相当乱暴に捕まれ、1人分あいていたはずの距離を無理矢理に引き寄せられる。勿論そうしたのは呉さんで。自身のほうへ引っ張ると、傾いた私の身体の引導を重力へ渡した。
結果、私は呉さんの膝に頭をのせながらも不恰好に仰向けに寝転がることになってしまった。
「……なん、ですか」
激しい鼓動。段差を踏み外した時みたいな驚きに混乱が募る私の片足は未だに庭のほうへ出ているし、強引な行為だったために制服も乱れっぱなし。だが呉さんは何も応えずに静かに無表情を浮かべながら私を見下ろしている。
怖い、呉さんの纏う雰囲気が、怖い。
その顔を通り越して見える空は気付けば星が踊り始め、濃紺が侵食を開始している。そっか、もう、夜なんだ。
あれ──?
夜ってこんなに早く来るものだっけ?
「俺が見えるかい?」
「勿論。見えてますよ」
「俺は、たまに君が見えなくなる」
呉さんが言っていることが分からない。それは私が馬鹿だとかいう話ではなくて、夏に降る雪のような、理解の追い付かないちぐはぐさがあるという意味だ。
見上げた先にいる呉さんは俯き加減なせいか前髪が垂れてちょっと苦しげにも見える。角度のせいかな。分からない、やっぱりよく見えないかもしれない。
夜のせいだ。そう、思いたい。
「直ぐにいなくなるから、君は」
「……いつも屋敷に来ているじゃないですか」
「だけど心はここに無いだろう」
心、なんて不明瞭なものの話をされたとて困る。難しいです、と小さく呟いて呉さんを見るとふわりと破顔して微笑んでくれた。少し安心した。
「まあ、つまり」
す、と呉さんの手が伸び私の左手首を撫でる。冷たさとその撫で方に小さく震えると、瞳は満足げに細められた。ああ、遊ばれてるかもなんて思ったり。
呉さんは身を曲げ、私の耳元にかかる髪をわざわざ流して、唇がそれにくっつきそうなほど距離を詰める。
「この鈴の音をいつも聴いて、せいぜい俺のことばかり考えておけばいいと、そう言っているんだよ」
ちりん。
呉さんが鈴をはじくと庭にそれが響き渡った。
そうして、小さくも強烈な深紅の色をした呉さんの束縛が私の手首で存在することとなった。
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