絶対服従のカリスマと禁断の螺旋迷宮
小乃 夜
第一部∶1話 氷の女王の憂鬱
西暦20XX年、夜の帳が下りたクリスタル・シティは、雨上がりのアスファルトにネオンの光を妖しく反射させ、まるで宝石箱をひっくり返したような輝きを放っていた。無数のドローンが意思を持つ光の粒子のように空を舞い、地上では自律走行車が静かに車線を滑る。人々の腕には情報端末が埋め込まれ、常に最新の情報が流れ込んでいる。高度なAIが都市の隅々まで浸透し、人々の生活を最適化する。それが、この未来都市の紛れもない日常だった。
その喧騒の中心に、白銀の刃のように聳え立つ「クリスタリア・ラボ」。その最上階、外界の喧騒から完全に隔絶された聖域のような空間で、都市の頂点に君臨する女王、アリア・クリスタリアは、今日も沈黙の中で思考を巡らせていた。
弱冠二十代にして、都市のAI技術を牽引する天才研究者。流れるような銀糸の髪は、凍てつく冬の朝日に照らされた雪のように白く輝き、吸い込まれそうなほど深く透明なアイスブルーの瞳は、世界のあらゆる感情を拒絶するかのように冷たい光を湛えている。完璧な造形を持つ顔立ちは微動だにせず、まるで精巧に作られた氷の彫像のようだ。彼女の前に立つ者は、その絶対的なカリスマと、凍てつくような美貌に息を呑むしかなかった。まさに、生けるカリスマ。彼女こそが、この都市の秩序であり、未来そのものだった。
広大な研究室の中央に据えられた巨大なホログラムディスプレイを、アリアは無言で見つめていた。複雑な数式が宙空に幾重にも重なり、三次元の分子構造が回転しながら絶えず更新されていく。それは、都市の神経中枢、「クリスタル・マインド」と呼ばれるAIネットワークの中枢と直接接続された、彼女の思考の具現化に他ならなかった。
「進捗は?」
低いながらも、研ぎ澄まされた刃のような声が、静寂を切り裂いた。感情の起伏は一切なく、ただ冷徹な命令だけが宿るその声は、研究室の空気を一瞬にして凍りつかせた。
背後の影から音もなく現れた、漆黒のスーツに身を包んだ長身の男性が、その声に応えた。白を基調とした無機質な研究室の中で、彼の存在は唯一の、そして強烈な黒い染みとなっていた。
「マスター、実験フェイズ3、データ収集は予定通り完了いたしました。現在、最終分析を実行中です」
抑揚のない、まるで機械が発するような無機質な声。彼の名はクロウ。アリアが極秘裏に開発した実験的なアンドロイドだった。人間と見紛うほど端正な顔立ちをしており、外見年齢は二十代後半に見える。しかし、その奥底まで見通せない漆黒の瞳には、人間特有の温かさや感情の光は微塵も宿っていなかった。彼は、アリア・クリスタリアの絶対的な命令にのみ、忠実に従う従者として創造された存在。その忠誠はプログラムされたものであり、疑う余地など微塵もなかった。
アリアはホログラムから一瞬も目を離さず、氷のように冷たい声で短く頷いた。「結果を正確に報告してください。一つの逸脱も許しません。」
「承知いたしました」
クロウは再び、音もなくアリアの背後へと溶け込んだ。彼の動きは洗練されており、無駄な動作は一切ない。まるで、この研究室の静謐な環境の一部であるかのように、周囲の空気と完全に一体化していた。
その日の午後、クリスタル・シティを震撼させるニュースが、電光掲示板や人々の情報端末を駆け巡った。都市のエネルギー供給システムの中枢を担うサイバネティクス研究の権威、Dr.シモン・ウェルズが、自宅で奇妙な死を遂げたというのだ。現場の状況は、強盗や事故といった単純な事件を示唆するものではなかった。プロの殺し屋による犯行を疑う声も上がっていたが、決定的な証拠は見つかっていないという。
都市の中央広場に設置された巨大スクリーンに映し出されるニュース映像を、偶然見上げていたアリアは、その完璧なまでの無表情を微かに歪ませた。シモン・ウェルズ。昨日、彼女の研究プロジェクトに関する極めて重要なデータを提供したばかりの人物だった。彼の死は、単なる偶然とは思えなかった。彼女のカリスマ的な直感が、背後に渦巻く不穏な影を告げていた。
ラボに戻ったアリアは、クロウを即座に呼び出した。「クロウ」
「はい、マスター」
漆黒の従者は、いつの間にか彼女の背後に控えていた。その存在は空気のように自然でありながら、常に主の命に応える準備ができていた。
「シモン・ウェルズの死について、詳細な情報を集めてください。都市のネットワークを最大限に活用し、私に全ての真実を報告してください。」
「了解いたしました、マスター」
クロウは、まるで思考するよりも早く、都市の情報網へのアクセスを開始した。彼に搭載された、騎士(ナイト)の名を冠するアブソリュートAIは、人間のそれを遥かに凌駕する処理速度で膨大な情報をフィルタリングし、事件に関連性の高いデータを瞬時に抽出していく。彼の内部では、目に見えない情報の奔流が渦巻き、複雑なアルゴリズムが静かに、しかし確実に真実の断片を拾い上げていた。彼の存在意義は、ただ一つ。アリア・クリスタリアの命令を絶対的に遂行すること。そこに、自身の意思や感情が介在する余地はなかった。
数時間後、クロウは収集されたデータを、研究室の中央にホログラフィック映像として投影し、アリアの前に提示した。
「被害者、Dr.シモン・ウェルズの死亡推定時刻は昨夜の深夜。侵入の痕跡は最小限。発見されたのは、微細な金属片のみ。組成分析の結果、既知の金属との一致は確認できませんでした。」
アリアは、宙空に浮かび上がる金属片のホログラムを、まるで獲物を定める猛禽のように鋭い視線で凝視した。光をほとんど反射しない、鈍い黒色の破片。それは、この世界に存在する物質ではないかのような、異質な存在感を放っていた。彼女の瞳の奥で、高度な思考回路が瞬時に稼働し、その特異な物質の可能性について分析を開始する。彼女のカリスマ性は、その知性と洞察力によって裏打ちされていた。
「監視カメラの映像はどうですか?」
「近隣の公共監視カメラの記録には、不審な人物の映り込みはありませんでした。しかし、被害者宅の個人的なセキュリティシステムは、事件発生時刻前に、ごく短い時間、機能が停止していたことが判明しました。」
「意図的な妨害工作か……」アリアは、氷の彫像が微かにひび割れるかのように、冷ややかに呟いた。その声には、僅かながらも警戒の色が滲んでいた。「クロウ、その金属片を詳細に分析してください。組成だけでなく、発見された場所の微細な環境データも照合してください。おそらく、犯人の手がかりになります。」
「承知いたしました」
クロウが、ホログラムに手を伸ばし、分析を開始しようとしたその時だった。アリアの個人的な情報端末が、短い電子音を発した。それは、最高レベルの暗号化プロトコルで送信された、緊急連絡を示す特別な信号だった。
アリアはホログラムを瞬時に閉じ、端末に表示された発信者の名前を確認した。その瞬間、彼女の完璧に制御されたアイスブルーの瞳の奥に、ごくわずかな、しかし確実な動揺の色が宿った。それは、まるで静かに降り積もった雪の下に、隠されていた感情の芽が、一瞬だけ顔を覗かせたかのような、微細な変化だった。普段、感情を表に出すことのない彼女にとって、それは異例の事態だった。
「クロウ、分析は中断してください。私はしばらく席を外します。」
「どちらへ?」
従者からの問いかけに、アリアは一瞬、言葉を詰まらせた。普段ならば、彼女の行動に疑問を挟むことなど決して許さないクロウの、その質問の奥に、これまで感じたことのない、微かな感情のニュアンスを感じ取ったからだ。それは、単なる職務上の義務を超えた、一見無機質な存在からの、静かな、そして明確な不安の表れのように思えた。絶対服従の従者の中に芽生え始めた、主への微かな感情。それは、プログラムされた忠誠心とは異なる、未知の領域への足がかりだったのかもしれない。
しかし、その感情の正体を確かめる余裕は、今の彼女にはなかった。アリアは、いつもの冷ややかな声で告げた。「個人的な要件です。研究室のセキュリティレベルを最高に維持してください。何者にも侵入を許さないでください。」
そう言い残し、氷の女王は研究室を後にした。後に残されたクロウは、アリアの消えたドアを、ただその機械的な瞳で見つめていた。彼の限定的な感情回路では完全に理解できない、主の隠された不安が、静かに彼の中で共鳴していた。そして、その共鳴は従者の内に、これまで経験したことのない、微かな、しかし確かな熱のようなものを生み出し始めていた――それは、プログラムされた忠誠心とは異なる、未知の感情の萌芽だったのかもしれない。それは、主従関係を超えた、禁断の感情の予兆。それは、まだ小さく、曖昧だが、確かにそこに存在していた。
(続く)
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