欠けた肖像
東本西創
見えない心
静寂——
空気が音を失い、光が重たく沈んでいく。
重たく閉じられたカーテンの隙間から、朝の光が薄く差し込む。
光の粒子が空気の中を漂い、ゆっくりと朝に溶けていく。
その中央——
そこには、古びたイーゼルに一枚のキャンバスが立てかけられていた。
描かれているのは、一人の女性の横顔だった。
穏やかに流れる黒髪。
頬に添う柔らかな線。
その姿には、かすかな憂いが宿っていた。
——だが、その顔だけが、描かれていなかった。
そこにあるのは、空白。
まるで微笑みが奪われたかのように——
彼——レトは筆を手に取った。
長い指が、筆の軸をかすかに震わせる。
絵の欠けている部分に視線を落とす。
脳裏に、彼女の顔の輪郭が浮かぶ。
——描けない。
筆先は、かすかにキャンバスに触れる。
だがしかし、次の瞬間その手は震え、レトは筆を離してしまった。
カラン——
筆の落ちる音が静寂の中に響く。
ため息が、部屋に沈む。
「……やはり、描けないか」
低く、かすかな声。
空気が重く、沈黙に染まる。
「……なぜ描かないのですか?」
静かな声が、背後から落ちた。
柔らかく、だが確かに響く声だった。
レトは振り返る。
そこにいたのは、一人の少女。
青い髪が静かに揺れる。
銀色の瞳は静かに光を帯びていた。
均整の取れた顔立ち——
だが、その瞳には、どこか冷たい光が宿っていた。
「……お前は」
少女はレトの目をじっと見つめていた。
「アリアです」
「……ああ、アンドロイドか」
その双眸に合わせるように、レトの声にもわずかな冷たさが滲む。
「帰れ」
アリアは微かに首をかしげた。
「あなたの描く作品を見ました」
「……作品?」
「あなたの作品は“未完成”でした」
レトの眉がわずかに動く。
「未完成だから、どうだと言うんだ」
「その“未完成”に……私は惹かれました」
アリアは銀色の瞳を揺らしながら、静かに続けた。
「完全なものには“感情”がありません。でも、あなたの作品には……“揺らぎ”がある」
レトは目を細める。
「……揺らぎ?」
「私はその“揺らぎ”を知りたいのです」
レトの唇に、かすかな嘲笑が浮かぶ。
「お前に“感情”が理解できるはずがない」
アリアは静かに首を振った。
「……この絵には“痛み”があります」
レトの目がわずかに揺れる。
「……痛み?」
「でも……私はそれが“何”なのかわかりません」
アリアがそっとキャンバスに手を伸ばす。
「触るな」
レトは冷たく言い放つ。
アリアと名乗ったアンドロイドはその手を止める。
しかし、銀色の瞳は揺らがない。
「あなたはこの絵を完成させたいのではないのですか?」
「完成させたら……」
レトの声が低くなる。
「完成させた瞬間に……彼女は……セラは終わってしまうんだ」
アリアはじっとレトの表情を見つめる。
「セラ……?」
その名がアリアの口から溢れた瞬間、レトの顔がこわばる。
「お前には関係のないことだ」
「そうですね……でも私は知りたい」
「お前に何がわかる」
アリアの声が微かに震える。
「私は……“理解”したいのではありません」
レトが顔を上げる。
「私は“感じたい”のです」
レトの目がかすかに揺れる。
「感じる……?」
「あなたのその“痛み”が……私には分かりません。だから、私はそれを——感じてみたい」
「機械のお前に“痛み”がわかるはずがない」
アリアはそっと目を伏せる。
「それでも……私は知りたいのです」
レトは口を閉ざした。
アリアがそっとレトの隣に立つ。
先程まで冷たかったその瞳には、どこか熱を帯びた光が宿っているようだった。
「……くだらない、アンドロイドに感情が分かるわけないだろう」
「……だからこそ、私は知りたいのです」
「……さっきから帰れといっているはずだ」
しかし、彼女はその場から動かない。
レトは諦めたように短くため息をつくと、再びキャンバスを見つめた。
先程と変わらず、欠けた微笑みがそこにあった。
レトは筆を手に取った。
しかし、やはりまた手が震える。
カラン——
筆は再び静寂を切り裂いた。
——微笑みを描いた瞬間、彼女が終わってしまう気がしたから。
「……だから、描けないんだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます