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 どうして小鳥遊さんがここに? 私は動揺で動きを止めてしまった。

 小鳥遊さんは私の方に目を合わせてにこ、と微笑む。目が合ったのはあの日の自己紹介以来。小鳥遊さんはいつもクラスの中心にいて、私はいつもクラスの隅っこの方にいて目立たない人間だったから。

 こうして、私一人に笑顔を向けられたのは初めてかもしれない。さっきまで抱いていた八つ当たりのような苛立ちがすう、っと不思議に消えていく。


「山田さん、邪魔しちゃってごめんね。ちょっと忘れ物しちゃって」


 山田さん。と名前を呼ばれた。影が薄いから「何だっけ」とか「なんとかさん」みたいに言われることはあった。けれども、喋ったことのない私の名字をきちんと覚えていてくれた。 

 少し、嬉しくなる。


 小鳥遊さんはひらひらと、まるで蝶が飛ぶような軽やかな足取りで、小鳥遊さんの席に近づいた。私の席の隣の隣の席。ただ教室の後ろの入り口から席に入ってくるだけ、なのに本当に綺麗な歩き方で、見とれてしまった。今まで、小鳥遊さんに嫉妬を向けてしまっていて、どこか斜に構えるようにして彼女を見てしまっていた。けれども、今はそうじゃない。


 小鳥遊さんは机の中を探り、クリアファイルのようなものを取り出す。「あ、あった!」と小さく言う。そのふとした声ですら可愛らしい。

 つい、小鳥遊さんのそんな様子を見ていた時だった。小鳥遊さんが私の方に近づいてくる。とことこと可愛らしい動きで。見とれたまま、動くことはできなかった。


「山田さん。テストまだ先なのに居残り勉強なんて、すごいね……! 何勉強してた?」

「っ……!?」


 漫画を、見られてしまう……!

 私は机に突っ伏して隠そうとする。けれどもその動きよりも小鳥遊さんが覗き込む方が早かった。私はただ間抜けな動きをしただけになってしまう。いちごの香水のような甘い香りがふわりと鼻を通り抜けた。


「もしかして、これ、山田さんが描いたの?」


 見られてしまった。どうすることも出来ずに、私は描いた漫画を小鳥遊さんに晒すことになってしまった。パニックで心臓がバクバクと激しく鳴り響く。


「ごめん、へ……」


 自分を防衛するように、ごめん、下手だし、変だよね、と言おうとした瞬間だった。


「すごいね! もしかして、漫画家さん!?」


 私に視線を合わせてきらっきらの瞳を見せてくれる。真っ白な、陶器のよう、という比喩が似合うすべすべの肌。まつ毛はくるん、とカールしていて、小さい鼻に、口角の上がった唇。本当にかわいい。こんな間近で小鳥遊さんを見たことがなかったから、すごくドキドキしてしまった。さっきのドキドキとは違うドキドキ。芸能界の握手会、とかこういうドキドキなんだろうな、って思ってしまった。


「いや、漫画家、ではないけど、なりたい、な、って……」


 ドキドキに任せて、言ってしまった。残骸、だったはずなのに。それが、夢、に戻っていく。すると、小鳥遊さんの瞳の輝きがさらに増した。


「ほんと!? 山田さん、絶対すごい漫画家になれるよ!」


 ふわぁっ、と柔らかな笑顔を向けられる。背中を押されたような、そんな気持ちになった。

 夢を肯定、どころか言ったこともなかったから。すごいパワーをもらった気がする。嬉しさで動揺して、言葉が出てこない。まるで、すごいパワーをもらったような気持ちになった。


 私が何かを言う前に、小鳥遊さんは、背負っていた桜みたいなピンク色のリュックサックからノートを取り出して、そしてぺらぺらとめくり、真っ白のページを開く。


「もしよかったらサインちょうだい!」

「えっ……? さ、さい、……?」


 突然の申し出に私の驚きがさらに重なってしまう。サイン、なんて考えたことがなかったから、私の名前、山田羽子、を筆記体で書いた。


「わー! すごいすごい! ありがとう!」


 私のサイン、というよりもただ名前を筆記体で書いたものを見た小鳥遊さんはぴょんぴょんと跳ねて喜んだ。


「山田ちゃんが漫画家になったら絶対絶対ファンレター送るからね!」


 にこっ、と、太陽のような笑顔を私に向けて、「じゃあね」って言い残して小鳥遊さんは嬉しそうに教室から出て行こうとする。

 私の中に抱いていた小鳥遊さんへの嫉妬も全部消えてしまった。とろん、とした甘い感情に溶かされてしまう。その代わりに、小鳥遊さんへの憧れみたいな、ファンみたいな気持ちが、爆発するように湧いてしまった。


「た、小鳥遊さんっ……!」

「ん?」


 さら、とつやつやの長い髪を揺らしながら振り向く小鳥遊さん。柔らかく口角が上がっていた。小鳥遊さんは、アイドルだ。正真正銘のアイドルだ。


「小鳥遊さんだったら、きっと、すっごいアイドルになれるよ! お、応援、してるね……!」


 心臓の甘い鼓動のままに言う。

 小鳥遊さんは再びおんなじ笑顔を向けてくれた。


「嬉しい! ありがとー!」


 じゃあねー!と私に手を振って、小鳥遊さんは駆けていく。小鳥遊さんの後ろ姿に向けて私は手を振る。胸のドキドキが治まらず、私はその場にぽーっとしながら立っていた。


 嫉妬心、なんか、とっくに溶けて、小鳥遊さんを応援したい、と思った。そして、小鳥遊さんに恥じないように、夢を追いかけたい、って思った。

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