銃口に剣先、花に筆

たけすみ

遊機戦隊チップレンジャー 第11話

アバンタイトル

 春の盛り、既に汗がにじむ。その汗を払うように花に似た香が薫る。


 部室には香が焚かれていた。そうでなければ、部屋中が今頃、土や埃に似た墨液の匂い、あるいは日によっては溶けた白蝋の臭いがたちこめているはずだ。

 かといって軽い半紙が風に乱れるから、換気のために窓を大きく開けることもできない。

 そのためにいつの頃からか、この学校の書道部では、午後の部活の時間には香を焚くことが許されるようになっていた。


 昔は華道部が毎日書道部のために花を生けてくれていたそうだが、華道部は令和2年度の全校活動停止の折に部員たちの意思によって廃部となった。

 以来、誰かが密かに活動中の書道部の部室に安物の香水を撒くようになり、それが校則に触れるからということで講師公認で香を焚くようになったのだ。

 今日はラベンダーの香りだった。


 誰かが

「安い香水っぽい」

 と言った。


 これに墨池に筆先半分だけをおろした細筆で、かな文字の『粘葉本和漢朗詠集』を臨書をしていた国立舞鞍まいくら学園高校2年の書道部副部長の日衣良ひいら蘭花らんかはくすりとした。

 だが、隣で真剣な顔で行書、米芾の『蜀素帖』を臨書している同校1年生の狼具ろうぐ若葉わかばは耳にも届かないという風に、筆を止めず表情も止めず、呼吸も浅い。


『集賢林舍人』


 半紙にそう書き署名を入れて、ふうと息をついたところで、若葉はようやく香りに気づいたようで、ふっと表情をゆるめた。その目は書の出来の有無ではなく、明らかに遥か彼方を見ていた。

 懐かしい記憶の中だ。

 ラベンダーはまさに今の頃から夏にかけて咲く花だ。


 若葉に父はない。母は、独りで若葉を産み、そして既に他界している。

 小学校にあがる少し前から高校の寮に入るまで、ずっと母方の祖父母に育てられた。

 母は多忙な仕事の合間にわずかな休みがとれると、狭いアパートから広々とした実家に若葉を連れて戻り、祖母とともに庭の花をいじっていた。


 墨液の匂いは土の匂いに少し似ている。というより、庭いじりの土作りに炭を使うことがしばしばあり、そのせいもあるかもしれない。


 今の時期の花の香りで、とくに思い出深いのがラベンダーだった。

 だが、どこの通りもアスファルトで舗装された南関東の都会では、ラベンダーなど植物園なり季節の花が取り柄のレジャー施設でも行かなければ、生の花の香りを嗅ぐことは出来ない。


 若葉も幼い頃は自ずと土に触れて育ち、今は筆を持つたび、墨をするたび、その中に仄かに香る土に似た匂いに幼い頃の母の面影を想う。


 若葉の母は、若葉が保育園に居る頃に過労から内臓を悪くして亡くなった。葬式にすら、若葉の父だと名乗る人間は来なかった。

 いや、来たとしても迷惑だっただろう。

 祖父母に育てられたとはいえ、盆と正月には親戚一家が帰省で来る。その端々で耳にするのだ。


 若葉は母が妻子持ちと不倫して孕んだ子で、体調がすぐれなくても病院にも行けないほど多忙だったのも、その慰謝料を相手方の妻に訴えられて求められたためだ、と。そしてその慰謝料の替わりに、若葉の親権は間男家族には渡さないというのが条件だった、と。


 母は多忙でも、必ず若葉の成長の折々では娘の側にいてくれた。熱を出した時、保育園の運動会、親子遠足、おいもほり……。

 どれだけ辛くても娘の若葉に当たることはなく、かわりに幼い娘を抱きしめてさめざめと泣くような女だった。


 アパートの窓辺には、帰省のたびに実家の庭から切り出してきた切り花が花瓶に活けられていた。ラベンダーに百合に、蘭、夏には向日葵だったこともある。

 今でもそのすりガラスの窓を思い出す。


 若葉は筆を置き、半紙を変えた。小学3年のときから使い続けている鉄の蛙の文鎮を置き、筆を取り、筆先を墨液を溜めた墨池という器の中の突起で整える。

 この部では臨書という古典の書き写しの鍛錬では硯で墨は擦らず、墨液を使う。硯で擦った墨の方が濃淡やにじみの使い分けができるかわりに、固形墨を摺っている時間を多く取られる。その時間を一枚でも多く臨書に回した方が良いという意向からだった。


 墨を摺るのはコンクール用の画仙紙や半切などに揮毫きごうする時だけだ。書道部の部員は各学年2名から3名ずつで総勢7人ほどだが、今日参加している者は全員、それぞれの私物の墨池を使っている。


『集――』


 若葉は再び同じ5字に臨む。

 行書は筆先の感触とリズム感が肝心な書だ。既に蜀素帖は中学のときから全文、何十何百と繰り返してきた。既に形を追う形臨の域を出て、筆致の意を追う意臨の域に達している。見ずに臨書する背臨の域に達するのにはまだしばらく掛かりそうだった。


 半紙にそっと添えられた左腕の内側、セーラー服に重ねて羽織ったカーディガンのまくり上げた袖口から、まるで本気の自殺を図った跡のような縦長の傷跡と縫い跡が白く浮いていた。




 若葉の書道は、祖父母の家に引き取られて、間もなく通わされるようになった。元々字の覚えが遅く、それを案じた祖父母が近くの書道教室に硬筆習字に通わせてくれたのだ。


 だが、師匠はその手さばきをみて、一月と通わぬうちに

「この子は毛筆が向いていると思います」

 と言われて、毛筆書道の講座に切り替えた。

 小学校1年から毛筆を習う子供は少ない。周りの生徒はみな、10歳より上の子ばかりだった。


 1年生の時、書道教室での書き初めの提出課題で、若葉はその才能の頭角を現した。

 県の書き初め大会にて1年生の部の最優秀賞をとった。


 目覚ましい手柄だった。本人にとっても、生まれて初めて母と祖父母、伯父伯母以外の大人に満面の笑顔を向けられた出来事だった。

 小学3年になり、学校の授業でも書道を扱うようになると、当然のように市の教育胃委員会主催の書道展の上位入賞者となった。


 翌年、学校で少々いじめられて、書き初めの課題作業日に書道セットを一式隠されたことがあった。

 その時も先生が貸してくれた慣れない大筆と、硯で擦った墨ではなく墨液を水彩セットのパレットに出したもので半切一枚に一発書きで提出した。

 本人としては家に帰ってから泣きながら座布団を叩くほどの不服の出来だったが、そんな作品の4年生でも県の書き初め大会に推薦提出され、しかも今度は県知事賞まで取った。


 この書をきっかけに県内の著名な書家の先生に、自分のところの弟子にならないかと誘われた。

「小学生のうちは無償でいい、墨と紙代、必要ならコンクールの出品料もこちらで用意する」

 そう言われて、週3日祖父母の車の送り迎えで県内の大きな書道用品専門店が営む書道教室通わせてくれるようになった。


 それから5年生6年生では、県教育委員会主催の書き初め大会はもとより、書道の級位段位の認定をしている全国規模の組織により運営される大会で学年別の全国優秀賞、最優秀賞を2年続けて獲得した。


 ……同じ書道部の隣の席に座る日衣良蘭花とは、その頃から面識がある。

 いわゆる全国大会の表彰式で、彼女も最優秀賞の常連であり、その後の懇親会で年も1つ違いと近いことから知り合った。


 中学に上がってからも尚、同じ師匠からは「無償のままでいいからうちに通ってくれ」と言われ、それまでと同じ週3日通った。

 古典の臨書も、中学に上がった頃から始めている。楷書だけではなく、行書、草書、そして隷書も十数文字程度は触れてきた。

 その中で最も向いていると師匠に言われたのが行書と草書だった。


 本人としては中学時代から米芾や顔真卿の『祭姪文稿』を好んで臨書してきた。

 後者は特に書の内容を知って強く共感するようになった。親の眼の前で首を撥ねられた甥を思って怒りを含んだ筆致は、思春期特有の正義感と相重なり、また幼い頃に感じた母の死に対する理不尽と怒りに通じているように思えた。


 そうして中学2年の冬、南関東にある青葉県にある国立舞鞍学園高校より、書道部の特待生枠での誘いを受けた。生活に関しては学生寮を用意するという。


 むろん国公立でもあることから、学費は安い。しかも寮も6畳程度ながらも個人部屋があてがわれるという充実ぶりである。

 祖父母は孫を遠くにやることに若干の躊躇いを覚えたが、若葉自身は年老いた祖父母に背負わせる学費と書道しかまともなとりえのない自分の身の振り方として考えた。


 そしてなにより書道大会を通じて仲良くなった蘭花がひとつ上の先輩として在籍していることから、入学を決めた。


 ――『集賢林舍人』


 大きく息をつくようにラベンダーの香を胸いっぱいにすいこんで、落款を入れ、筆を置いた。

 気がつけば、隣りに座っていた日衣良先輩がいない。トイレだろうか。


 ――その時、不意に左前腕の内側に、痺れるような痛みを感じた。縫合痕のあたりだ。


 腕時計でも見るようにそのあたりを一瞥して、まるで少し肌寒いかのようにカーディガンの裾を伸ばして傷跡を隠し、そっとさすった。


 その時、2つ目の文鎮のかわりに置いていたカバーをつけていないつや消しの銀色のスマートフォンが震え、通知表示が出た。

 『バグ』というアプリからだ。


『初仕事だ。裏山の旧採石場に来い』


 これを見て、若葉は胃のあたりをさすった。

 携帯画面を隠すように膝の上に下ろし、バグのアプリを開く。

 すると、派手な原色のボディスーツとフルフェイスのヘルメット姿の数名を相手に、十数人の灰色のボディスーツにつるりとした金属質の頭部をした量産型戦闘体ローエンドの集団が次々と倒されていく映像が流れてくる。

 先程の通知文はチャット欄に表示されている。


『今すぐ来い ダイパーン回収用ミドルレンジがチップレンジャーに襲撃を受けてる』


 若葉はスクールバッグから黒い不織布のマスクを引き抜いて、そっと席を立った。


「ちょっと失礼します」


 カーディガンを脱いで椅子にかけ、マスクを顔にかけながら、誰にいうともなくそう言い残して部室を出ると、部室棟から校舎に戻り、昇降口から外履きに履き替えて、裏側校門へ向かって走った。


 その最中、左腕の内側を、まるでミミズかなにかが蠢くように動いているのを感じる。それを抑えながら、狼具若葉は顔をしかめて校外を出て、裏山へと走っていった。

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