非時の、香の木の実の、幼木が。
夜詠 月
鳳蝶 1
「それじゃあ、蜜柑のこと、よろしくね」
そう言って、我が初恋の人は、自らの〝新しい旦那〟に腕を絡ませ、足早に去っていく。古い旦那との子を残して。
「……おにいちゃん」
服の裾を引く、小さな手。可哀想に。不安に震えるその手を、私は握って、精一杯の笑みを浮かべる。私は、笑うのは、得意ではない。それでも、笑った。
*
私は、自身が異常者であるという自覚を持っている。こう言えば、何を以って正常か異常を定めるのかと、ひねくれもの、或いは、自身の異常性に目を背けた哀れな異常者から、反論が来そうものだが、そもそも、正常性とは、誰もが普遍的かつ無意識的に受け入れるものであるからして、そのような反論を抱くこと自体が、その論者の異常性の発露であることは、疑いようがなく、私にはその反論に対する反論をする必要性さえないと言わざるを得ない。
私は、愛情に関して、自身に何らかの欠陥があることを自覚している。但し、それが何であるのかを判別することが出来ない。
私は異性愛者であるか。否。
私は同性愛者であるか。否。
私は両性愛者であるか。否。
私は無性愛者であるか。否。
私は異常性愛者であるか。否。
私は私について語るにあたって、否定によってしか、語ることが出来ない。私は自身の持つ性質に対して、それが物理的な自明性を持たない限り、確固たるものとして確信が持てない。何らかの特性、性質に対して、〝である〟と明言することが出来ない。
端的に言えば、私は主体性のない、虚ろな男、ということになるのだろう。
そんな私だが、人並みの感情や情緒がないのかと言われれば、そんなこともなく。たとえ、クオリアの欠けたゾンビのような男でも、恋はする。そもそも、私が今の私になったのは、思春期を終えた頃であって、それ以前は、人並みで、凡庸ではあるにしろ、それなりに多感な男だったのだ。
私の初恋は、叔母だった。
私の母は、私を十四で産んだ。迷惑なことだ。母は母なりに大変だったのかもしれないが、それは別に、母の愚かさと軽率さを赦す理由にはならない。とはいえ、母の性に対する無思慮と軽薄さは血によるものかもしれず、それに関しては情状酌量の余地はある。叔母──つまり、母の妹は、母より十も年下だった。母が私を産んだ時には四歳。私が十の時には、十四歳。私が十六の時には、まだ二十歳。
そんなこともあり、私と叔母はどちらかと言えば、姉と弟のように育った。幸いにも、祖母の家庭は、どうしようもないほどに裕福であり──どうしようもない、正しく、そう形容するのが相応しい──私も母も叔母もその境遇に反して、苦労することはあまりなかった。もしかすると、それが悪かったのかもしれない。
苦労することが、正しい人格を形成する為に必要だ、など言えば、多分に反論を受けるだろうが。結局のところ、痛みを知らぬものは、自らの在り方を定義することは出来ない。苦痛は虚ろな自己の輪郭を知る為に、必要なものなのだ。
だが、私は。この胸の軋みが。痛みなのだと、長らく気付けなかった。それ故に。私はこうも欠けているのだろう。あの胸の痛みに。まだ幼い頃に気付けていたのなら。どれだけ良かったことだろう。そうすれば。私の空虚さは、少しは改善されていたのだろうか?
*
「おにいちゃん?」
そう言って、小さな手が、私の指先に触れる。
彼女も、可哀想な子だ。叔母──
蜜柑は、母から殆ど構われていない。彼女は、香姉さんにとっては、望まずに生んだ子なのだ。
子は、望まれずとも生まれてくる。残酷なことに。
「ああ、済まない。考え事をしていた」
そう適当に返して、彼女の手を解く。九歳。子供だ。私が九歳の頃はどんな子供だっただろうか。きっと不愛想で、可愛げのない子供だったに違いない。
「考えごと?」
「晩御飯。何がいい?」
露骨な誤魔化しだった。賢いこの子にはきっとバレているに違いない。それでも、彼女は優しい子だから、深く追求はしてこない。
「えっと……なんでもいい」
「遠慮しなくていい。何が食べたい? ちゃんと言ってくれた方が助かるよ。私は、何かを決めるのが、苦手なんだ」
「ん、と……じゃあ、ビーフシチュー……。駄目?」
「ああ、いいね。私も好きだよ。じゃあ、ビーフシチューにしよう。圧力鍋を使えば、それほど時間も掛からないから」
最近は牛肉も高いが。お姫様の頼みとあらば、仕方がない。半分は牛筋にして誤魔化そう。野菜は……。じゃが芋は、確かまだ残っていたはずだ。人参も。玉葱は、この前スープを作って使い切ったんだったか。買い物に行く前に、一度冷蔵庫の中を確認しておこう。
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