第10話「王国の拡大」
七月初旬、北海道の短い夏が本格的に始まっていた。「王国」は緑に覆われ、生命力に満ちあふれていた。かつての産業廃棄物処理場の無機質な風景は、今や様々な植物が生い茂る豊かな環境へと変わっていた。
「ここがあの雪に閉ざされた場所だとは信じられないな」
私は「王国」の高台に立ち、周囲を見渡していた。事務所棟の屋根は緑の蔦に覆われ、かつての処理施設は野生の草花に囲まれている。そして何より印象的なのは、至る所で動物たちが活動している様子だった。
「ラスク!」
振り返ると、ヤマトが飛んできた。
「報告がある」彼は翼を畳みながら言った。「新しい動物たちが『王国』に近づいている」
「また?」私は驚いた。
ガンの群れが加わってから、「王国」の評判は札幌市内の動物たちに広まっていた。特に開発や駆除活動によって住処を失った動物たちにとって、「王国」は希望の地となっていた。
「何の動物だ?」
「エゾリスの一族だ」ヤマトが答えた。「約20匹。人間の公園整備で住処を追われたらしい」
私は少し考え込んだ。「王国」の人口は既に増加していたが、彼らを拒む理由はない。しかし、新たな住人を迎え入れるためには、様々な準備が必要だ。
「『評議会』を招集しよう」私は決断した。「彼らの受け入れ体制を整える必要がある」
「王国評議会」は事務所棟の大きな部屋で開かれた。私とミウ、チロ、ヤマト、ガンが集まり、新たな状況について話し合った。
「また新しい仲間か」チロは考え込むように言った。「最近、急に増えているな」
「札幌市内の開発が加速しているからだろう」ガンが説明した。「特に、夏のオリンピック招致に向けた整備工事が各所で始まっている」
「オリンピック?」
「人間の大きな祭りだ」ヤマトが英語交じりに説明した。「世界中から人間が集まって競争するらしい。札幌市はそれを誘致するために、あちこちを整備しているのだよ」
人間の事情はともかく、結果として住処を失った動物たちが増えているのは事実だ。彼らに避難場所を提供するのは、「王国」の使命でもある。
「受け入れましょう」ミウが言った。「でも、『王国』のルールを理解してもらう必要があるわ」
「それに、居住区域の問題もある」チロが指摘した。「エゾリスは木の上で生活する。現在の『王国』には高い木が少ない」
確かに、産業廃棄物処理場だった「王国」には、背の高い木が少なかった。この数か月で植物は増えたが、リスが住めるような大きな木はまだ育っていない。
「隣接する森を『王国』の領域に加えるのはどうだろう」私は地図を指さした。「あそこなら十分な木がある」
「それは可能だ」ヤマトが言った。「あの森は人間もほとんど来ない。カラスたちが上空から警戒すれば、安全は確保できる」
「森が加われば、食料源も増えるな」ガンも賛成した。
こうして、「王国」の領域を拡大し、隣接する森を含めることが決まった。その後、具体的な受け入れ計画が話し合われた。
「エゾリスたちには木の上の警戒役を担ってもらおう」チロが提案した。「彼らは視覚が優れているし、高所からの見張りに適している」
「食料調達の分担も明確にする必要がある」ミウが言った。「彼らの得意な木の実や種子の収集を担当してもらえば」
会議の結果、エゾリスたちを「王国」の一員として迎え入れること、そして「王国」の領域を森まで拡大することが正式に決まった。また、彼らの役割や権利も明確にされた。
「あとは、現場を確認しよう」私は提案した。「森の状態と、必要な準備を」
その日の午後、私とチロは「王国」に隣接する森を調査した。森は予想以上に広く、様々な樹木が生い茂っていた。特に北側には古い樺の木が多く、エゾリスの住処として理想的だった。
「いい環境だな」チロが頷いた。「食料も豊富だ」
地面には様々な木の実や種が落ちており、低木にはベリー類も生っていた。さらに、小さな川も流れており、水の確保も容易だ。
「ここを『王国』の一部にすれば、生活の幅が広がるな」私は感じた。「子供たちの遊び場にもなる」
森の調査中、私たちは思いがけない発見をした。森の奥の小さな空き地に、人の手が入った形跡があったのだ。
「ここは…」チロが驚いた様子で言った。
空き地には小さな石が円形に並べられ、中央には焚き火の跡があった。そして、木の幹には不思議な模様が描かれていた。
「人間が来ていたのか?」私は警戒した。
「違う」チロは首を振った。「これはアイヌの人々の儀式の場だ。昔からある聖地なんだ」
「アイヌ?」
「北海道の先住民だ」チロは説明した。「この土地に最初から住んでいた人々。彼らは自然と共に生きる術を知っていた」
チロの説明によれば、この場所は今でも時折、アイヌの人々が訪れる神聖な場所だという。しかし、彼らは動物を尊重し、必要以上の狩りはしないため、脅威ではないらしい。
「むしろ、彼らがこの森に来ることで、他の人間が入りにくくなっている」チロは言った。「一種の保護になっているんだ」
私はこの不思議な場所に立ち、北海道の歴史の深さを感じた。東京では想像もつかなかった光景だ。人間と自然が対立するだけではなく、共存する形もあったのだ。
「この場所は尊重しよう」私は決めた。「エゾリスたちにも伝えておく必要がある」
調査を終え、「王国」に戻る途中、私は自分たちの活動の意味について考えていた。私たちは単に生き延びるだけでなく、様々な種が共存できる新しい形の「王国」を作り上げようとしている。それは、アイヌの人々が目指した自然との調和にも通じるものがあるのかもしれない。
翌日、エゾリスの一族が「王国」に到着した。彼らの代表であるリーダーのキツは、赤褐色の毛並みを持つ中年のオスだった。
「お迎えありがとう」キツは丁寧に頭を下げた。「皆さんの評判は聞いていました。種を超えた共同体があると」
「うわさ通りだよ」私は微笑んだ。「『王国』へようこそ」
受け入れ儀式として、「王国全体会議」が開かれた。全ての住人が集まり、新しい仲間たちを歓迎した。そして、「王国」の拡大と新しいルールについても説明された。
「今日から、隣接する森も『王国』の一部となります」私は宣言した。「エゾリスの皆さんは主にそこで生活することになりますが、もちろん『王国』全体があなたたちの家です」
キツもエゾリスを代表して挨拶した。「私たちを受け入れてくださり、心から感謝します。私たちも『王国』の一員として、責任を果たしていきます」
会議の後、私たちはエゾリスたちを森へと案内した。彼らは新しい住処に大喜びで、すぐに木の上に登り始めた。
「ここは最高だ!」キツは樺の木の上から叫んだ。「公園よりずっと自然が豊かだ」
エゾリスたちは素早く森に適応し、それぞれの縄張りを決めていった。また、チロの提案通り、彼らは見張り役も引き受けることになった。木の上から「王国」の周囲を見渡し、危険を知らせる重要な役割だ。
「これで『王国』の安全性が高まるな」チロが満足げに言った。
この日から、「王国」は物理的にも機能的にも大きく拡大した。森が加わったことで、生態系がより豊かになり、新たな資源も利用できるようになった。
エゾリスたちの加入から数日後、私は子供たちを連れて森を散策していた。ハル、キタ、ユキは生まれて初めての森に、目を輝かせていた。
「パパ、あれは何?」ハルが高く伸びる樺の木を指さした。
「樺の木だよ」私は説明した。「エゾリスたちが住んでいるんだ」
「見えた!」キタが興奮して叫んだ。「茶色いしっぽ!」
確かに、木の上にエゾリスの姿が見えた。彼らは木から木へと素早く飛び移り、子供たちを楽しませてくれた。
「僕も登りたい」ユキが小さな声で言った。珍しく積極的な発言だった。
「まだ早いよ」私は優しく諭した。「もう少し大きくなったら、登り方を教えてあげるよ」
子供たちは森の中を駆け回り、新しい発見に喜びの声を上げた。落ちている木の実を拾ったり、小さな虫を観察したり、時にはチョウの後を追いかけたりと、好奇心を存分に発揮していた。
「子供たちの成長は早いな」
振り返ると、チロが微笑みながら立っていた。
「ああ」私も微笑んだ。「毎日新しいことを覚えているよ」
「それが北の子だ」チロは誇らしげに言った。「短い夏を精一杯活用して成長する。冬までに必要な技術と知識を身につけないとな」
私たちは子供たちを見守りながら、「王国」の未来について話し合った。
「『王国』の拡大は続くだろうな」チロが言った。「評判が広まるにつれ、新たな仲間が増えていく」
「心配なこともある」私は正直に言った。「人数が増えれば、食料や資源の競争も激しくなる。縄張り争いも起きかねない」
「だからこそ、しっかりとした統治が必要だ」チロは頷いた。「種を超えた理解と協力が不可欠だ」
私たちの会話は、キタの叫び声で中断された。
「パパ!見て!穴があるよ!」
駆け寄ると、キタは地面の小さな穴を指さしていた。確かに、誰かの巣穴らしき穴が見える。
「触っちゃダメだよ」私は注意した。「誰かの家かもしれないからね」
「誰の家?」ハルが好奇心いっぱいに尋ねた。
「ウサギか…」チロが穴を調べながら言いかけたが、突然表情を変えた。「いや、違う。これは…」
その時、穴から小さな頭が覗いた。それは茶色の毛に覆われた、細長い顔だった。
「エゾナキウサギだ」チロが驚きの声を上げた。
「エゾナキウサギ?」私も初めて見る動物だった。
「北海道の固有種だ」チロは説明した。「岩場や石の多い地域に住む。とても希少な動物だよ」
エゾナキウサギは小さな体で、警戒しながらも私たちを観察していた。
「怖がらせないようにしよう」私は子供たちに小声で言った。「みんな、ゆっくり下がって」
私たちが距離を取ると、エゾナキウサギはやや緊張を解いたようだった。そして、予想外の行動を見せた。
「こ…こんにちは」
かすかな声だったが、確かに言葉を発したのだ。
「話せるんだね」私も挨拶を返した。「私はラスク。こちらは子供たちのハル、キタ、ユキ。そしてチロだ」
「コマユ…です」エゾナキウサギは恐る恐る名乗った。「あなたたちは…この森の新しい住人?」
「ああ」私は頷いた。「隣の『王国』から来たんだ。今日からこの森も『王国』の一部になったんだよ」
コマユは混乱したような表情を見せた。「『王国』?何それ?」
私は簡単に「王国」の説明をした。様々な種類の動物が集まり、互いに協力して生きる場所であること。人間の開発から逃れてきた動物たちの避難所であること。
「それは…素晴らしいですね」コマユは感心した様子で言った。「この森には私たち一族しかいないと思っていました」
「他のエゾナキウサギもいるの?」ハルが興味津々で尋ねた。
「はい、少しだけ」コマユは答えた。「私の家族と親戚で、全部で8匹です」
これは予想外の出会いだった。エゾナキウサギは希少種で、研究者さえもその生態をよく知らないと言われている。そんな彼らが「王国」の森に住んでいたとは。
「良かったら、『王国』の一員になりませんか?」私は提案した。「互いに助け合えば、皆が安全に暮らせますよ」
コマユは少し考え込んだ。「家族と相談します。でも…人間は来ないですか?この場所に」
「カラスたちが見張っているから安心だよ」チロが答えた。「危険があれば事前に知らせてくれる」
「それは...心強いですね」コマユは少し安心した様子を見せた。
私たちは彼女との会話を続け、「王国」についてより詳しく説明した。コマユも少しずつ打ち解け、自分たちの生活について話してくれた。彼らは主に草や葉を食べ、岩場や土の中に複雑な巣穴を作るという。また、独特の鳴き声で仲間と連絡を取り合うことも教えてくれた。
「明日、家族を連れてきます」別れ際、コマユは言った。「『王国』について、みんなに話したいです」
「待っているよ」私は微笑んだ。
子供たちはコマユとの出会いに大興奮だった。特にハルは質問が尽きない様子で、帰り道ずっとエゾナキウサギについて話していた。
「ねえパパ、エゾナキウサギってどうして珍しいの?」
「彼らは北海道にしか住んでいないんだ」私は説明した。「しかも、数が少なくて、なかなか見つからない」
「じゃあ、すごくラッキーだね!」ハルは目を輝かせた。
「そうだね」私も頷いた。「『王国』が彼らの助けになればいいな」
「王国」に戻ると、私はすぐに「評議会」のメンバーに新たな発見を報告した。エゾナキウサギという希少種が森に住んでいたこと、そして彼らも「王国」に加わる可能性があることを伝えた。
「素晴らしい発見だな」ヤマトが言った。「彼らの加入は『王国』の多様性をさらに高めるだろう」
「特別な配慮が必要かもしれないぞ」ガンが指摘した。「希少種ということは、生存条件が厳しいということだ。彼らの生活スタイルを尊重する必要がある」
「ペースに合わせましょう」ミウも同意した。「焦らせず、徐々に関係を深めていけばいいわ」
「評議会」での話し合いの結果、エゾナキウサギたちを温かく迎え入れること、彼らの生活様式を尊重すること、そして特別な保護を提供することが決まった。
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翌日、約束通りコマユは家族を連れてやってきた。7匹のエゾナキウサギが、恐る恐る姿を現した。彼らは年齢も様々で、老いた個体から子供まで含まれていた。
「皆さん、こちらが私が昨日お会いした『王国』の方々です」コマユが紹介した。
私たちも丁寧に挨拶し、「王国」について詳しく説明した。エゾナキウサギたちは最初こそ警戒していたが、徐々に興味を示し始めた。
「本当に様々な動物が共に暮らしているんですね」年長者らしきナキウサギが感心した。
「はい、種を超えた共同体です」私は説明した。「それぞれの特技を活かして、互いに助け合っています」
老齢のナキウサギが前に出てきた。彼の名はオヤブンといい、一族の長だった。
「私たちはこの森に長く住んでいます」オヤブンは静かな声で語り始めた。「かつては多くの仲間がいましたが、今は少なくなってしまいました。人間の開発や、気候の変化で...」
彼の言葉には深い悲しみが込められていた。一族の衰退を目の当たりにしてきた者の重みを感じる。
「『王国』に加われば、生き延びる可能性は高まります」チロが優しく言った。「カラスたちの警戒網があり、多くの仲間がいます」
「まずは、様子を見させてください」オヤブンは慎重に言った。「『王国』の活動に少しずつ参加させていただきたい」
「もちろんです」私は理解を示した。「焦る必要はありません。まずは互いを知ることから始めましょう」
この日から、エゾナキウサギたちは徐々に「王国」の活動に参加するようになった。彼らは静かで控えめだったが、森についての深い知識を持っていた。特に、薬草や食用になる植物についての情報は非常に貴重だった。
「これはヨモギといって、傷に効くんです」コマユが教えてくれた。「これを噛んで患部に塗ると、痛みが和らぎます」
また、彼らの鋭い聴覚は、「王国」の警戒システムを補強するのに役立った。地面の振動を感じ取り、人間や大型動物の接近を早期に察知することができたのだ。
「エゾナキウサギたちの加入は、想像以上の恩恵をもたらしているな」ある日、チロが感心して言った。
「そうだね」私も同意した。「種が違えば、得意なことも違う。だからこそ、多様性が重要なんだ」
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七月中旬、「王国」はさらに大きな変化を迎えていた。エゾリスたちとエゾナキウサギたちの加入により、森の領域は活気づき、「王国」全体の機能も向上した。
この日、「王国全体会議」が開催され、さらなる拡大計画について話し合われた。
「東側の小川も『王国』の領域に取り込みたい」ガンが提案した。「水源の確保は重要だし、川沿いには様々な植物が育っている」
「賛成だ」ヤマトも同意した。「川によって領域の境界が明確になる。防衛上も有利だ」
エゾリスのキツも意見を述べた。「川の向こう側には桜の木が多い。秋には実がなり、貴重な食料源になります」
「反対意見はありませんか?」私は会議の参加者全員に問いかけた。
「一つだけ気になることが...」エゾナキウサギのオヤブンが静かに言った。「川の向こう側には、時々人間が来るんです。釣りをする人たちが」
これは確かに考慮すべき点だった。人間との接触が増えれば、「王国」の安全が脅かされる可能性がある。
「その点については、カラスたちの警戒体制を強化します」ヤマトが提案した。「人間の接近を事前に察知し、全員に警告を出せるようにします」
「それと、川沿いに避難経路を整備すれば」チロが加えた。「緊急時にはすぐに安全な場所に逃げられます」
議論の末、小川とその東側の一部も「王国」の領域に加えることが決まった。これにより、「王国」の面積は開始時の約2倍になった。
会議の後半では、増大する「王国」の管理体制についても話し合われた。
「区域ごとの責任者を置いてはどうか」ミウが提案した。「これまでのように『評議会』だけでは、細かい部分まで目が行き届かない」
「良い案だ」私も賛成した。「森の区域、中央区域、水辺区域など、特性に合わせて分け、それぞれに適した動物が管理すれば効率的だ」
この提案も採択され、各区域の責任者が選出された。森の区域はエゾリスのキツ、中央区域はガン、水辺区域はチロ、そして全体の調整は私とミウが担当することになった。
「これで『王国』はより効率的に運営できるようになるわ」ミウが喜んだ。
会議の終わりに、私は全員に向けて話した。
「『王国』は物理的にも、組織的にも拡大しています。しかし、最も大切なのは私たちの心です。種を超えた理解と協力、これが『王国』の本質です。領土が広がっても、この精神を忘れないでください」
私の言葉に、参加者全員が同意の意を示した。「王国」は単なる場所ではなく、共に生きるという思想なのだ。
七月下旬、「王国」はさらに予想外の変化を迎えた。それは、ある朝のカラスたちからの報告から始まった。
「ラスク!重要な情報だ!」
ヤマトが急いで飛んできた。彼の様子は普段より切迫していた。
「どうした?」
「人間が『王国』の近くに何かを建設している」ヤマトは息を切らして言った。「小川の東、桜の木の近くだ」
これは警戒すべき知らせだった。「王国」の新たな領域に人間が接近しているということは、今後の安全に関わる重大事項だ。
「何を建設しているんだ?」
「小さな小屋のようなものだ」ヤマトは説明した。「しかし、普通の人間の建物とは違う。とても質素で、自然に溶け込むような造りだ」
「調査に行こう」私は決断した。「ミウ、子供たちを頼む」
ミウは頷き、私はヤマトとチロを伴って現場へと向かった。
小川を渡り、桜の木々の間を進むと、確かに小さな建物が見えてきた。それは木と石で作られた質素な小屋で、周囲の環境を壊さないよう配慮されていた。周辺には、人間の足跡や活動の痕跡が見られたが、大規模な工事の形跡はなかった。
「静かに近づこう」チロが小声で言った。
私たちは茂みに身を隠しながら、小屋に接近した。窓から内部を覗くと、シンプルな生活空間が見えた。寝袋、小さなテーブル、本棚、そして調理器具。しかし、人間の姿はなかった。
「今は留守のようだ」私は言った。「どんな人間が使っているのか調べよう」
小屋の周囲を調査すると、いくつかの興味深い発見があった。まず、裏手には小さな畑が作られていた。そこでは様々な野菜や薬草が栽培されていた。また、小屋の壁には動物や植物の写真が貼られており、中には「王国」で見かける種類も含まれていた。
「これは…」チロが小屋の前に置かれた名札のようなものを見つけた。「『遠藤美雪 フィールドステーション』と書いてある」
「遠藤だって?」私は驚いた。「あの環境ジャーナリストか」
「どうやら彼女が使う小屋らしい」ヤマトも驚いた様子だった。「ここから『王国』を観察しているのかもしれないな」
私たちがさらに調査を続けていると、突然、人間の足音が聞こえてきた。
「隠れろ!」
私たちは急いで茂みに身を潜めた。そこへ、若い女性が現れた。遠藤美雪だ。彼女はバックパックを背負い、カメラを首から下げていた。
遠藤は小屋の前で立ち止まり、周囲を見回した。そして、驚くべきことに、地面に何かを置いた。それはリンゴだった。
「いつもありがとう、見えない友達」彼女は静かに言った。「あなたたちのおかげで、素晴らしい記事が書けています」
そう言うと、彼女は小屋に入っていった。
「これは…」チロが困惑した様子で言った。
「彼女は私たちの存在を知っている」私も驚いた。「そして、友好的な態度を示している」
「ヤマトの情報によれば、彼女は『共存』を訴える記事を書いているらしい」チロが思い出したように言った。「小田切とは対立する立場だ」
私たちはしばらく状況を観察した後、「王国」に戻ることにした。この発見は「評議会」で共有し、対応を決める必要があった。
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「評議会」は緊急会議を開き、遠藤の小屋について議論した。
「彼女が『王国』の近くに拠点を置いたことは、良い面と悪い面がある」ガンが指摘した。「良い面は、彼女が私たちに友好的であること。悪い面は、他の人間を引き寄せる可能性があることだ」
「彼女の活動は、むしろ私たちを守ることになるかもしれない」ミウが意見を述べた。「遠藤さんの記事によって、この地域が保護される可能性もあるわ」
「しかし、完全に信頼するのは危険だ」エゾリスのキツも警戒心を示した。「人間は気まぐれだ。今は友好的でも、明日はどうなるか分からない」
様々な意見が出される中、私も考えを述べた。
「彼女を敵視するよりも、慎重に距離を保ちながら、彼女の活動を見守るべきではないだろうか。彼女が『王国』の脅威にならない限り、共存は可能だと思う」
議論の末、遠藤の小屋を許容し、彼女の活動を警戒しつつも敵視はしないという方針が決まった。また、カラスたちが定期的に彼女の動きを観察することになった。
「近づきすぎず、遠ざけすぎず」チロが方針をまとめた。「適度な距離感を保つことが重要だ」
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遠藤の小屋が発見されてから数日後、さらに驚くべき出来事が起きた。それはカズナリからの伝言だった。
彼はいつものように窓辺にスケッチブックを置き、そこには新しいメッセージが書かれていた。
「遠藤さんが学校に来て、野生動物の授業をしてくれたよ。彼女は『王国』のことを知っている?友達になれるかも」
「カズナリと遠藤が接触しているとは…」私は驚いた。
状況はさらに複雑化していた。カズナリという架け橋を通じて、遠藤との関係がより直接的になる可能性が出てきたのだ。
「これも何かの縁かもしれないな」チロが深く考え込むように言った。「人間の中にも、私たちを理解し、尊重してくれる存在がいる」
「カズナリと遠藤…」私も考え込んだ。「彼らは私たちと人間の世界をつなぐ存在になるかもしれない」
この出来事を受けて、「評議会」では再び議論が行われた。結果として、カズナリを通じて遠藤とのコミュニケーションを図る可能性を探ることになった。もちろん、慎重に、そして段階的に。
「新しい時代が始まるかもしれないな」ヤマトが感慨深げに言った。「種を超えた共存の先に、人間との共存も視野に入ってくるとは」
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八月初旬、北海道の短い夏は最盛期を迎えていた。「王国」は緑で溢れ、生命力に満ちあふれていた。拡大した領域には様々な動物たちが集まり、活気ある共同体が形成されていた。
「パパ、今日は森で遊んでもいい?」朝食後、ハルが尋ねてきた。
「いいよ」私は答えた。「でも、必ずキタとユキと一緒に。そして、遠くに行かないこと」
「約束する!」ハルは嬉しそうに飛び跳ねた。
子供たちが外で遊ぶようになって、私とミウの時間も少し増えた。私たちは「王国」の巡回をしながら、これまでの変化について話し合っていた。
「信じられないわね」ミウが感慨深げに言った。「あの厳しい冬から、こんなに発展するなんて」
「ああ」私も同意した。「最初は単なる避難所だったのに、今では多くの種が共存する共同体になった」
「あなたの『北の流儀』も板についてきたわね」ミウがくすりと笑った。
「まだまだだよ」私も笑い返した。「チロには及ばない」
私たちは小川のほとりで一休みした。水面には太陽の光が反射し、キラキラと輝いている。魚が時折跳ねる姿も見える。平和な光景だった。
「それにしても」ミウが水面を見つめながら言った。「これからも『王国』は拡大し続けるのかしら」
「どうだろう」私も考え込んだ。「無制限に広がることはないだろう。適切な規模があるはずだ」
「そうね」ミウは頷いた。「大きすぎると管理も難しくなるもの」
「重要なのは、質の向上だと思う」私は言った。「領域の拡大よりも、共同体としての絆を深め、より安全で豊かな生活を実現することだ」
私たちの会話は、突然の叫び声で中断された。
「パパ!ママ!大変!」
キタが全力で走ってきた。彼の表情は真剣で、明らかに何か重大なことが起きたようだった。
「どうした?」私はすぐに立ち上がった。
「人間だよ!森の中に入ってきたんだ!」キタは息を切らして報告した。
「カズナリ?それとも遠藤?」ミウが尋ねた。
「違う!見たことない人間!たくさんいるよ!」
これは緊急事態だ。私たちはすぐに現場へと急いだ。
森に到着すると、確かに数人の人間が測量機器らしきものを設置していた。彼らは作業着を着て、メモを取ったり、地面に印をつけたりしていた。
「開発の調査か?」チロが茂みから状況を観察しながら言った。彼も警報を聞いて駆けつけたようだ。
「どうやらそうだな」私も警戒した。「森が危険にさらされるかもしれない」
私たちは静かに人間たちの会話に耳を傾けた。
「ここからこの線まで、全て伐採する予定です」一人の男性が図面を指さしながら言った。
「問題ありません。環境アセスメントも済んでいますし、許可も下りています」別の男性が答えた。
「工事開始は来月ですか?」
「はい。まずは道路から整備し、その後、施設の建設に入ります」
これは深刻な脅威だった。彼らの計画が実行されれば、「王国」の森の大部分が失われることになる。エゾリスやエゾナキウサギたちの住処も危険にさらされる。
「急いで『評議会』を招集しよう」私は決断した。「全員に警報を出して」
カラスたちが即座に飛び立ち、「王国」中に緊急事態を知らせた。
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「評議会」は緊急会議を開き、迫りくる危機について話し合った。全てのメンバーが深刻な表情で集まっていた。
「森の開発計画が進行中だ」私は状況を説明した。「来月には工事が始まるらしい」
「これはまさに危機だ」キツが震える声で言った。「私たちの住処が奪われる」
「私たちも大変危険です」エゾナキウサギのオヤブンも心配そうに言った。「あの森にしか住めないのに…」
会議は一時パニックに陥りかけたが、ヤマトが冷静な声で発言した。
「すぐに行動を起こす必要がある。まず、正確な情報収集だ。開発計画の詳細、関係者、そして阻止できる可能性について」
「カラスたちに市役所を調査してもらおう」チロが提案した。「開発許可の書類や図面を見つければ、計画の全容が分かるはずだ」
「遠藤さんに連絡する方法はないの?」ミウが提案した。「彼女なら環境保護の立場から、開発に反対してくれるかもしれない」
「カズナリを通じて」私はうなずいた。「彼に伝言を残せば、遠藤に伝わるかもしれない」
「同時に、避難計画も考えておくべきだ」ガンが現実的な提案をした。「最悪の事態に備えて、新たな住処を探す必要がある」
「評議会」は行動計画を練った。情報収集、遠藤への接触、そして避難準備。時間との戦いが始まった。
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翌日から、私たちの緊急対策が動き出した。カラスたちは市役所や開発会社を調査し、貴重な情報をもたらした。
「開発計画は『札幌リゾート計画』の一部らしい」ヤマトが報告した。「高級別荘地とゴルフコースを建設する予定だ」
「主導しているのは誰だ?」私は尋ねた。
「『北道開発』という会社だ」ヤマトが答えた。「社長の名は高島といって、札幌の有力者らしい」
また、カズナリへの伝言も試みた。私は彼の家の窓辺にメッセージを残した。
「森が危険です。開発計画があります。遠藤さんに伝えてください。助けてください」
単純なメッセージだが、これが伝われば、状況が変わるかもしれない。
同時に、避難準備も進めた。「王国」の北側にある丘陵地帯を新たな避難先として検討し、そこへの移動ルートや必要な準備を整えた。
「丘はまだ開発されていないが、環境は厳しい」チロが説明した。「冬には強風が吹き荒れ、雪も深い」
「選択肢がない」キツは悲しげに言った。「どんな場所でも、住処がなくなるよりはマシだ」
エゾナキウサギたちは特に深刻な状況だった。彼らは特殊な環境にしか適応できず、移動することで生存率が大幅に下がる可能性があった。
「何とか森を守る方法はないのか…」私は思い悩んだ。
三日目、カズナリからの返事があった。彼もまた窓辺にメッセージを残していた。
「遠藤さんに伝えました。彼女はとても驚いていました。『すぐに動く』と言っていました」
これは希望の光だった。遠藤が何らかの行動を起こしてくれるなら、森が救われる可能性はある。
待つことしかできない状況の中、私たちは準備を続けた。食料の備蓄、移動経路の確保、そして子供たちへの説明。
「なんで引っ越さないといけないの?」ハルが不安そうに尋ねた。
「人間が森を変えようとしているからなんだ」私は優しく説明した。「でも、まだ決まったわけじゃない。遠藤さんが助けてくれるかもしれないよ」
「遠藤さんって、カズナリくんの友達?」ユキが小さな声で尋ねた。
「そうだよ」ミウが答えた。「彼女は動物たちの味方なの」
「彼女が森を守ってくれますように」キタは真剣な表情で祈るような仕草をした。
子供たちの不安そうな表情を見ると、胸が締め付けられる思いだった。彼らが生まれて初めて知った「王国」の森。その大切な場所が失われるかもしれない現実を、私たちは受け入れることができるだろうか。
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五日目の朝、思いがけない訪問者があった。
「ラスク!急いで!」シンが興奮した様子で飛んできた。「カズナリと遠藤が森に来ている!」
私はすぐにチロを伴って現場に向かった。確かに、森の縁にカズナリと遠藤が立っていた。彼らはカメラや測定機器を持ち、何かを調査しているようだった。
「彼らは何をしているんだ?」私はカズナリの表情を観察した。彼は真剣な顔で遠藤の指示に従い、メモを取っていた。
「環境調査だろう」チロが推測した。「開発計画に対抗するためのデータ収集かもしれない」
私たちは安全な距離から二人を観察した。彼らは丁寧に植物や土壌のサンプルを採取し、写真を撮影していた。特に注目したのは、彼らがエゾナキウサギの巣穴の近くで多くの時間を費やしていたことだ。
「希少種の生息地として保護を訴えるつもりかもしれないな」チロが言った。
二人が帰った後、私たちは森に残されたものを調査した。そこには小さな木製の看板が立てられていた。
「調査地点・絶滅危惧種生息地・工事禁止」
「これは…」私は希望を感じた。「彼らは本気で森を守ろうとしているんだ」
翌日、カラスたちがさらに重要な情報をもたらした。遠藤が地元新聞に記事を書き、「札幌リゾート計画」の問題点を指摘したというのだ。特に、絶滅危惧種であるエゾナキウサギの生息地が脅かされる危険性を強調し、開発の見直しを求めたらしい。
「彼女の記事は反響を呼んでいる」ヤマトが報告した。「環境保護団体が動き始め、市議会でも議論になっているようだ」
これは朗報だった。遠藤の活動によって、森を救える可能性が出てきたのだ。
一週間後、さらに状況が進展した。「札幌リゾート計画」の工事開始が延期されたという情報がカラスたちによってもたらされたのだ。
「環境影響評価のやり直しが決まった」ヤマトが興奮して報告した。「最低でも半年は工事が始まらない」
「王国評議会」は喜びと安堵の声に包まれた。完全な勝利ではないが、貴重な時間を得ることができた。その間に、さらなる対策を考えることができる。
「遠藤さんとカズナリくんには感謝しないといけないね」ミウが言った。
「ああ」私も心から同意した。「彼らがいなければ、森は失われていたかもしれない」
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八月中旬、北海道の短い夏も終わりに近づいていた。「王国」はさらに成熟し、様々な種が調和して生活する場所となっていた。
この日、「王国」に特別な行事が催された。「感謝祭」と名付けられたこの行事は、森を救ってくれた恩人たちへの感謝を表すものだった。
「王国」の中心広場には、様々な食べ物が並べられた。各種族が得意とする食物や、特別に集められた珍しい木の実など、豊かな恵みが分かち合われた。
「皆さん」私は集まった動物たちに呼びかけた。「今日は特別な日です。私たちの『王国』、特に大切な森を守ってくれた友人たちに感謝する日です」
動物たちは歓声や鳴き声で賛同を示した。
「遠藤さんとカズナリくんは、種を超えた友情を示してくれました。彼らがいなければ、多くの仲間が住処を失っていたでしょう」
エゾリスたちとエゾナキウサギたちは特に感激した様子で、彼らなりの歓声を上げた。彼らにとって森は生きる場所そのものだったからだ。
「今日、私たちが集まったのは、感謝の気持ちを表すためです。そして、より良い『王国』を築く決意を新たにするためです」
祭りは一日中続き、様々な出し物や遊びが行われた。カラスたちは空中演技を披露し、エゾリスたちは木から木へと華麗に飛び移る技を見せた。エゾナキウサギたちは美しい合唱を聞かせ、アライグマたちは面白い寸劇を演じた。
子供たちも大はしゃぎだった。ハルは様々な動物から芸を教わり、キタは力比べゲームで大活躍した。ユキでさえ、いつもの内気さを忘れ、エゾナキウサギたちの合唱に参加していた。
祭りの終わりに、私たちは特別な贈り物を準備した。森で集めた美しい石、珍しい羽、そして木の実や花を編んだ飾りだ。これらをカズナリの窓辺と遠藤の小屋に届けることにした。
「感謝の気持ちが伝わるといいな」ミウが言った。
「きっと伝わるよ」私は確信を持って答えた。「彼らは私たちの気持ちを理解してくれる」
その夜、子供たちを寝かしつけた後、私とミウは「王国」の高台に登り、星空を眺めていた。
「『王国』も随分変わったね」ミウが感慨深げに言った。
「ああ」私も同意した。「最初は単なる廃墟だったのに、今では様々な命であふれている」
「そして、拡大し続けているわ」ミウは微笑んだ。「土地の面積だけじゃなく、心の広がりもね」
「そうだな」私も星空を見上げながら言った。「種を超えた共同体から、今度は人間との共存へ。私たちの『王国』はまだまだ成長している」
「子供たちの未来は明るいね」ミウが言葉を添えた。
「ああ、彼らは私たちより良い世界で生きていくだろう」
私たちは静かに星空を眺め続けた。「王国」の拡大は、物理的な領域だけでなく、心の中の領域でも進んでいた。それこそが、真の意味での「王国の拡大」なのかもしれない。
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