第一幕②


 乳母うばはついている。生まれる前から手配されていた子爵ししゃく家の次女で、騎士きし号を持つ夫との間に、同時期に赤子をもうけていた。

 のんびりした気質で、乳を与えれば、あとは実家と同じように刺繍ししゅうやお茶会をして過ごした。


「お腹いっぱいかしら? ではねんねしましょうね。さあ、しばらく私も自由時間だわ」


 もちろんそれが乳母の仕事であり、彼女にそれ以上を求めることは出来ない。


 王としての父は、忙しかった。一国を導き、国勢を読み、他国と交渉こうしょうし、その全ての判断をにない、同時に王妃ともむつまじい時間を出来る限り持った。

 側妃との間に出来た子ども達の世話は、側妃と乳母とその使用人達の仕事で、衣食住の面倒めんどうを直接見ることは王の仕事ではない。

 とはいえ、それまでの王は、決して子ども達に興味のない父ではなかった。

 第一王子の誕生の日には、初の我が子ということもあり、涙を流して喜んだというひそやかなうわさがある。その後に生まれた王女達は甘やかし、王子達には格別の教育を与えた。

 第三王子が三歳で亡くなってしまった時には、一カ月に服し、その直後に生まれた第五王女のことはことのほか可愛かわいがっていた。


 ウエンディは、間の悪い赤ん坊だったのだ。

 王は、本気でウエンディを忘れていたわけではない。生まれたばかりのウエンディの顔は、見た。

 は。

 だが、同時期に王妃の体調が思わしくない状態で、そちらの部屋に通い詰めになっていたのだ。

 そもそも、側妃とその子ども達の住む部屋は、ある種の後宮のようなものだった。王宮内ではあったが、むやみにそのとうを出てはいけないという暗黙あんもくのルールがあり、さらに王妃や王のいる中枢ちゅうすうとは距離がある。

 だから、王と側妃達が日常的に顔を合わせるような環境ではなかった。


 結局、体調不良の原因は、一週間後に妊娠という形で判明する。そうなればもう、心は王妃とその腹の子に完全に移り、ウエンディのことは頭から締め出されてしまった。

 すでに子は沢山たくさんいる。王は、赤ん坊の存在に慣れすぎた。ただ、王妃の子だけが特別だった。

 政略であり、義務であり、そして最後に召し上げられ一人しか生まなかった側妃の子は、あっという間に忘れ去られてしまったのだ――。



 やがて、王妃は男児を生んだ。

 待望の跡継ぎだ。王の治世は順風満帆まんぱんと、王宮内は浮かれていた。


「生誕祭は一カ月間で良いでしょうな」

「国民達が祝福のために教会に詰めかけているようだ。祭司達の割り振りを変えねばならん」

「こちらの公務だけはどうしても陛下でなくては……いつ言い出すべきか……」

「各国より祝いの品が届いております。返礼の手配をいたしませんと」


 ともかくも、王妃の妊娠から出産、生まれたら生まれたでその後の手続きまで、王宮は正当な後継者のためにやらねばならないことが実に多くあり、あらゆる人員の手には仕事がごったがえしていた。


 その間、ウエンディは元側妃の部屋であった場所で、乳母によって乳を与えられ、あとは放っておかれて育った。

 これまた運のないことだが、無駄ないさかいが生まれないよう、四人の側妃達の部屋は、それぞれほぼ独立した四つの区画に分けられており、お互いの顔を見ることもほとんどない。

 当然、王子王女も、それぞれの母の区画で育つ。

 ましてや、当の側妃が後宮を辞してしまえば、実家から連れてきた侍女じじょはもちろん、王宮の使用人達も一斉に引き上げることになる。

 もしもウエンディに同腹の兄姉がいれば、事情は違っただろう。しかし生憎あいにく、母はウエンディだけをようやく生み、義務を果たして去った。

 そして、最後に残り、授乳以外のウエンディの面倒を見ていたのは、城の下級メイドたった一人だ。もともと側妃であった母についていたもので、配置換えがなかった、あるいは忘れられていたために、その部屋に出入りせざるをえなかっただけ。

 途中、人員配置を見直す時期にメイド長が気づいたこともあった。


「お前、前回の配置換えで行先が空白のままのようだけれど、どういうこと?」

「何も言われておりませんが」

「今はどこの配属? 何をしているの?」

「はい、水晶すいしょうの宮で、王女殿下のお着替えや沐浴もくよくなどのお手伝いをしております」

「水晶……ああ、降嫁こうかされた側妃様のところね。そう……。侍女をつけたいけれど、今はちょっと手が足りないのよ。しばらくお前がお世話をしなさい」

「かしこまりました」


 しばらく、とは言ったものの、王妃の子が成長するにつれ、どんどん人手は足りなくなり、メイド長も忙しさのあまりウエンディのことは頭からすっぽり消えてしまった。結局そのまま、侍女やメイドが配属されることはなかった。

 そのメイドはもちろん、赤ん坊が、長じて幼児が、そこに放置された状況であることには気づいていた。

 しかし、だからどうしたというのだろう。メイドの仕事は掃除そうじ給仕きゅうじや、身の回りの世話であり、王女であるウエンディの処遇しょぐうに考えをめぐらせることではない。

 ただ、着替えはメイドの仕事だ。放置されたウエンディには、赤子の時に事前に準備されていた肌着はだぎ産着うぶぎしかない。途中からサイズが合わなくなり、さすがに困って、メイド長に相談した。メイド長は、右から左に、それを侍女頭に伝えた。


 侍女頭は、実務に関しては有能だった。

 衣服が足りないならば、与えれば良い。財務官と打ち合わせののち、上の兄姉と同じように、一年ごとに必要と思われる衣服が届けられるように手配された。

 これは、王宮内で王家の人々が過ごす際の、寝間着ねまきやデイドレスだ。

 夜会や慰問、外交の際には、それぞれ相手に合わせて特注することになる。

 王と王妃、二人の残った側妃達、そして王子と王女それぞれにいつどんなお召し物を作ったか、記録はきちんとされた。見返すことのない、単なる記録である。

 城内の人間の食事は、同様に人数分作られ、必要に応じて運ばれた。

 ウエンディは、赤子の頃は乳母の乳を、その乳母の指示で少量ずつ離乳食りにゅうしょくが与えられ、やがて一人前の食事がとれるようになると、メイドが運んで置いていった。

 その頃にはもう、乳母の仕事はなくなり、彼女は退職した。


 そうして十五年が経った。

 誰の頭からも消え去っていたはずのウエンディの名が、再び王の口から出たのは、彼女の婚姻が決まったからだった。

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