港区女子、愛と欲望のトライアングル

ソコニ

第1話 煌めきの入り口



六本木ヒルズの最上階にあるレストランの窓からは、東京の夜景が一望できた。きらびやかな光の海に浮かぶ街を見下ろしながら、瀬川麗子は口紅を引き直した。真っ赤な唇が、シャンパングラスに小さなマークを残す。


「麗子、この間の案件、上手くいったんでしょ?」


向かいに座るのは、親友の村上詩織。銀座の高級クラブのママをしている彼女は、麗子とは大学時代からの付き合いだ。詩織の隣には、IT企業の役員をしている川田美咲が座っている。


「ええ、まあね」麗子は軽く微笑んだ。「でも、今日はそんな話はやめましょう。久しぶりの女子会なんだから」


麗子は32歳。大手外資系コンサルティング会社で働きながら、副業でインフルエンサーとしても活動している。インスタグラムのフォロワーは15万人。港区の高級マンションに住み、ハイブランドのバッグを愛用し、週末はジムとエステに通う。誰が見ても「勝ち組」の人生を歩んでいるように見える。


だが、麗子の心の中では常に焦りが渦巻いていた。30代前半という年齢。キャリアは順調だが、結婚はまだ。周りの友人たちはどんどん結婚し、子どもを産み、「普通」の幸せを手に入れていく。


「ところで、麗子」美咲がグラスを傾けながら言った。「森本グループの新しいプロジェクト、あなたが担当するんでしょ?」


麗子は少し驚いた顔をした。「ええ、そうよ。でも、まだ公表前のはずだけど...」


「あら、知らなかった?」美咲は意味深な笑みを浮かべた。「森本グループの専務、森本大輔さんが私の会社と協業することになってね。先日、打ち合わせで会ったの」


麗子の表情が一瞬凍りついた。森本大輔。森本グループの御曹司で、次期社長と目されている人物。そして——かつての麗子の恋人だった。


「そう...」麗子は平静を装いながら言った。「彼とはもう5年も会ってないわ」


「じゃあ、今度の打ち合わせで再会ね」美咲は意味ありげに言った。「彼、結婚したの知ってる?」


麗子の心臓が一瞬止まったように感じた。SNSはブロックしていたし、共通の知人からも彼の情報は遮断していた。


「知らなかったわ」麗子は感情を悟られないよう、シャンパンを一口飲んだ。「お相手は?」


「モデルをしていた水谷玲奈さんよ。去年結婚したらしいわ」


モデルの水谷玲奈。麗子は彼女の名前を知っていた。雑誌やSNSで見かける美しい女性だ。自分より5歳年下で、今や森本家の奥様になっている。


「おめでたいわね」麗子は言ったが、心の中では複雑な感情が渦巻いていた。


---


翌週月曜日、麗子は森本グループの本社ビルに向かっていた。今日は初めての打ち合わせだ。大手不動産開発会社である森本グループは、六本木に新しい複合施設を建設する計画を持っており、麗子の会社がコンサルティングを担当することになった。


エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押す。胸の中で鼓動が高鳴るのを感じながら、麗子は深呼吸をした。


「大丈夫よ。もう過去のことだわ」


エレベーターのドアが開き、受付を通って会議室へと向かう。ガラス張りの会議室の中には、すでに数人の男性が座っていた。そして、テーブルの一番奥に座っていたのは——森本大輔だった。


麗子が入室すると、大輔は顔を上げた。一瞬、彼の瞳に驚きの色が浮かんだように見えた。


「お久しぶりです、森本さん」麗子は冷静に挨拶をした。


「ああ、瀬川さん」大輔も平静を装って返した。「今回はよろしくお願いします」


この5年で、彼は少し大人びた印象になっていた。以前より肩幅が広くなり、顔つきにも余裕が生まれていた。成功者の風格を纏っている。


会議は予定通り進行した。麗子は完璧なプレゼンテーションを行い、森本グループの幹部たちからも好評を得た。だが、大輔との視線が絡む度に、過去の記憶が鮮明によみがえってくる。


会議が終わり、他の参加者たちが退室していく中、大輔が麗子に声をかけた。


「瀬川さん、少しお時間よろしいですか?」


二人きりになった会議室で、大輔は窓際に立ち、東京の街を見下ろしていた。


「元気にしていたか」彼はビジネスライクな口調から、かつての親しげな話し方に戻っていた。


「ええ、まあね」麗子は資料をカバンにしまいながら答えた。「あなたは?結婚おめでとう」


「ああ...そうか、知っていたんだな」大輔は少し困ったように微笑んだ。「ありがとう」


沈黙が流れる。かつては何時間でも話し続けられた二人が、今は言葉を探している。


「なぜ別れたんだろうな、俺たち」突然、大輔がつぶやいた。


麗子は手を止めた。「今さらそんなこと聞かないで」


「いや、単純に疑問に思っただけだ」大輔は麗子の方を向いた。「あの頃は、本当に将来を考えていたんだ。お前と一緒に」


「でも、結局はあなたのお父様が反対して...」麗子は思い出したくない記憶を振り払うように言った。


「それだけじゃなかっただろう」大輔の声が少し強くなった。「お前も、自分のキャリアを選んだんだ」


麗子は黙った。確かに、彼の父親が結婚に反対したのは事実だった。名門の森本家に、バックグラウンドの無い麗子は相応しくないと。しかし、その時麗子は大きなプロジェクトを任されたばかりで、キャリアが大きく飛躍するチャンスでもあった。


「どちらを選ぶんだ」と迫られた時、麗子は答えられなかった。そして、その沈黙が二人の関係に終止符を打った。


「もう過去のことよ」麗子はカバンを持ち上げた。「今は仕事の関係だけ。それでいいでしょう?」


大輔は何かを言いかけたが、そのとき会議室のドアが開いた。


「あら、まだ会議中?」


入ってきたのは一人の女性だった。モデルのような長身と完璧なプロポーション。洗練された立ち振る舞いで、会議室に入ってきた。水谷玲奈——いや、今は森本玲奈だ。


「玲奈...」大輔は少し驚いたように妻の名を呼んだ。


「ごめんなさい、待ち合わせの時間だから迎えに来たの」玲奈は麗子の方に視線を向けた。「あら、あなたが瀬川さん?インスタグラムでフォローしてるわ。素敵な写真ばかりで参考になるの」


麗子は動揺を悟られないよう、自然な笑顔を作った。「ありがとうございます。森本さんですね。お会いできて光栄です」


「私も噂は聞いていたわ」玲奈は微笑みながら言った。「主人の以前のガールフレンドですよね?」


その言葉に、麗子と大輔は同時に硬直した。玲奈は二人の反応を見て、さらに微笑みを深めた。


「気にしないで。過去は過去よ」玲奈は大輔の腕に手を回した。「でも、これからのプロジェクト、よろしくお願いします。私も時々顔を出すから」


「玲奈は最近、アートギャラリーのプロデュースをしているんだ」大輔は説明した。「今回の複合施設にも、彼女がキュレーションするギャラリーを入れる予定なんだ」


「そう...」麗子は平静を装った。「楽しみにしています」


---


麗子はタクシーの後部座席に身を沈めながら、深いため息をついた。今日の再会は、予想以上に彼女の心を乱していた。


スマートフォンを取り出し、SNSを開く。そこには完璧な彼女の生活が映し出されていた。高級レストランでの食事、海外旅行の写真、ブランド品との コラボレーション。「港区女子」という肩書きで得た特権的な生活。


しかし、画面を消すと、タクシーの窓ガラスに映る自分の顔には疲労の色が濃かった。


スマホが鳴り、メッセージが届いた。送信者は川田美咲だった。


『今夜、時間ある?急ぎの話があるの』


麗子は少し考えてから返信した。


『OK。いつもの場所で8時に』


---


赤坂の隠れ家的なバーで、美咲は既にカウンター席に座っていた。麗子が入ってくるのを見ると、彼女は手を振った。


「遅いじゃない」美咲はカクテルを口に運びながら言った。


「ごめん、仕事が長引いて」麗子はバーテンダーにマティーニを注文した。「それで、急ぎの話って?」


美咲は周囲を見回してから、声を潜めた。「森本大輔との再会、どうだった?」


麗子は眉をひそめた。「別に...仕事の打ち合わせよ」


「そう...」美咲は意味深に言った。「でも、あなたまだ彼のこと忘れてないでしょ?」


「何言ってるの」麗子は苛立ちを隠せなかった。「もう5年も前のことよ」


「でも、あなたが彼と別れた後、真剣に付き合った人いないじゃない」美咲は麗子の反応を見ながら続けた。「しかも、彼の奥さんって、あなたのSNSのフォロワーなんでしょ?」


麗子は驚いた。「なぜそれを...」


「この業界、狭いのよ」美咲は肩をすくめた。「実は、私、森本家と玲奈の関係について調べていたの」


「なぜ?」


「ビジネスよ」美咲はカクテルをかき混ぜながら言った。「私の会社と森本グループの提携、実は玲奈が推してくれたの。彼女、表向きはモデル上がりの令嬢って感じだけど、実はかなりのビジネスウーマンなのよ」


麗子は黙って美咲の話を聞いていた。


「それで」美咲は声をさらに潜めた。「ある噂を聞いたの。玲奈と大輔の結婚、実はビジネス的な側面が強いって」


「どういうこと?」


「玲奈の父親、水谷集団の総帥よ。森本グループが手がけている再開発案件の土地、多くが水谷集団の所有なの」美咲は興奮した様子で言った。「二人の結婚は、両家の利益のための政略結婚だって噂よ」


麗子は動揺を隠せなかった。「それがどうしたの?私には関係ないわ」


「でもね」美咲は麗子の手に自分の手を重ねた。「大輔、まだあなたのことを忘れられてないんじゃないかしら」


「何を言ってるの...」


「玲奈が森本家に入ってから、大輔の様子がおかしいって聞くわ」美咲は続けた。「夫婦仲も良くないらしいし、大輔、酒の席で君の名前を口にしたこともあるって」


麗子は黙った。心の中で、様々な感情が渦巻いていた。


「それに」美咲はさらに続けた。「今回のプロジェクト、なぜあなたの会社が選ばれたと思う?大輔があなたに会いたかったからよ」


「そんなわけない」麗子は即座に否定した。「私たちの会社は実績があるし...」


「もちろん、あなたの会社に実力があるのは知ってるわ」美咲は言った。「でも、それだけじゃないはずよ」


麗子はグラスを手に取り、一気に飲み干した。頭の中が混乱していた。


「これからどうするの?」美咲は問いかけた。


「何をって...仕事よ、ただの仕事」


「本当に?」美咲は意味深に笑った。「あなた、このプロジェクトで何を得たいの?」


麗子は黙った。確かに、このプロジェクトは彼女のキャリアにとって大きな転機になるかもしれない。しかし、本当にそれだけなのか。心の奥底では、もっと別の感情が渦巻いていた。


「私はただ...成功させたいだけよ」麗子はようやく口を開いた。


「仕事の成功?それとも...」美咲は言葉を濁した。


麗子は答えなかった。彼女自身、何を望んでいるのか分からなくなっていた。


---


その夜、麗子はベッドに横たわりながら、スマートフォンで森本玲奈のインスタグラムを開いていた。完璧な笑顔で大輔と並ぶ玲奈の姿。豪華なパーティーやセレブリティとの交流。表向きは理想的な夫婦に見える。


しかし、美咲の言葉が頭から離れなかった。「政略結婚」「夫婦仲は良くない」...そして、「大輔はまだあなたのことを忘れられていない」。


麗子は画面を消し、天井を見つめた。明日からまた、森本グループとのプロジェクトが本格的に始まる。大輔との再会、そして玲奈との出会い。この三角関係の中で、彼女は何を選ぶべきなのか。


キャリア、復讐、それとも...失われた愛の再燃。


麗子の心の中で、欲望と理性が激しくぶつかり合っていた。


「私は何がしたいの...」


窓の外では、東京の夜景が煌めいていた。その光の海の中で、麗子の新たな物語が動き出そうとしていた。


(第1話 完)

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