第2話 現実と夢

 二人きりの部屋に、沈黙が流れる。けれどそれは長く続かず、高親はわたしの目を見て口を開いた。


「お察しかもしれませんが……田川家は、幕府の意向によりお家取り潰しと相成りました」

「……そのわけは?」

「当主興伸様の、代官としてのお働きに多大なる疑念があるとのことです。豪商や幕府内からの投書があり、調べた結果だと」

「……」

「興伸様は昨日迄に、身辺整理を終えられました。城も邸も取り上げます故、家臣たちにいとまを与えられました。……弟様の幸伸様は、他藩へ養子に出されるとのことです」

「幸伸……」


 そういえば、昨日から弟の姿を見ていなかった。

 三歳年下の幸伸は、もう何が起こったのか等理解出来るだろう。あの子は聡いから。だけど、お別れの挨拶くらいはして欲しかった。


「……養子とは言え、風当たりは強いでしょうね」

「ええ。ただ私はどの藩に行かれたのかを知りませんので、無事にお健やかであることを願うことしか出来ませんが」

「何処かで、また会えれば良いのだけれど。……父上と母上は、どうなさったの?」

「……」

「高親。言ったはずよ、教えて欲しいと。父上は身辺整理をされた。ならば、そういうことなのでしょう?」


 言うことを迷っている様子の高親に、わたしは重ねて言う。何となく想像はついているけれど、まだ認めたくないから。

 十回ほど呼吸しただろうか。高親はようやく、意を決したように顔を上げた。


「……殿は切腹、奥方様は後を追うと言って譲られませんで、おつきの者たちが説得しているはずです。譲られるかはわかりませんが」

「そう……」


 息をつくことしか出来ない。父を喪い、母もいなくなるかもしれない。更に高確率で弟とも生涯会えない。これらを全て、今呑み込めというのは無理だ。

 目を瞬かせるけれど、涙が一滴も出て来ない。それが親不孝に思えて、わたしは苦笑いを浮かべて高親に目を向けた。


「……変なの。悲しいはずなのに、涙が出て来ない」

「受け止められていないのです。仕方がありませんよ。……私も、きっとまだ呑み込めていませんから」


 今は一度、お休み下さい。

 高親に促され、わたしはそろそろと横になる。家の主が準備してくれた布団は、柔らかいとは言い難かったけれど、体の疲れからすぐに目を開けていられなくなった。


 ❅❅❅


 夢を見た。

 それが夢だとわかったのは、幼い頃の出来事の再現だったから。

 今より幼い、乳飲み子の弟と彼を抱く母、そして少し若い父。わたしはといえば、まだ早いと言われたのに木刀を振ろうとしている。


『んーっおもいー!』

『だから言っただろう? 姫にはまだ早いと』

『でもでも、みおもちちうえとけんじゅつしたい』

『そうか……。ならば、これはどうだ?』


 そう言って、父上は短めの竹刀を渡して下さった。後から聞いた話では、毎日のように剣術をしたいと駄々をこねるわたしのため、竹刀を手に入れて下さったらしい。

 幼いわたしは嬉しくて、ぶんぶん振り回したっけ。あまりに喜ぶから、姫なのに先が思いやられると母上に苦言を言われたのも懐かしい。


「……もう、こんな光景は見られないのかもしれないな」


 夢は、後先に繋がりがない。気付けば、わたしは少し成長していた。自分を少し離れた場所から眺めているというのは、不思議な気分になる。


『何をしておられるのですか、姫様?』

『高親』


 幼いわたしが一人、邸の庭で竹刀をもてあそんでいた時のこと。やって来たのは、まだ幼さの残る幼馴染で本当の兄上のような高親。彼の父がわたしの父の家臣であった縁で、わたしたちは近しい関係にあった。


『あのね、剣術の稽古をしていたの。だけど飽きちゃって……高親、相手してくれる?』

『また、奥方様に叱られますよ? お怪我などされたら、どうなさるおつもりですか?』

『その時は……高親と一緒に謝るから大丈夫。それに高親は、わたしが大人しくしていられないって知っているでしょう?』


 そう。あの頃、竹刀を振り回すのが好きだった。父に与えられたものだという特別感と、自分も誰かを守る刀になれると信じていたから。

 わたしが叱られることを前提にして誘っていることに、高親は呆れていた。けれど彼は優しいから、我儘に付き合ってくれる。


『仕方ありませんね。いきますよ』

『うんっ、ありがとう』


 もう一本あった竹刀を差し出せば、観念した高親がそれを受け取ってくれる。わたしが怪我をしないよう、高親が手加減してくれるのはわかっていた。だけどわたしは、もっときちんと稽古をしたかったんだ。

 もっと強くなって、体の弱い弟を、いつか家督を継ぐ弟を助けたかった。父上のことも母上のことも守れるようになりたかった。


『……もう、諦めてしまうの?』

「えっ」


 その言葉は、わたしに向かって投げかけられている。それに気付いた時、わたしは本当に驚いた。夢の中のわたしが、幼い頃のわたしが、今のわたしを見つめている。


「どうして……」

『父上が、わたしに竹刀を与えて下さった。その思い出を、あの時感じた思いを、わたしは捨ててしまうの?』

「――っ。だって、もう父上はいないの。幸伸にも会えないし、きっと母上も父上を追って逝ってしまわれる! わたしには、もう約束を守りたい人がいないの!」


 皆いなくなった。大切な人たちは、家族はもういない。父上に頼まれたという高親も、きっと近々わたしを置いて何処かに行ってしまう。何故なら、死人からの命令を聞き続ける理由なんてないから。

 わたしはもう、どうやって生きていけば良いのかもわからない。

 立っていたはずだけれど、いつの間にかわたしは膝を抱えて泣いていた。現実では流れなかった涙が溢れて、止まらない。泣いても帰って来ないのに、泣いても何も解決しないとわかっているのに。


『――今は、いっぱい泣いて良いの。泣いて泣いて、ようやく見えて来るものもあるから』

「……っ」


 夢の中の幼いわたしが、今のわたしを抱き締める。夢の中で温かさなんて感じるはずもないのに、何故か温かい。その熱が、わたしの涙を助長する。

 わたしは年甲斐もなく、声を上げて泣いた。やがて泣き疲れて夢の中で眠るまで、幼いわたしはわたしを抱き締めたままでいてくれた。

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