-灰白-
吹き消した絵蝋燭の灯。池を泳ぐたった一匹の鯉。名しか知らぬ屋敷の主。
恋と呼ぶには些か繋がりが深すぎて。
愛と呼ぶには互いの溝が大きすぎて。
「ねえ、呉さん」
慣れ親しんだはずの名前は、突然、無愛想な違和感を植え付ける。
──私が「呉さん」と呼ぶ彼は、
果たして何者なのだろうか?
♦
「――──……?」
宵の闇が脚を伸ばし始めた頃。空の奥に埋もれた昼間の残り火が雲間からもれて、淡く細く呉さんの黒髪を透かす。
艶やかなそれを見上げながら──何故こんな体勢になっているのか、なんて。混乱して絡まる思考の糸を解こうと必死だった。
「離れましょう」
「許諾しかねるな」
問答無用、開口一番、間髪入れずに却下されてしまうから、不機嫌だと目顔で抗議すると呉さんは猫を愛でるような視線で私を見下ろした。
それが、気に食わない。
「馬鹿にしてますね」
「どうやら機嫌が悪いらしい」
するりと悪戯なタイミングで太ももを撫でる呉さんの指先が私の正常な判断を狂わせる。予想していない刺激に恥ずかしいほどに跳ねた四肢を見て、鷹揚に微笑む姿に不思議と優しさは感じない。
「ちょ、っと……」
身を捩って指先から逃れようと顔を背けたら、宥めるみたいに眉尻を下げて目元を眇められる。
耳が熱い、体が火照る、芯が疼く。
呉さんが、呉さんが呉さんが呉さんが。そうやって心の中で詰ってしまう。だってこの気持ちを誘因する、最たる理由が呉さんだからだ。
「そういうの、煽るって知らないんですかねえ」
吐息まじりの笑みを落とし、私の首筋に唇をつける呉さんは酷く楽しそうだ。
「なっ……ん、ですか……?」
「抵抗されると少し乱暴にしたくなる。と言ったら分かりますか?」
絵に描いたような絶句をしてしまった。
人畜無害を装って、白皙の美青年がねじ曲がった性癖を申し訳なさそうに押し付けてくる。なんて怖いことを。
とっさに体を強張らせる私にしてやったりだと唇の端に愉悦を引っ掛ける呉さん。
頭が、くらくらした。
「オカシイです呉さん……」
「オカシイ?」
「はい。オカシイです」
「オカシイ、ねえ」
呉さんは首筋から顔を離し、甘えるように胸の上に頬を寄せて上目遣いのままこちらを観察してくる。対して私も伏せた視線を返してはいるものの、暴走の一途を辿る心拍を誤魔化すために、必死に冷静を装っていた。
時間にして1分にも満たなかっただろう、ふっと鼻に抜けるような微笑みと共に瞳が細められた。ゆっくり起き上がった呉さんは、琴を奏でるような緩慢さで、私の首筋を冷たい指先で撫でた。
「……」
黙して、息を呑む。
指先がしっとりと肌に沈み込んだ。その弾力を確かめた呉さんは、瞬きの合間にかすかに苛立ちを瞳に散らすから、どくんと身体の芯が気持ち悪いほど敏感に跳ねた。心臓が跳ねただけにしては、あまりに衝撃が大きく響く。
「可笑しい、か」
「……手、怖い。呉さんどうしたの」
「確認しているだけだよ」
覗きこんできた呉さんはいつも通り、全てを寛容に受け止めて、安心させるような穏やかさを持って私を懐柔する。
私の首筋に触れたのはあの唇なのかと、未だ信じられずに一瞥するとわずかに微笑むからつられて呉さんの目を見返した。
けど──その瞳の奥に見えたのは、寂しさだった。
いつもこの世ではないところを見ているような瞳の癖に。ひとつのフィルター越しに現実を見ている呉さんは、そうしている内に呉さん自身までもがこの世とはかけ離れたかのような空気を纏ってしまっていた。
なのに、今──呉さんは確実にここに戻ってきていて、そして、その瞳の奥で切ない色を揺らしていた。
「呉さん」
「あまりそう呼ばないで下さい」
「……呉、さん」
呉さんは困ったように眉尻を下げて微笑んだ。
その表情を見た瞬間に、私は胸の奥が絞殺されてしまうんじゃないかってくらいの苦しさに襲われる。
痛いのではない、苦しいのだ。鈍いその感覚に脳は酸素を失い窒息に溺れ、段々と思考は停止に向かって速度を失くす。
「オカシイよ、本当に。俺はオカシイんだ」
そう言って呉さんは私の身体を抱きしめた。回される腕の長さと硬さに男の人を知る。香るのは独特の煙管のそれではなく、呉さん自身のものだ。
耳元に吐き出される言葉がやけに切なげで、私のほうが困り果ててしまう。
「おかしいってそういう意味じゃ……」
「分かっているよ、うん。……いや、違うんだ……そうじゃなくて、俺が言いたいのは……」
「……ごめんなさい」
慟哭に聞こえた呉さんの言葉は、傍から聞けば、私に許しを乞う懺悔にも似ていた。
呉さんの中の何かがこんがらがってしまいそうで、咄嗟に謝っていた。それに小さく笑われる。
「君が謝ることではない」
おかしい。
オカシイ。
その言葉は呉さんではなく私自身をも追い込んでいる。
──あの日犯した禁忌。
「(あれ……?)」
その時は思っていたのだ、「なんだこれくらい」と。けれどそれから色々知るにつれて、自分がとんでもないことをしたんじゃないかって。
ずっと目の前で、隣で、間近で、存在していたはずの呉さんが分からなくなったのもその頃からだ。
1人になると――、いや、独りになるといつもその事実に頭が壊れてしまいそうになる。悪い予感は確信に変わり、想像は現実に。
だから私は、
毎日、この大きな屋敷にくるのだ。
呉さんも、怖いから私を拒まない。滑稽な傷の隠し合いで私たちは成り立っている。
「……君は優しい」
「いきなりですね」
「すまない」
「―――――……?」
一言、そう呉さんが言った。
重くはなくとも、切実さがあった。
「(なんだっけ)」
そう。私と、呉さんはあの日──……そう、■■で、────だから。
……うん? なんで謝るんだろう? ■■■は私が──。
「俺ひとりの問題だったのにね」
そう呟いた呉さんに、ぼやけた思考の焦点が戻ってくる。私はきゅ、と着物を掴む。呉さんが消えてしまいそうなほど儚く見えたからなんて言ってしまいそうだが、実際はただ、触れたかっただけかもしれない。
「まだ熱あるんですか?」
努めて、いつも通りの声音でそう言った。するとその馬鹿馬鹿しい私の強がりに呉さんものってくれて。くすりと微笑んでから顔を上げ、そして私のことを見下ろす。
「そうなんだろうか」
呉さんの瞳に映る私自身と目が合った。くらくらと平衡感覚を失った意識が揺れて、気持ち悪い。
呉さんと私──が、……? 何をして? 呉さんのことが分からなくて■■、それは──。
こちらを見下ろす呉さんの目に感情はない。
無関心の瞳、消えた表情、瞬きはない。自分の下で静かに混乱の沼に沈む私を見殺すようだった。
「呉さん」
渇いた声だった。
それを合図に蛇が首をもたげるように様相を微笑みに変えた呉さんから目が離せない。
ぐっと近づく距離。交じり合う吐息。熱が発生する視線。
「熱があるか、確かめてくれますか?」
「くれ──、」
抵抗するという選択肢は、存在しなかった。
近付く顔に目を閉じる暇もない。
──口付けは、経験不足の私が算出した想像より遥かに熱かった。
荒くも、扇情的なそれ。呼吸の合間に聞こえた「菫、すまない」という呉さんの囁きに心が泣いた。
酸素を与えるような生かすキスにも、呼吸を奪う殺すキスにも、どちらにも思えた。与えも奪いもする。私と呉さんの関係そのものみたいだ。
「くれ、さ……。私、なにかわすれてる?」
呉さんは1度止まり、またキスをする。
そして私は何を忘れたのかも忘れてしまった。
呉さんの陰りゆく瞳はまるで灰白色にくすんだようで。私は見ていることも出来ず、見つめ続ける度胸もなく、そっと瞼をおろした。
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