影の棲む家
海野雫
第一章 完璧な日常の亀裂
鏡の中の自分は完璧だった。
篠原真希はマスカラを丁寧に塗り、わずかに目を細めて自分の姿を確認した。四十歳を目前に控えた肌は、朝の光の下でも滑らかに見える。小じわはあるが、それは表情の一部として馴染んでいる。暗色のシャツワンピースは体型の変化を上手くカバーし、首元のスカーフが全体に洗練された印象を与えていた。
--完璧。
その言葉は彼女の呪いであり、救いでもあった。
「お母さん、私これから出るよ」
背後から聞こえた娘の声に振り向くと、美月は既にドアの方へ向かっていた。黒髪をポニーテールにまとめた後ろ姿は、年々自分から遠ざかっていくように感じられた。
「美月、ちょっと待って」
真希は慌てて化粧ポーチをカウンターに置き、娘を追いかけた。
「お弁当、持った?」
「うん」
短い返事だけが返ってくる。美月が十五歳になってからというもの、会話はほとんどが一問一答で終わるようになっていた。かつて「ママ、聞いて!」と走り寄ってきた幼い娘の姿は、もはや遠い記憶でしかない。
「今日は編集会議があるから、少し遅くなるかもしれないけど…」
ドアが閉まる音だけが返事だった。
真希は静かになったリビングで、小さくため息をついた。壁の時計は七時二十分を指している。夫の大輔はすでに出かけた後で、彼との会話も「おはよう」と「いってきます」だけだった。形だけの朝の挨拶。これが十五年目の結婚生活の日常だった。
キッチンに戻り、コーヒーを一口だけ飲んでから、真希は自分のバッグに原稿を詰め込んだ。彗花出版での今日の編集会議では、彼女が担当する新人作家・園田茜の新作について話し合われる予定だった。入社以来十七年間、真希の編集者としての評価は高かった。特に女性向け恋愛小説の担当としては、彼女の手がけた作品から毎年のように新人賞受賞者が出ている。
だが奇妙なことに、昇進の話が来るたびに、なぜか最後の一歩で他の誰かに先を越されていた。
マンションを出る直前、真希は無意識に書斎のドアに目をやった。そこには誰にも見せていない彼女自身の小説原稿が眠っている。編集者の仕事を終え、家族が寝静まった深夜に、少しずつ書き継いでいる物語。
「いつか」と彼女は小さく呟いた。その「いつか」が実際に訪れるとは思っていなかったが、その言葉を口にすることで自分を騙し続けていた。
「これは素晴らしいわ、園田さん」
会議室で、真希は新人作家の園田茜の原稿を手に、編集部のメンバーに向かって熱を込めて語った。
「特に終盤の展開は読者の予想を裏切りながらも、伏線をしっかり回収している。彼女の才能はまだまだ伸びると思います」
編集長の河村が頷いた。
「篠原さんの目は確かだな。前回の新人賞受賞作も、君が最初に見出したものだったな」
その言葉は褒め言葉のようでいて、どこか皮肉めいて聞こえた。河村の視線の先には、真希と同じデスクセクションにいる水野詩織の姿があった。三十六歳の水野は、二年前に副編集長に昇進している。そして真希より勤続年数が短いにもかかわらず、だ。
水野は艶のある黒髪を揺らしながら、優雅にコーヒーカップを持ち上げた。
「でも園田さんの作品って、少し古風すぎるんじゃない? 今のZ世代にアピールするには、もっとSNS要素や現代的な恋愛観を取り入れるべきだと思うけど」
穏やかな口調ながら、その発言は会議室の空気を変えた。真希は表情を崩さずに応じようとしたが、水野はすでに話を続けていた。
「私が担当している高城先生の新作は、まさにそういった現代的要素を取り入れつつ、文学的深みも持っています。先日の校閲でも高評価をいただきましたよね、河村編集長」
その言葉に河村が小さく頷いた瞬間、真希は再び水野に先を越されたことを悟った。
会議が終わり、デスクに戻った真希は、静かに原稿ファイルを整理していた。先ほどの水野の言葉は、彼女がまたしても昇進候補から外されることを暗示していた。そのことよりも辛かったのは、水野の言葉に一理あるという事実だった。
「篠原さん、ちょっといいですか」
声をかけてきたのは、編集部の若手・田中だった。
「明日、本城亮介先生との初顔合わせがありますよね。僕も同席させていただけることになりました」
本城亮介。その名前を聞いた瞬間、真希の手の動きが一瞬止まった。
「ええ、そうね」
彼女は平静を装って答えた。
「彼の次回作を当社から出版することになって、私たちが担当することになったのよ」
「すごく楽しみです! 本城先生の『透明な影』は大学時代に読んで、小説の素晴らしさに目覚めたんです」
田中の興奮した様子に、真希は微笑みを返した。しかし内心では、明日の顔合わせへの不安が膨らんでいた。本城亮介--大学時代の元恋人であり、二十年近く会っていない男性。彼がどれほど真希のことを覚えているか分からなかったが、彼女は彼のことを忘れたことがなかった。
デスクに戻ると、スマートフォンに夫からのメッセージが届いていた。
『今日は接待で遅くなる。夕食は済ませていて』
また接待か。最近は週に三回は帰りが遅かった。かつて大輔は週末には必ず家族との時間を作っていたが、二年前に役員に昇進してからというもの、仕事の比重が明らかに変わっていた。
真希はシンプルに『分かりました』と返信し、スマートフォンをバッグにしまった。手首の時計を見ると、午後四時半。今日はちょうど園田茜の原稿の最終校正が終わったところだった。家に帰っても誰もいない。
もう少し仕事を続けようと思った瞬間、水野詩織が彼女のデスクに近づいてきた。
「篠原さん、お疲れ様」
優雅な微笑みを浮かべ、水野は真希の向かいの椅子に腰掛けた。
「園田さんの原稿、良かったわね。さすが篠原さんの目は確かだわ」
真希は薄く笑みを返した。水野が彼女に歩み寄ってくる時は、必ず何かの意図があった。
「ありがとう。あなたの担当作家たちも素晴らしい成績よね」
「ところで、明日は本城先生との顔合わせなんでしょう?」
水野は少し身を乗り出した。
「実は私も編集部代表として同席することになったの」
真希は驚きを隠せなかった。
「河村さんからは田中くんが同席すると聞いていたけど……」
「ええ、副編集長として私も立ち会うことになったの。本城先生の獲得は大きな功績だもの」
水野の口調はいつも通り柔らかいが、その目は勝利を確信していた。
「篠原さんと本城先生って、同じ大学だったって噂だけど、本当?」
真希は瞬時に警戒心を高めた。しかし、その事実自体は隠すほどのことではない。
「ええ、文学部で少し顔見知り程度だったわ」
彼女は表情を変えずに答えた。
「随分前のことだけど」
「そう。それは心強いわね」
水野は立ち上がりながら言った。
「明日はよろしくお願いするわ」
水野が去った後、真希はパソコンの画面に映る自分の顔を見つめた。表情は完璧に整っていたが、心の中は複雑な感情が渦巻いていた。本城亮介との再会。水野詩織の思惑。夫の変化。娘との距離。
完璧な日常の亀裂は、少しずつ広がっていた。
帰宅すると、マンションは静まり返っていた。玄関の靴箱を見れば、美月はまだ帰っていないようだった。部活動か、友達との外出だろう。真希は小さなため息をつき、ヒールを脱いでスリッパに履き替えた。
リビングの灯りをつけると、広々とした空間が照らし出される。三年前に購入したこの高級マンションは、夫の出世に伴う生活水準の上昇を象徴していた。白を基調としたミニマルなインテリア、大きな窓からの眺望、すべては雑誌に載っていてもおかしくないほど洗練されている。
だが真希にとって、この空間はどこか居心地が悪かった。
「ただいま」と、誰もいない部屋に向かって小さく呟いた。
冷蔵庫を開け、夕食の準備を始める。美月のために簡単な夕食を作りながら、真希は無意識のうちに本城亮介のことを考えていた。
文学部の同級生だった彼との関係は、短く、激しく、そして秘密めいたものだった。当時の彼は、周囲から一目置かれる天才肌の文学青年で、真希の中に眠る才能を見出した数少ない人物だった。しかし彼らの関係は、真希が現在の夫である大輔と出会った直後に終わっていた。
そして明日、二十年ぶりに彼と顔を合わせる。
夕食の支度を終えた真希は、書斎に向かった。この部屋だけは、彼女の本当の聖域だった。壁一面の本棚には、彼女が編集した数々の小説と、心惹かれた作品が並んでいる。デスクの引き出しには、彼女自身の小説原稿が隠されていた。
パソコンを開き、最近書きためていた小説のファイルを開く。主人公は三十代の女性編集者。表向きは完璧だが、内面には深い闇を抱えた女性の物語。あまりにも自分自身に近すぎる設定に、時々自己嫌悪を感じることもあった。
キーボードに指を置いたとき、玄関のドアが開く音がした。
真希は慌ててファイルを閉じ、立ち上がった。リビングに戻ると、美月が黙々と靴を脱いでいた。
「おかえり。夕食作ってあるわよ」
「部活の後に友達と食べてきた」
美月は母親の目を見ずに答えた。
「そう……」
真希は少し間を置いて言った。
「明日の朝はお弁当いる?」
「うん」
会話はそれだけで終わった。美月は自分の部屋へと向かい、ドアが閉まる音がした。かつて娘との会話が弾んでいた時間が、真希には遠い記憶のように感じられた。
夜十時を過ぎても、大輔は帰ってこなかった。真希は寝室のベッドに横になり、明日の本城との顔合わせに思いを巡らせていた。スマートフォンを手に取り、彼の最新作『夜の記憶』の書評を読み返す。彼は今や日本文学界の重鎮と言われるほどの存在だった。
画面をスクロールしていると、夫からの着信が入った。
「もしもし」
「俺だ」
大輔の声は少し上ずっていた。
「今日は会社の近くのホテルに泊まることにした。明日も早いからな」
真希は一瞬言葉につまった。夫が外泊するのは珍しいことではなかったが、いつもは事前に連絡があった。
「わかったわ」
彼女は冷静に答えた。
「明日の朝は何時に出る予定?」
「それが分からない。まだ資料の準備があるからな」
大輔の返答には焦りが混じっていた。
「とにかく今日は帰らないと思って」
電話が切れた後、真希はしばらくスマートフォンを見つめていた。大輔の声の調子、不自然な言い訳、すべてが何かを隠しているように感じられた。
真希は深夜、家族が寝静まった後にこっそり書いている小説の一節を思い出した。
『彼女は夫の嘘を見抜いていた。でも、真実を知ることの恐怖が、彼女にその扉を開けさせなかった』
小説の主人公は、いつか真実に向き合う勇気を見出す。だが現実の真希には、その勇気がまだなかった。
静かな寝室で、彼女は天井を見つめながら考えた。明日、本城亮介と再会する。水野詩織が同席する。夫は「接待」で外泊している。
完璧だった日常の亀裂は、確実に広がっていた。
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