欠けた微笑み
イーゼルには、いつもの肖像画が立てかけられていた。
欠けた微笑み。
輪郭だけの空白。
アリアは、窓のそばに立っていた。
「……いない」
アリアはイーゼルの前に立ち、視線を落とした。
レトが最後に触れていた筆が、キャンバスの前に置かれている。
指先が、その筆に触れる。
冷たい。
レトは、ここ数日姿を見せていなかった。
最初はただの気まぐれかと思った。
だが、一週間経っても彼は戻ってこなかった。
「……レト」
アリアは小さく呟いた。
指先が、冷たい筆をそっと拾い上げる。
「……どこにいるのですか」
――――――――――
「……病院」
アトリエの管理人からそう聞かされたのは、三日後のことだった。
「彼……もう長くないそうですよ」
「……長くない?」
アリアはその言葉を理解できなかった。
「まさか、レトは死ぬのですか?」
「ええ……詳しくは知りませんが病気らしいです。」
――――――――――
病室の扉を開けると、静かな光が差し込んでいた。
レトは窓のそばに座っていた。
痩せた体。
白いガウンに包まれた体は、透き通るように白かった。
「……なんだアンドロイド、来たのか」
レトが声をかけてきたが、その声には力がなかった。
アリアはレトの傍に立つ。
「……病気らしいですね?」
「ああ、医者は余命を告げてきたよ」
「……助からないのですか?」
「ふ……そうらしい」
レトは自嘲気味に笑った。
「……なぜ、黙っていたのですか?」
「お前に話しても、意味はないだろう」
微かに目を閉じ数拍の後、彼はおもむろに口を開く。
「いや……俺はこうして、お前が来ることを望んでいたのかもしれないな」
アリアはレトの隣に腰を下ろす。
その言葉の続きを待つように。
レトはゆっくりと瞳を開く。
「……俺が“描くこと”を恐れている理由を知りたいか?」
「……はい」
レトの目が、静かに揺れる。
――――――――――
白いアトリエ。
大きな窓から柔らかな光が差し込んでいた。
部屋の中央には鮮やかに彩られたキャンパスが一枚。
筆が走る音がする。
細く、柔らかな線がキャンバスに描かれていく。
「どう?」
女性の声がした。
レトはその声に、手を止め顔を上げる。
キャンバスの前に、彼女が立っていた。
長い黒髪が風に靡く。
目元は涼やかで、唇には柔らかな笑みが浮かんでいる。
「まだだ」
レトがそう答えると、彼女は微笑んだ。
「……いいわね。あなたの線は、どこか迷っている感じがする」
「迷っている……?」
「ええ、だからいいのよ」
彼女はイーゼルの横に腰を下ろすと、窓の外を見つめた。
窓の外では、木々が静かに揺れていた。
「あなたの絵は……どこか儚いのよ」
「儚い?」
「うん。でも、そこが素敵」
彼女は静かに微笑んだ。
——その笑顔が好きだった。
柔らかく、穏やかで。
そこには安らぎがあった。
完全ではないからこそ、美しかった。
「……あなたの絵には、心があるわ」
「心?」
「そう。だから、完成していなくても……美しく感じるのよ」
——彼女のその言葉を、レトは信じていた。
いつでも自分に希望と安らぎを与えてくれると、そう思っていた。
だが——
「最新型アンドロイド、芸術分野にも進出」
「人間を超える技術力、完璧な描写」
「“感情”を再現するAIが発表」
レトはそう書かれている新聞を握りしめた。
「……くだらない」
「……そうね」
彼女は新聞をテーブルに置いた。
その顔にはいつもの笑みはなかった。
「こんなもの、ただの模倣だ」
「……そうかもしれない」
「“感情”なんて、AIに再現できるはずがない」
「でも……」
彼女の声は微かに震えていた。
「……模倣でも、“完璧”なら、それで充分だと思う人はいる」
「それは——」
「この間、クライアントから“アンドロイドに描かせた方が安くて早い”って言われたの」
「……冗談だろう?」
彼女は静かに首を振った。
「私じゃなくても……いいってことよ」
彼女は次第に、アトリエに来なくなった。
以前は毎日一緒にいたのに。
隣で、同じ様に絵を描いていたのに。
彼女が筆を捨てた日——
レトはその瞬間を覚えている。
「……もう描けない」
彼女はそう言った。
白いキャンパスの前で、筆を床に落とした。
カラン——
その音が、アトリエに響いた。
「……描けなくなったの」
「どうして」
「……だって、必要ないもの」
「必要ない?」
「完璧なものがあるなら、私達の不完全な絵は……無価値よ」
彼女は笑った。
でも、その笑顔は、いつものあの笑顔とは違った。
「だから……もう必要ないわ」
レトは彼女の手を取った。
「そんなことは——」
「……ごめんね」
彼女は静かに目を伏せた。
「私の手は……もう、描けない」
そして——
レトが最後に彼女を見たのは、彼女の遺された部屋だった。
窓は開かれていた。
カーテンが揺れていた。
彼女の筆が、床に落ちていた。
そこには彼女が……彼女の肖像画が未完成のまま、イーゼルに立てかけられていた。
「なぜ……」
レトはその場に膝をついた。
「……もう君に会えないのか」
彼女の「終わり」は、「完成」と共に訪れた。
”未完成”では彼女に会えない。
”完成”させたら彼女は行ってしまう。
「俺は……俺はどうすればいいんだセラ」
だから——
だから、俺はもう描けない。
――――――――――
「……でも」
アリアは静かに目を伏せる。
「……それが、その苦しみがあなたの“心”なら」
アリアはそっと、レトの手に触れた。
「私は……あなたと共に感じたい」
アリアの手が、そっとレトの指に触れていた。
静かに、時間が流れていく。
朝の光が、静かに彼らを包んでいた。
「……彼女は飛び降りた」
レトはその場にはいなかった。
彼女の最期の顔を、見ることはなかった。
「俺は……彼女を救えなかった」
「だから、俺は“完成”を恐れている」
——完成させれば、すべてが終わる
——消えてしまうから
「でも……」
アリアは静かに目を伏せる。
「……それがあなたの“魂”なら」
アリアはそっと、レトの手に触れる。
「私は……あなたと共に感じたい」
「……」
静かに、時間が流れていく。
静寂が彼らを包んでいた。
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