歩き続けよう、希望ある限り
錦魚葉椿
第1話 始まりの日
「あいつはとぶタイプじゃない。探してやれ」
親方こと社長は不機嫌にそう言った。
二、三日前から突然おっちゃんは仕事に来なくなった。
現場の人たちは出入りが激しい。突然来なくなることなんかよくあることで、社員寮に全部荷物を残して体ひとつでふらっといなくなった人は覚えていられないぐらいいる。
おっちゃんこと小窪さんはそこそこ腕のいい職人さんだ。
還暦は過ぎていたと思う。
まん丸で太い指をしていたが、細かい作業が得意だと聞く。
社長がまだ自営の職人さんだったころから社長の弟子で、親方が会社を興したころに雇われた最古参の一人。その辺の人たちの関係は、家族とか兄弟よりも深い。
寒い日には、事務所前の自販機でコーヒーをおごってくれる。
数か月前からだろうか、
タバコを吸いながら俯いて、心なしか背中が丸くなっていた。どうかしたのかと聞いても、彼はいつも答えない。そういう人で、それに疑問を覚えたことはなかった。
彼の部屋にはカーテンも吊るされていなかった。
今も社長は現場方から敬意をこめて「親方」と呼ばれている。
親方は私に「見に行って来い」とおっちゃんの住所のメモを渡してきた。メモが示す場所は、会社から二駅ほど離れた、昼間でも薄暗い細い路地の奥にあった。
木目が割れてはがれ、蹴られたような大きな凹凸のあるカビの生えた昭和レトロな玄関扉には腕が入るほどの大きな四角い穴が穿たれている。多分郵便受けと呼ばれるはずのその穴に蓋は付いておらず、受けるモノも付いていない。扉横のすりガラスの格子から封筒がたたきに散らばっているのが透けて見えた。
みたところ15通ぐらいだろうか。緑とか青とか茶色の長3封筒とDM。どれも私信ではなさそうだ。
試しに玄関扉のノブを回してみたが、鍵はかかっていた。
思いっきり回したら、もげおちて開くかもしれないと思ったがそれはやめておく。
窓から部屋を覗き込んだら、傷んだ畳が敷かれた居間らしき部屋と、台所が見える。もちろん鍋は見当たらない。コップと立てかけた箸だけがそこに誰かが居た証拠のようだった。
甘い甘い缶コーヒーを飲みながら一服する。
その姿が脳裏に浮かんだ。
この部屋はおっちゃんそのものだ。
もの寂しさで満たされている。
おっちゃんのプライベートを知っている人はいなかったが、みんなそれなりに断片をつないで彼を探した。
おっちゃんの出身地は遠くで、緊急連絡先にかかれた固定電話は実在しなかった。
一週間ほどで彼の携帯からは料金不払いが原因で不通の旨を伝えるガイダンスが流れるようになり、そしてしばらくするとそれさえもつながらなくなった。
一週間に一回、様子を見に行ってみたが、たたきに散らばっている封筒の山はさらに積み重なって増えている。
この中に電話代の請求書もきっとあるのだろう。
ためしに、犯罪だとはわかっていたが、郵便受けの穴から腕を突っ込んでみた。
床にはもう少しだが届かない。
内鍵の方にも曲げてみる、そっちももう少しで届かない。
どんな風にこの寂しい部屋で過ごしていたのかと思うと、胸が塞いだ。
おっちゃんが行方をくらまして1カ月と少し後、少し離れた高度先端医療専門の病院から電話があった。
親方は電話を切るなり、現場監督用の紺の防寒ジャンパーを引っ掛け、私についてくるように言った。
「来月末までは無理だろうなあと思います」
明日雨が降りますよ、ぐらいの軽さで医師は言った。
本当は家族でない人に病状なんか教えてはいけないらしいし、その義務もないらしい。身寄りは誰もいないことを理解してくれたためか、主治医に少しだけ時間を取ってもらえた。
おっちゃんは末期ガンだった。喉から肺からその辺全部飛び火してしまっているらしく、どうしようもないらしい。
気管切開されて人工呼吸器で酸素を押し込まれ、声を奪われ、手には点滴。
心臓が止まるまで生きていないといけない。
「積極的治療も希望されませんので、医療制度の無駄遣いですね」
壮年の医師の言い様はひどい物だったが、この病院が目指すところを慮れば、実験的な医療に参加せず、医療費も払わず、死を受容した患者は「お店を間違えている」感じなのだろう。
ガンのせいでのどが詰まって息ができなくなって道で倒れていたので、善意の人が救急車を呼んだ。
運び込まれた病院で手に負えないと判断されて転院させられ、この白い巨大な建物にたどり着いてしまった。
看護師さんも社会福祉士さんも「ああ、いっちゃった」という表情を隠さなかった。
「心を閉ざしてしまって」コミュニケーションが取れない状態だ。と彼らはいった。
死を受容できていないみたいで、と。
ちがう。
おっちゃんは生かされて困っている。
仕事はできない、もちろん貯金もない。
これだけ医療費をかけましたから払ってくださいといわれても、払える見込みがないから黙っておくしかないのだと思う。物理的に声も出ないが。
おひとりさまで死ぬ。
こんなにも困難なことだとは。
「小窪、探したで。タバコはもうあかんな」
親方は何でもないことのようにニヤッと笑う。小窪さんはこまったように眉を下げて、うんうんと何回かうなづいた。
「おっちゃん。いままでコーヒーおごってくれてありがとう」
握った彼の手はおもったよりあたたかい。
「なにかできることないか、調べてくるね」
おっちゃんは泣いてしまいそうなのを我慢したくしゃくしゃの顔で、点滴でぐるぐる巻きにされていない方の手で片合掌した。
どうやってももう働けないことがわかったので、親方が退職を認めた。
会社の健康保険証を失効させてしまったら、代わりの保険証をつくってあげないといけない。だけど、別の保険に加入するには本人が役所の窓口まで来るか、自筆の委任状が必要だという。出来上がった保険証は自宅に届くのだという。
あの部屋の玄関のたたきに散らばる封筒のひとつになるのだ。
あらゆる機械に繋がれて、自宅に戻ることはおろか病院の別の階に移動することもできないことを説明しても、窓口の公務員は何かを守ろうとしている。
あの腐りかけの古い扉のように、届くはずの手を、阻む何かがいる。誰もいない部屋のたたきに封筒をばらまいて、読んだはずと威張り散らすのと同じ輩が。
生活保護の窓口にも行ってみたら、役人は「水道代と国民健康保険料の滞納情報が来たら動くので3カ月ぐらい先ですかね」と何故かにっこりと微笑んだ。
3カ月後にはたぶん。
彼の手を煩わせることはないだろう。
「おっちゃん。ここ名前書いて」
彼のブルブル震える手にボールペンを握らせて、生命保険のおばちゃんがくれた紙に何とか名前を書いてもらおう。
そしたら生きているうちにいくらかお金がもらえるらしい。
今日は抗ガン剤の日だったようだ。
声をからして彼を呼ぶと、どんより濁った眼をこちらに向ける。
おっちゃんの目は眼球の力が抜けて外向きになってしまっていた。
多分、私の顔はわかっていない。それでも彼は私の声にこたえるようにボールペンを握り、氏名の欄にカタカナでゆっくりと「サイフ」と書いた。
私の手はおっちゃんまで届かない。
事務所に戻って「サイフ」と書かれた紙を見せたら、親方は黙って「小窪利満」となるべく汚い字で書き、生保のおばちゃんは黙って受け取って帰っていった。
氷菓菓子をもってお見舞いに行った日、彼はあわただしく逝ってしまった後だった。
ソーダ味のそれだけは食べられるといっていたのに。
「彼は安らかに亡くなりましたか」
あ―――とため息のような声を数秒伸ばしてから、「だいぶ苦しそうでしたね」と看護師はさらっと答えた。
遺族でもない私に、取り繕わなくてもいいと思ったのだろうか。
あの時の生命保険金で、彼は滞納していた治療代を精算した後、死後事務サービスの会社と契約したらしい。
彼の人生の残骸は、すみやかにスムーズに片付けられた。
彼がどこに埋められたのかは、個人情報だと言って教えてもらえなかった。
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