篠宮椎名の七不思議研究ノート

如月白華

序章 転校

第1話 篠宮椎名

 目の前にあるのは、古い扉だった。


 ひび割れた木の板。重たそうな鉄の取っ手。しんとした空気が張りつめていて、物音ひとつしない世界に、私だけが取り残されたようだった。


 その前で、私は立ち尽くしていた。

 足が――どうしても、前に出なかった。


 「大丈夫。一緒だから」


 声とともに、そっと手が重なる。指先から伝わるぬくもりが、胸のあたりにじんわりと広がって、張りつめていた気持ちがふっとゆるんだ。


 けれど、目の前の扉は、静かにそこに在り続けていた。ただそこにあるだけなのに、なぜだか――心の奥に、言葉にならないざわめきがにじんでいく気がした。


 扉のすき間から、ひやりとした風が吹き抜ける。古びた紙と木の匂いが混じった空気が、制服の裾をかすかに揺らした。


 何かが違う。けれど、うまく言葉にならない。


 本当に……入ってしまっていいの?


 胸の奥で、小さなざわめきが波紋のように広がっていく。なぜか拭えない不安があった。


 (……どうして、こんなことになったんだろう)


 そう思ったとき、記憶が、ふっと揺れて浮かんできた。すべてのはじまり。数週間前の、あの朝のこと――


 ***


 閉じたまぶたの向こうから強い光を感じて、私は目を開いた。


 いつの間にか寝てしまっていたらしい。

 電車の乗客はまばらで、皆どこかぼんやりと自分の時間に沈んでいるようだった。


 私は窓際の席に座ったまま、指を組み、スカートの上で軽く揺らす。それは癖のようなものだった。緊張すると、いつもこうする。


 膝に落ちた朝の光は、薄くて頼りない。

 心を温めるには少し足りなくて、でも、冷たすぎることもなかった。


(……遠いところに来ちゃったな)


 心の中に言葉が浮かんだ瞬間、胸の奥に何かがふわりと沈むような感じがした。


 東京を離れて、もう2時間以上。

 乗り継ぎを繰り返し、気づけば景色はすっかり違っていた。


 喧騒も、雑音も、駅のアナウンスも消えて、ただ、風と木々の音だけが車窓の外に広がっている。


 静かだった。

 でも、それが少しだけ、心地よかった。


 ***


 篠宮椎名。14歳。

 今日、私は生まれ育った東京を離れ、新しい場所へ行く。誰も私を知らない町。

 誰も、昔の私を見ていない場所。


(……きっと、うまくやれる)

 そう思っていた。いや――思おうとしていた。


 窓の外に目をやると、遠くの稜線がにじんでいた。霧のせいか、それとも光のせいか。どこか夢の中の景色みたいだった。


 私はそっと目を閉じた。


 ***


 ――3週間ほど前の夜。夕飯の最中だった。


「私、海外勤務になりそうなの」


 母の声が、頭の奥でふわりと響いた。

 それは突然だったけど、意外と驚きはなかった。むしろ私は、その言葉をどこかで待っていたような気さえした。


 私が作った、ハンバーグとスープに、母は箸を動かしながら、何気なくその話を口にした。


「……急だね」


「うん、まあ……うちの会社、いつも突然だから」


 母は少し笑った。でも、その笑顔はどこか引きつって見えた。ほんのすこし、後ろめたさが混ざっていた気がする。


「行き先は?」


「ロンドン。来月の初めには行かなきゃいけなくて……。半年か、1年くらい」


 私は、箸をを止めたまま、少しだけ考えた。


「……じゃあ、私は?」


「それなんだけど」


 母は、カップに手を添えながら言った。


「叔父さんのところにお願いしようと思ってる。航、私の弟。小さい頃にあったことがあると思うけど」


 私はすぐには何も言わなかった。ただ、小さく息を吸って、言葉を探す。


「……別に、ここで1人でもやっていけるよ」


 そう口にすると、母は少しだけ驚いたような顔をしたように見えた。


「料理もできるし、洗濯もひと通り覚えたし、忘れ物もしない。……それに、もともとそんなに一緒にいたわけじゃないし」


 母の箸が止まった。


「……そうだね。仕事ばっかりで、ごめんね」


 ぽつりと落ちたその声は、私が想像していたよりも、ずっと寂しそうだった。


「ほんとはもっと、ちゃんとあなたのそばにいたかったよ。でも……」


 言い訳がましくならないように、気をつけてるのがわかった。そこにちゃんと“気持ち”があるのが、私にも伝わった。


「でもね」


 母は、カップを両手で包みながら、静かに言った。


「それでも、あなたを1人にはしたくないの」


 今度は私が少し驚いた顔をしてしまう。

 私はもう大丈夫なのに。

 ひとりでいることにも、慣れてるのに。


 そんな気持ちが、一瞬だけ胸に浮かんだ。

 でも次の言葉で、すっとその棘がほどけていった。


「これはね、私のわがままなの。あなたを、航のところに預けるのは。……勝手に、ひとりにさせたくないって思ってるだけ」


 母は笑った。ほんの少し、涙がにじんだ目で。


「椎名は強い子だって、わかってる。ひとりで頑張れる子だって、ちゃんと知ってる。でも、それでも……あなたに“誰かがいてくれる”ことを感じてほしいの」


 私は、なにも言えなかった。

 口を開いたら、何かがこぼれそうな気がして、ただ黙っていた。

 

 夕飯のあとのキッチンで、洗い物をしている母の背中を見ながら、私は思った。


(私はやっぱり、守られてるんだな)


 一緒にいる時間は少なかった。でも、それでも母は、ずっと私を見ていてくれた。そして今も、ちゃんと“そばに誰かがいてほしい”って思ってくれている。


 たぶんそれだけで、私は十分だった。


 ***


 列車が駅に近づく。

 アナウンスが流れ、私は静かに立ち上がった。


 キャリーケースの取っ手を握りしめて、ゆっくりと歩き出す。


 窓の外には、小さな駅のホームが見えた。

 鈍く光るコンクリート、鉄柵、古びた看板。人影はほとんどない。


 電車を降りた瞬間、ひんやりとした風が頬を撫でた。秋の匂いが、すっと鼻をかすめる。


(ここが、霧ヶ原)


 静かな山あいの町。

 人が少なくて、音も少なくて、何もない場所。


 だけど私は、それを望んでここに来た。


 誰にも気づかれず、誰にも期待されず、

 波風を立てずに、目立たずに――普通のふりをして、生きていく。


 私はここで、もう一度やり直す。


 静かに。淡々と。

 まるで最初から、そうだったかのように。

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