第19話

わたしの手の熱、にしては熱すぎる。火がついたというよりは、何かが燃えるような何かが鯱歯の中でどくどくと流れているように。


「三海、何を――」


 異変に気づいたユキが振り返る。それと同時に、鯱歯から眩しい光が放たれた。

 黒煙を消し飛ばしてしまうような光が銀岩山を包む。それはどんどん眩しくなって、白い光の中にいるような錯覚を生んだ。


 光が、消える。

 あたりに広がった光は一気に終息する。見慣れた山の景色に戻ったと同時に、何かがぽつぽつと降り注ぐ。空を見上げるけれど雲はない。けれど湿った空気があたりに漂っていた。


「……雨が降ってる」


 同じく空を見上げながらユキが言った。アッコロさんもこっちにやってくる。


「これもアニキのおかげっすか?」

「違う。俺は何もしてない」

「となると……ま、まさか」


 視線がわたしに向く。けれどわたしじゃないから首を横に振った。わたしは人間だもの、こんなことできるわけがない。

 雪ではなく、温かな雨。空が泣くようにぽつぽつと落ちてきた雨は次第に勢いを増す。山の火を消すほどの雨へと変わっていった。


「恵みの雨ってやつか」


 ユキが呟いた。このタイミングで雨が降るなんて、天気が銀岩山を守ろうとしているみたいだ。

 そういえば大天狗さんは――と、その方向を見た時だった。


 わたしたちでも大天狗さんでもない、別の人がそこにいた。長身の体躯に、腰までありそうな長い黒髪。はだけたアットゥシから海焼けした厚い胸板が見えている。腕はがっしりと太く、腕や胸のあちこちにしゃちを模した入墨タトゥーが入っていた。


「なんだなんだ。喧嘩の後にしちゃ随分派手だなァ?」


 男はあたりを見渡して言う。この大変な状況だと言うのにからりとし、よく通る大きな声だった。

 それから大天狗さんの方に近づく。糸で巻き上げられた大天狗さんの羽根を摘まむと、いとも簡単にひょいと持ち上げてしまった。


「お! 大天狗じゃねぇか。久しぶりだなァ」

「き、貴様……!」

「氷だの糸だの、大変なことになってるじゃねぇか。そんな趣味があったとは知らなかったぜ」


 男はガハハと声をあげて、豪快に笑う。摘まみ上げた大天狗さんを地面に下ろすと、今度はこちらを向いた。

 ユキが警戒しててのひらを向ける。けれど男は「おっと」と短く言って、両手をあげた。


「そういうつもりじゃねぇんだ。安心してくれ」

「……お前は誰だ」

「って言われると、説明が難しいんだよな……ま、おまえらのことはよく見て知ってるから安心してくれ。お前がユキだろ?」


 指をさされてユキがたじろぐ。初対面のくせに、この人はユキのことを知っている。

 その指が「次は……」と誰かを探していたけれど、行き先は定まらず、男はあたりをきょろきょろと見渡していた。大天狗さんでもユキでもわたしでもない、となれば……。


「あれ。さっき、そこにいたヤツがいねぇなァ。八本脚のすばしっこいヤツ」

「……もしかして」


 気づいて見れば、先ほどまでそこにいたはずのアッコロさんがいなくなっていた。まさかと疑いながらユキの襟を見れば、ミニサイズまで体を縮めた土蜘蛛が隠れていた。


「むり、本能でむり、あいつやだ……」

「お、おい。こんな時に隠れるなって」

「アニキがなんといっても! こいつだけはいやだ! こわい」


 このやりとりによって、アッコロさんがどこに隠れたのかわかったのだろう。長身体躯の男は苦笑した。


「変わらねぇな。あれはてめぇが悪さしてたのがいけないんだろうが」

「ヒッ……」


 アッコロさんは答えず、ささっと身を隠す。ついにわたしのところからもその姿が見えなくなった。

 ここまでアッコロカムイさんが怯えるなんて。わたしの時よりもひどいかもしれない。この人は誰だろうと改めてその姿を見上げた時、後ろから声がした。


「……海神レプンカムイ」


 それはセタの声だった。なるほど、この男が海神レプンカムイならアッコロさんが怯えた理由も納得する。だってアッコロさんを海に封じたのは海神さんだもんね。

 白狼神の姿に戻っていたセタは、こちらに向かって歩きながら人の姿に戻る。これに気づいた海神さんが顔をぱっと明るくさせて反応した。


「セタ、元気そうだな! いいツラしてんじゃねーか」

「……お前のおかげで苦労が耐えねぇんだよこっちは」

「ハハッ。いいじゃねーか。少しは動いた方が元気でるぜ?」


 どうやらセタと海神さんも知り合いらしく、セタは海神さんに肩をばしばしと叩かれている。その音も動きも豪快だ。セタは嫌そうに顔をしかめてため息をついた。


「なぜ出てきた。話がややこしくなるからでてくるんじゃねぇ」

「そりゃほら。偶然、駆けつけたカッコイイ海神ってことでよ」

「……よく言う。偶然ではなく、しっかりと聞いていたんだろうが」


 セタが山頂を見上げたのでわたしもそれに倣う。山頂の火は消えていた。雨がぜんぶ止めてくれたのだと思う。


「山頂は大丈夫だ。雨が降って火も消えた。うるせぇ天狗たちは軽い怪我程度で黙らせてやったから安心しろ」

「お。さっすが狼神だなァ」

「誰のせいだと思ってる」


 再びセタの背がばしばしと叩かれる。セタの表情には苛立ちが滲み、海神の対応に疲れている、というのがこちらまで伝わってくる。特に海神はセタと並んでも上回るほど体格がいい。力もありそうだし、手も大きい。屈強という言葉の似合いそうな体だ。セタの背が赤く腫れてしまうんじゃないかと心配になる。


「さて。後始末をするかねぇ」


 海神はそう言って、大天狗の元に再び寄る。


「アッコロカムイ、糸を解いてやってくれ」

「ヒイッ……え、糸?」

「おう。このままじゃ話ができねぇだろ? こんだけ数が集まれば拘束を解いたって悪さしねぇよ」


 アッコロカムイさんは怯えながらも顔だけを出す。大天狗に巻き付けた糸を吸いこんでいった。

 大天狗さんの体を締め上げていた糸が消えていく。完全に糸がなくなると、アッコロさんは再び顔を隠した。さっきまで格好良く戦っていたのが嘘みたいな怖がりっぷりだ。

 拘束が解かれても大天狗さんは抗おうとしなかった。諦念してどかりと座りこむ。けれど海神を睨みつけていることから、恨みはまだ燻っているらしい。


「……セツカ様を奪った海神め」

「それに関しちゃ何とでも言ってくれ」

「我は絶対に許さぬぞ。お前が、お前が――」


 すると海神さんはうんうんと数度頷いた。大天狗に恨まれているなんてとっくに知っているといった素振りだ。


「まあまあ。積もる話はたくさんあるだろうからよ、まずは飲もうや」


 飲むとは。目を瞬かせていると、海神は岩の後ろから何かを取り出した。軽々と片手で持ち上げてはいるが、わたしじゃ両手使っても持ち上げることさえできないだろう大きな酒樽だ。いつの間にか岩の後ろに隠していたらしい。


「酒はまだまだあるからな。子分の天狗たちも呼んで、みんなで飲むぞ」

「は……飲む? みんなで?」


 ユキは呆然としていた。そりゃそうだ。わたしだって理解できない。どこがどうなってみんなで飲む話になったのか。

 海神はユキの方を見る。にかりと白い歯を見せて笑った。


「わかりあうためには酒を飲むのが一番だ。昔は大天狗に逃げられたからなァ、今日はとことん付き合ってもらうぜ」


 大天狗としては嫌なようでがっくりと肩を落としていたが、これ以上抗う気はないらしい。渋々立ち上がって「仕方あるまい」と告げた。


「セタの家、借りるぜ。つまみあるか?」

「誰がてめぇに家を貸すか。飯もやらん」

「おいおい、つれないなァ。何ならセタの昔話してやってもいいぞ? お前が大雪女にやられてギャンギャン泣かされ――」

「わかった! 場所提供ならしてやるから、黙ってくれ」


 なるほど。セタは海神さんが苦手みたいだ。あんなに慌てて話を遮るなんて珍しい。いつもマイペースなセタがこんなに狂わされてるなんて。

 大天狗さんが呼んだらしい天狗たちが山頂から次々下りてくる。パウチ姉さんもやってきて彼らに手当てをしながら、飲み会場所となる我が家の場所を教えていた。

 イワサラウスさんもろくろ首さんやミントゥチ、岩魚坊主さんを呼びにいくと話して山を下りていった。みんなお酒が好きなので楽しみらしい。


 山が静かになっていく。一時はどうなることかと思ったけれど、銀岩山の火も消えた。みんなが山を下りていくのを眺めていると、後ろから誰かに肩を叩かれた。それは優しく、けれどとても大きなてのひら。


「三海」


 振り返ると海神さんだった。


「頑張ったな」


 わたしは海神さんを見上げて頷く。海神さんは優しく目を細めて、それから頭をたくさん撫でてくれた。頭なんてすっぽりと覆えてしまいそうな大きなてのひら。髪がぐしゃぐしゃになりそうな撫で方だったけれど、心地よいと思ってしまう。


「三海ー! 行くぞー!」


 前方からユキの声がした。なかなか来ないわたしを心配して声をかけてくれたのだと思う。

「いま行くね」


 返事をして駆け出す。海神さんの優しいてのひらの感覚は、なかなか消えてくれなかった。

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