第7話

 ベッドに入っても、落ち着かない。

 落合さんの言葉や仕草が、ぐるぐると頭の中を回っていた。

 あの“立候補発言”は、本気だったのだろうか。

 お酒の席の出来事だ、冗談とも本気ともつかない。


 でも、心のどこかに妙な引っかかりが残っている。

 落合さんと居ると、本来なら一緒に居たはずの香苗のことをどうしても思い出してしまう。

 写真を見せられ、他の男に心変わりをしたと言われた。

 でも、あの写真の笑顔が、あんなに自然だったからこそ、逆に不自然に思えてくる。


 本当に最近の写真だったのか?


 手がかりになるなら、もう一度あの写真をよく見て……いや、それより。

 

 俺は、ベッドの天井を見つめたまま、名前を口にした。


「……香苗……」


 静かな寝室に、ぽつりと響く声。

 

 その瞬間だった。

 

 「プルルルルー、プルルルルー……」

 

 携帯電話の着信音が、突如として部屋に鳴り響いた。

 耳元でもない。ベッドの下でもない。

 “部屋全体”が鳴っているかのような、包み込むような音。

 それと同時に、スゥーと、空気が冷える。

 暖房の効いた部屋にいるはずなのに、毛布越しにまで寒気が染み込んできた。


 「プルルルルー、プルルルルー……」

 

 ――ズシッ。

 腹の上に、何かが乗ったような感覚。

 身体が動かない。

 腕も、足も、声すらも――

 完全に、金縛りだ。

 

 「プルルルルー、プルルルルー……」

 

 足元から、何かが這い上がってくる音が聞こえた。

 ずり、ずり、ずり……

 擦れるような音。湿った何かが、布団の上を這ってくる気配。

 暗闇の中、目を凝らす。

 ……見える。

 シーツの上を動く、“人の手”のようなものが。

 白くて細い指が、布をぎゅっと掴んでいる。

 

 「プルルルルー、プルルルルー……」

 

 その手が、胸の上に到達した。

 同時に、冷たい息が、顔にかかる。

 スー……ハー……と、濁った呼吸音がすぐ目の前で繰り返される。

 まぶたを開けると、そこには――

 

 真っ青な唇。

 その口元が、わずかに動く。

 

「……さむ……ぃ……」

 

 耳元に、湿った声が吹き込まれる。

 それはか細く、でも確かに“香苗の声”に似ていた。

 「プルルルルー、プルルルルー……」

 

「さ……む……い……」

 

 冷気が全身に染みわたる。

 涙が出そうになる。怖い。怖すぎる。

 

 「う、うああああああっ!」

 

 叫び声と同時に、体が一気に跳ね起きた。

 荒く、早く、苦しげな息を繰り返す。

 背中と首筋には冷や汗がびっしょりと貼りついていた。

 部屋の灯りをつけ、あたりを見渡す。

 何もいない。空気は元に戻っている。

 何気なく、足元へ視線を落とした。

 すると、ベッドの脇に、スマートフォンが落ちていた。

 自分のスマホは、ちゃんと枕元にあるのに。

 

 「……嘘、だろ……」

 

 頭を抱え、ぐしゃぐしゃと髪をかきむしる。

 震える手で、床に落ちていたスマホを拾い上げる。

 画面をタップしても、やはりロックがかかっていて開けない。

 

 あの夜、川に投げ捨てたはずだ。

 自分の手で、確かに。間違いなく。

 なのに、なぜ……。

 

 これは香苗なのか?

 彼女が、俺に“何か”を訴えているのか?

 それとも、俺を、恨んでいるのか?

 

「……幽霊でもいい。香苗に、会いたいんだ……」


 そう呟いたとき、ハッと我に返る。


 落合さんは言っていた。香苗は、男と暮らしてるって。

 あの写真も、つい最近のものだと言っていた。

 香苗は……生きている。

 なら、俺は何を見ていた? 

 誰の声を聞いたんだ?

 

 もう、何が現実なのか、わからなくなってきていた。

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