プロローグ
第1話/出逢い
なにもかもわからなかった。
いつも暗闇の中にいた
誰も
何も
見えなくて
聞こえなくて
不安だらけで。恐怖だらけで。
怯えて震えて全てを塞いだ。
体を傷つけ、心を傷つけ、自分を傷つける。
ダレか助けてよっ…………
暗い闇に彼女の悲痛な叫びがこだまする。
「離してください!離して!」
「うるせーな喚くんじゃねーよ」
「ッ!モゴッ…ッツ!」
そんな悲痛な声が響く。
後ろからボブの茶髪を引っ張られて、グッと強く口を抑えられた。
苦しくて声がうまく出せなくなり、両腕を掴まれたせいで、助けを求められなくなる。
苦しさと恐怖から視界が歪むのがわかった。
誰かっ助けて…!
とうとう零れ落ちた涙が頬を伝うが、そんなの私を捕まえ組み敷いた男たちには関係ない。
男の体が重たくて身動きが出来なくなった。
なんでこんなことにっ…
ビルの合間、人が通ることなんてない狭い狭い路地。
空は真っ黒、何も映さない空にさえも恐怖を覚えた。
夜中にコンビニなんて危険なことはわかっていたけれど、まさか男の人に襲われるなんて思っても見なかったんだ。
夜中に出歩く癖が付き過ぎていた。
1時間ほど前、深夜0時を回った頃、いつも通りにフラリ、と家を出て近くのコンビニに向かった。
コンビニを出てからも家へと足先は向かず、無意識の内に街を歩いていた。これもいつものことだ。
『あっれ、こんなところで何してんのー?』
『ははっまだガキじゃん』
その途中で、男の人たちに声をかけられた。気味の悪い男の人2人に腕を掴まれて、我に帰ったがもうその時には遅かった。
「はっ…な、」
「オイ、お前そっち脱がせや。」
「ひっ…、い、い、やっいやっ…!」
裏路地に連れていかれ、今に至る。人の気配がないここはもう助けを求めても意味が無いに近かった。
髪を引っ張られ、服を剥ぎ取られ、下品な男たちの息遣いが皮膚にかかる。
気持ちが悪い
キモチガワルイ
キモチガワルイ
キモチガワルイ
涙でもう視界が歪み、暗闇の路地、薄暗い電信柱の明かりに照らす景色さえわからない。
真っ暗な空が見える。
視界が涙で滲んでもその黒は変わらなくて、心が苦しくなった。
なんで?
なんでこんなことに
『出てけ!』
『アンタなんかいらないわ!』
途端、嫌な声が聞こえてくる。
耳を塞ぎたくても脳裏に直接響くようなそれは私の心を黒く染める。空と同じように滲んでも変わらない真っ黒な色。
心さえも汚れてるのに
カラダさえも汚れるの?
汚い。
汚い。私は汚い。
だから、誰にも愛されない
もう何もかも嫌だ
あぁ、でもできるものなら
誰かを愛したい。愛し、愛されたい。
男の興奮した息遣いに目を瞑る。
男に服を剥ぎ取られ、今中の下着が丸見えの状態、スカートもはだけている。いつも綺麗にセットしてある地毛の茶色である髪もグチャグチャだ。
気持ちが悪い
誰か助けてよ
「オイ。」
その声に私に跨っていた上の男が動きを止めた。ぼんやりと虚ろな目のままその声のする方を見た。
その瞬間、
バキッ!!!
「ガッ…」
声のする方へ顔を向けた直後、上に乗っていた男の人が吹っ飛んだ。とても鈍い音を響かせて。
「くだらねえことしてンじゃねぇよ。」
男の人が吹っ飛ばされ、私を囲い込んでいた他の男たちも茫然としていた。
「な、なんだテメェっ」
「邪魔すンじゃねぇよ」
大きな声で凄むように怒鳴る。コンクリートの壁に反響するその声にビクッと震え上がった。
「…黙れ。」
突然現れたそれは低く小さい声で唸ったかと思えば、物凄い勢いで私に群がっていた男の人を一網打尽にする。
よろけた所を蹴られ、殴られ
ぶつかり合う音と低い呻き声が響く。
男の人たちは逆上して走り出した。
走り出してきた男の人たちを殴り蹴り、壁に打ち付ける。血で彼らの顔が染まる。
耐え切れなくなった男の人たちは慌ててそこから逃げだした。
それを見て、震え上がっていた心臓が小さく安心を取り戻す。
ホッと胸をなで下ろした。
「………っゥ」
痛みに悲鳴をあげる体を起こし、その光景を茫然と見る。
座り込む私より数メートル離れたところに立つ男の人。
電信柱のランプの光に反射するような金髪
その短い髪は耳のピアスを強調していて
その体がこちらを振り返れば、その人と目が合って。
「あ…」
「…。」
彼の茶色の瞳が私を見る。
鋭く光るその瞳が私を捉えて。
無表情でこちらを見下ろす彼にただ呆然と魅入ってしまった。
…かっこいい人…
背が高くて、髪の毛は金髪
茶色の瞳に見られればドキッとする。
「っ、」
ハッと我に返って自分の体の露出さに慌てる。しかし隠そうとしても服は破れていて隠せる物がない。
そんな私を見て顔を歪めた彼はこちらに無言で歩いてくる。
「…」
「えっ…」
パサ、と足の上にジャケットが落ちる。私はそのジャケットの意味がわからなくてその人を見上げた
「…女がこんな時間に出歩くな」
静かに、唸る様にそう言って彼は踵を返す。
低い声で吐き捨てた言葉にビクッと肩を揺らす。こちらを一瞥してから、彼は靴の底を鳴らして路地を出ていった。
「あ、っ……!」
私から離れて路地を出て行ってしまう彼をなんとか呼び止めようとしたが、手を伸ばしても声を漏らしても彼が足を止める気配はない。
彼から落とされたジャケットを急いで羽織って追い掛けようとしたが足がふらついてうまく歩けない。
「和真さん!?どこ行ってたんスか!」
「悪い。」
「急にいなくならないでくださいよ!」
かずま…?
あの人の名前かな…
フラフラとする足取りで追いかけようとした。
だがしかし、もう一歩足を踏み出した途端、自分の足が縺れて視界がグラリと揺れた。そしてそのまま、視界は反転した。
そこから意識がない。
「和真?あそこで何してたの?」
「いや、少し…」
ガァンッ!!
「「!?」」
男たちはその音に驚いて振り返る。今出てきた路地裏からだ。
「和真!」
ひとりの男が音を聞きつけて急いでそこに駆ける。路地裏を見て慌てている
「倒れてる!女の子が!」
ガラクタの山に倒れたのか、茶髪の女の周りにはゴチャゴチャとゴミ袋やらゴミが散乱していた。
「………マジかよ」
グルグル回る世界の中
一人、寂しく荒野に立つ。
周りには誰もいなくて聞こえてくるのは声だけ
『アンタなんかいらない』
『生まれてこなければよかったのに』
『邪魔』
『消えろ。』
『出ていけ。』
『目障りだ』
『俺の子じゃない。』
『なんでこの子を産んだのかしら。』
あぁ、嫌だ
耳を塞いでそこに蹲る。
だけどやはりその声は脳裏に直接響く
やめて
やめてよ
聞きたくない
そんな言葉聞きたくない聞きたくない消えたいいなくなりたい誰か助けて聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない消えたい死にたい助けて
タスケテ
キエタイノ
キキタクナイノ
ミミヲフサイデモ
ゼンブキコエテクルノ
グルグルと回る世界に私は酔った。
「…ん、…」
目を開けるとボンヤリとした視界に、天井らしきものが映った。
「…あ、起きたみたい。凌弥」
「おう。」
どこからか人の話す声が聞こえたが私はそれを理解することが出来ず、ただ天井を見つめていた。
だがすぐにそれがグルグルと回り出して、気持ち悪くなった私は口を抑えてそこに蹲った。
「ぅ、ウェッ……」
「ッえ!?ちょ!!りょ、凌弥!急げ!」
いきなり蹲って吐き気を催している私に驚いたらしい声が近くで聞こえる。
だが視界がはっきりしない。ただ、胸の奥から湧き上がるような吐き気に耐えることしかできない。
「大丈夫?気持ち悪い?」
先程と同じ声が近付いて来ては私の背中を摩り出した声にコクコクと頷く。
「葵!持ってきた、これでいいか!?」
「あぁ、あと水も!早く」
途端、部屋の扉がバンッと派手に開く音が聞こえた。
扉の向こうはガヤガヤと騒がしく、扉が締まると同時にその騒がしい声は遮断された。
「これ!吐けるなら吐いちゃって!」
すると、目の前にバケツを差し出される。
しかしそれを首を横に降ってそれを拒否した。
一度吐いたら数十分は吐き気が治まらなくなるからだ。
何とかこの吐き気を抑えようとしながら声を漏らした。苦しさと気持ち悪さからつい目が涙目になってしまう。
「み、みずっ…」
「凌弥!みずっ!」
その言葉にハッとしたような声。
先程と同じ声が、今度は大声で言えばまたドタバタとした音が繰り返され、派手に扉が開かれる。
「はい、これ水、飲める?」
「すいま、せ…」
差し出されたペットボトルを受け取り、弱々しく頷いて謝りながらペットボトルの水を喉に流し込む。
何回もそれを繰り返していたら吐き気がなんとか治まってきた。
「大丈夫?」
「はい…」
横から心配そうに尋ねられる、それにそうは言ったものの視界はまだグルグルしていた。
先程から声をかけてくれている人の顔も未だ認識できない。
「顔真っ青だな、まだ寝てろよ」
グルグルと回る視界になんとか耐えていると、後ろから違う声が聞こえる。
多分水やバケツを持ってきてくれた人だろう。
「いえ、大丈夫で…」
ガタンッ…!
「ちょっ!やっぱり大丈夫じゃないよ!!顔色悪いし汗もすごい、まだ気分良くなるまで座ってな」
ソファーから立ち上がれば、足がふらついて近くのテーブルにぶつかってしまった。
ぶつけたはずの足の脛に痛みは感じない。
神経が麻痺でもしているのか。
「すみませ、…」
どうやら心配してくれているらしい人たちが私をソファーに座らせられる。ソファーに全体重をかければ、体がゆっくりとその質のいいソファー沈む
なんと心地のいいソファーだろう。
多分もう少し経てば良くなるはず…
「大丈夫?」
それになんとか首を動かして小さく頷く。真っ青な顔をしてるであろう顔を覗き込むのは先程から心配してくれている人
なんで、こんなところにいるんだろう?
この人たちはだれ?ここはどこ?私は、なんで?
やっと視界と脳が回復してきて、その人のことを認識できた。
黒の髪、前髪も少し長い
その髪の隙間から覗く耳にはひとつの青いピアス。
「こういうことはよくあるのか?」
また別の声が聞こえてきて、そちらに視線を向ける。
見ればそこには、全体的に短い金髪に茶色のメッシュが所々に混ざっている。前髪はセットしているようで、上がっている。
「い、いえ…。それより、すみません。すぐにお暇しますから…っ、」
まだボンヤリして全回復しない視界のせいで、彼らの顔はしっかりとはわからない。
彼らの顔らしきところを見て、なんとかそう口にする。
「何言ってんだよ、フラフラだったじゃねえか」
「そうだよ、ここから出てまた倒れられても困るよ」
心配したような口調で男たちが言う。その言葉に、覚えのない単語があって首を傾げた。
「たお…?」
倒れた?
誰が?
「覚えてねぇのか?」
「君、路地裏で倒れてたんよ。格好も酷かったし、傷もあったから連れてきちゃったんだけど…」
格好?傷…?
黒髪が言うその単語を聞いて先程までの出来事を鮮明に思い出した。肩を揺らして、前にいるふたりを凝視した。
「私っ…!」
そうだ、男の人に襲われそうになって…
それで…
「ジャケット…!」
『かずま』と呼ばれたあの人の存在と、
あの人に助けてもらったことを思い出す。
そして、彼が渡したジャケットを心配して、私は慌てて辺りを見渡した。
「ジャケットならココ。」
黒髪の男の人がソファーから立ってジャケットを取りに行く。
ソファーから少し離れた後ろにあったパソコン、そこの椅子の背もたれにジャケットはかかっていた。
「あ…」
無くしたかと思って焦ったが黒のジャケットはちゃんとそこにあって。ホッとした私に金髪メッシュがきいた。
「和真に助けてもらったのか?」
「へ…?」
「あー。そうか……。アレだあいつ。金髪の野郎」
頭をポリポリ掻いて金髪メッシュがそう言う。
「そ、そうです…」
「…マジか…」
金髪メッシュは返答を聞いて目を丸くして項垂れる。
見れば、私は黒のジャージを上下着ていて、どうやら中は破けた服のままだが露出は防げている。
「そのジャージはここのだから気にしなくていいよ」
「えっ、あ、はい…」
状況が掴めず、なにがなんなのか未だ訳が分からずとりあえずそう返事をする。
ここはどこ?
「訳がわからないよね、ごめんね」
黒髪が困ったように眉を下げて、言う。私はそれに慌てて
「い、いえこちらこそっ…」
「もう気分は良くなってきたかな?」
「あっ、え、と、はいっ…大丈夫です」
「ならよかった。和真から聞くには君は路地裏で男たちに絡まれてたんだって?和真に助けられたってことていいのかな?」
「は、い」
黒髪の男が首を傾げて聞いてくる。
耳を隠すサラサラとした黒髪が右側に少し垂れる。
その人は紺色のTシャツに黒いデニムパンツでソファーに座っている。
どうやらこの人たちの話を聞く辺り、私を助けてくれた金髪の男の人は、和真と言うらしい。
そう言えば、『かずま』
そんな声が聞こえた記憶がある。
「和真が助けたあとに、君は意識を失っちゃったみたいでね?倒れてたんだよ、ゴミ箱とかと一緒に。」
「ご、ゴミ箱…」
「そう、ゴミ箱」
口元を引くつかせると、あははと男が苦笑いする。
黒髪の男の人は手を組み、「それで」とまた話を続けた。
「格好も格好で…あのままあそこに置いてくるわけにも行かないし。名前もわからなかったし、サツに届けるにも急いでて出来なくて…」
首の後ろに手をやり、黒髪の男は目を申し訳なさそうに歪めてひとつ、「ごめんね」と謝った。
「連れてきちゃったんだけど…」
そう言いながら、目を回してその部屋を見渡すような仕草をとった。その視線に気がついた私もその部屋を男の視線を追うように見渡す。
大きな部屋、円で囲むように置かれているたくさんのソファー。壁際にもソファーやパソコンなどが置かれている。
「あの、ここは…?」
「えー、とね…ちょっとした溜まり場」
部屋を見渡しながら言う。その言葉に答えにくそうに苦笑いをしてそう言った彼はそそくさとソファーを立つ。
「俺、和真に連絡してくるよ。」
「あぁ。頼んだ」
黒髪の男は立ち上がって、金髪メッシュにそう言ってから彼は部屋を出ていった。革のソファーに身を委ねながらキョロキョロと周りを見渡す。
「アンタ、すげえな」
「え、…」
そんな声がして、声のする方を見れば金髪メッシュが、体に穴があくかもしれないというほどの強い視線で私を見ていた。
金髪メッシュは向かいのソファーに腰掛けて、背もたれに両手を投げながらそう言った。
「あの、かず、まさん?はどこに…」
「あぁ、あいつは帰った」
欠伸をして、ソファーから手を伸ばして冷蔵庫を開ける金髪メッシュ。冷蔵庫の中から炭酸のペットボトルを出す。
プシュッという音が部屋に響いて、彼は中身を喉に流し込む。
「帰った……」
「まあ、いてもアンタとは顔を合わせなかっただろうし」
「え…」
そう言った金髪メッシュはチラ、と椅子に掛けられてるジャケットを見る。私もその視線くを辿る。
「アレも捨てていいって言われてるしな。ま、今日帰ったらもう俺らに関わるなよ」
「…ぇ、」
その人の吐いた言葉に胸がドキリ、とした。
それはもうここには来るなということだ。
迷惑をかけてしまったかな、と心の中で申し訳なく思う。
金髪メッシュはペットボトルのキャップを締めて、こちらを見る。軽く溜め息をついてから、天井を仰いだ。
「礼言ってたってのは伝えとくから。」
視線を外して言ったその言葉に何故か心の中がズキン、と音を立てた気がした。何か腑に落ちなかった
助けてもらったのに…。
今もこうして彼の…和真さんのおかげでこうして無事にいられるのに、ここにいられるのに。
あのまま、あそこに放置されてたらと考えると恐ろしくなる
それに…ジャケットも捨てていい?
どういうこと?
ソファーから振り返って、ジャケットを見る。
簡単に捨てれるほどの安物には見えない。どちらかと言えば高い物だろうというのは用意に理解できた。
そんなものを簡単に捨てる…
助けてくれた時のあの茶色の瞳が忘れられなくて胸がキュウと苦しくなる。
もうここには来るな。
…よく考えればそうだよね。
何故か寂しく思ってしまう私は少しおかしい。
一人悶々とそんなことを考えていると、キィと扉が引く音が聞こえる。そしてまたそこから出てきた黒髪の男の声。
「凌弥、和真と連絡とった」
「あぁ、じゃあ…」
炭酸のペットボトルをテーブルに置いて金髪メッシュは立ち上がる。
座っていたから分からなかったけれど、金髪メッシュも黒髪の人も背が高い。黒髪の人なんてスタイルがモデル並みだ
「おい、」
「あっ、…はい」
「送る。」
金髪メッシュがポケットから鍵を出してそう言った。ソファーにかけてあった上着を羽織って、私を見下ろす。
途端、グラリとまた視線が揺れる。
『なんで帰ってきたの』
『ここはお前の家じゃない』
『近づかないでよ!』
咄嗟に耳を塞ぎそうになって、私は自分の腕を強く掴む。喉の奥に潜む悲鳴をなんとか飲み込んで、声を漏らす。
「だ、いじょうぶです。ひとり、で…帰れ、るんで………」
そう言った自分の声が震えてないか心配になる。金髪メッシュと黒髪の人から視線を外す。
「いやいや、お前今何時かわかってんのか?」
「そうだよ、もう1時回るよ?」
その言葉に、金髪メッシュと黒髪の彼はそう言う。その言葉に
「えっ…」
声を漏らして勢いよく顔を上げた私はどんな顔をしてたんだろう。
外は暗闇と考えれば、また脳裏に過るのだ
先程までの出来事が。男に襲われかけたあのことが。
帰りたくない帰りたくない帰りたくない帰りたくない
「ウッ…」
またグニャリと視界が揺れ始めた。
金髪メッシュと黒髪のふたりがよく見えなくなる。
歪む視界をなんとか正気に戻そうとしても、胃の奥から気持ち悪さと共に何かが込み上げてきたのがわかった。
「うっ、ウウェッ…」
「あっ!オイ!!」
口を抑えたのを見て慌てて金髪メッシュがバケツと水の入ったペットボトルを差し出した。
「大丈夫?気分も悪いなら尚更送ってかないとだし」
「す、すみませっ…で、もけど大丈夫、なんでっ…」
なにが?
自分で言っててそう思う。
帰る場所なんてない
行く場所なんてない
怖い帰りたくない聞きたくない消えたい死にたい助けて
顔面蒼白になったのだろう、私を黒髪の男がソファーに座らせた。それにカタカタと小刻みに体を震せている。
「…………」
すると、彼は黙り出して何かを考えている仕草をとった。
目を細めて、口元に手を当てて深く考えていた様子の彼。
その瞳は何だかとても怖くて何を考えているか全くわからなかった。
そして彼は顔を上げて呟くように言った。
「じゃあ…、えー、と名前、聞いてもいいかな?」
やっと口を開いたから、何を言われるかと思いきや、優しい声色でまさか名前を聞かれたので驚いてしまう。
「え…と、あ…橘 京香(タチバナ キョウカ)です」
「………そっか。よろしくね。俺は氷室 葵(ヒムロ アオイ)」
そう言って少し長めの黒髪の彼、氷室 葵さんはニコリと笑う。視界が回復してきていたら、きっとドキリと胸が跳ねていただろう。
氷室 葵さんは綺麗な顔をしていて、それに口角を上げて笑みを零していて、とても整った顔をしていた。
「葵って呼んでくれていいよ」
「オイ、葵。お前何考えてる」
先程と同じように口角を上げて笑って言った葵さん。それに横にいた金髪メッシュが眉を顰めて、咎める様に言う。
それを気にする様子もなく、葵さんは彼を手で指す。また口角を上げて続けた
「アレは近藤 凌弥(コンドウ リョウヤ)。ガラも目付きは怖いかもだけどそこまで悪い奴じゃないよ 」
「オイ!葵!!」
話を聞かない葵さんにとうとう彼が声を上げて怒鳴った。
その大きな声に過剰というまでにビクッと大きく肩を震わせた。足先から悪寒が走り体中の力が抜けてしまう。
そんな私の様子を見て、葵さんはその黒い瞳と目を細めて言った。
「京香ちゃん、もしかして家に帰れない?」
「っ、!」
近藤凌弥さんの怒鳴る声も無視して葵さんは話を続けた。
それにまたも大きく肩を揺らす。か細い声が喉の奥から込み上げてきて、漏れた。
「な、んで……………?」
「…やっぱり、ね。」
驚きで固まる私に葵さんは何かを確信したようにまた目を細めて言う。
『やっぱり』
なんて意味深な言葉を使って。
「凌弥、ちょっと。」
葵さんが立ち上がって近藤 凌弥さんを呼ぶ。近藤 凌弥さんは眉をピクリ、と動かして葵さんの方に視線を向けた。
「京香ちゃん、ゆっくりしててね。気分良くなるまで水飲んだりしてて」
「……。」
渋々と言った様子で立ち上がった近藤凌弥さんは無言でそれに続いて、彼らは部屋を出て行った。
なに
なんで?
なんで?
あの人はわかった?
帰る場所が無いことを
家に帰れないことを
同様が隠せない私は指先がカタカタ震え、ペットボトルの中の水も反響して揺れていた。
『お前の家じゃない!』
『アンタなんて生まれてこなければよかったのに!』
何回も同じ言葉が頭に響く。
どんなにかき消そうとしても消えない
イヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダ
グルグル視界が回りそうになる。
慌てて落ち着こうと水を喉に流し込む。
ーーーーーーーーーーーーー…………
ーーーーーーーーー……………
ーーーーーーー……………
一人恐怖と戦っていること、数分。
扉が開く音がして、葵さんと近藤 凌弥さんが戻ってきたのがわかった。ドサッと音を立てて、近藤 凌弥さんがまた向かい合うようにソファに座った。
「おい、あー…京香、だったか??」
「…え、あ、はい」
ずっと眉を顰めてこちらを睨むようにしていた彼。
そんな怖い印象の近藤凌弥さんが私の名前を呼んだ。
でもその声色は先程より、少し優しい気がした。
「お前、帰る家無いのか?」
「っ、…」
眉を顰めて、言う近藤 凌弥さんのその直球すぎる質問に言葉を詰まらせる。
何も言えなくて、どうすることもできずに視線を泳がせた。
「傷は…今日絡まれた時のじゃなくて…」
疑い深い視線を向けられている
どうやら逃げる事はできないみたい。
ふたり共、こちらを見ている。今の私には上手いごまかしが出来るほど、脳も回復してないし口も回らないと思う。
ここまで来たら言うしかない。
言葉からして、もうきっと勘付いているのだろうし。
「元からっ…。っ、男の人たちに… 絡まれる前、から……、………ぁ…あった、ものです」
苦しくなって言葉を詰まらせながら、自分の腕を強く握り締める。
「そうか…」
震える体をなんとか治めようとするが、一度あの光景を思い出してしまうとそれはなかなか困難で。
下を向いて震えている私に上から迷ったような声が聞こえてきた。
「帰りたくない、なら。」
「…へ…?」
近藤凌弥さんの言葉に顔を上げる。
「帰りたくない、ならここにいりゃぁいんじゃね?」
「えっ…」
近藤凌弥さん…凌弥さんは頭を掻きながら言う。
その言葉に顔を上げて、驚いて目を丸くする。
一瞬、その言葉の意味がわからなくて、その言葉を頭の中で呟いた。
この人は何を言っているの?と。
「いや。お前がいたけりゃだぞ?無理していろとも言わねぇし、簡単に置いてやれるわけじゃねえ。少なくともお前の素性の確認ができない内は無理だ」
「ど、どういう…」
「んー、それはアイツらが来たら話すだろ。…とりあえずだ、えーと…京香」
「は、はい」
いきなり呼び捨てで名前を呼ばれて驚く。
頭を掻きながら面倒くさいと言うより言いにくそうに凌弥さんは続けた。
金髪メッシュの髪を掻き
軽く下を向きながら彼は唸る様に言った。
「何言われても気にすんな。……根本的な問題で、アイツが根っからの女嫌いなだけだから。」
え?何言われても?
女が嫌い?
「あの、それって…」
ガアンッ!!
凌弥さんの言葉にある事を尋ねようとした。声を上げた途中で、不意に扉が大きな音を立てて蹴り開けられて
「っ!?」
その大きな音に派手にビクッと体を震わせる。
その開けられた扉から入ってきたのは…
「凌弥、部外者に無駄なこと言ってンじゃねえだろうな?」
金髪の髪
茶色の瞳
耳元の光るピアス
その姿は見覚えがあって、頭の中で何かが弾けた様な感覚が落ちるように襲って来た。
「これまた早い登場だな、和真」
「チッ…用件を言え。」
『和真』
「あっ…!」
私の前に座る凌弥さんに悪態をつきながらソファの合間を縫う様に歩いているのは、先程の金髪の男の人だった。
『和真』という名前を聞いて咄嗟にソファから立つ。
…すると扉の向こうからまた違う足音がやってきて、扉が開かれた。
「和真、ドアを蹴り開ける癖やめろよ」
「うっせ」
金髪の彼の後ろからは葵さんが続いて部屋に入ってきて溜め息をつきながらそう言った。
またも凌弥さんの横に腰掛けた。
不機嫌丸出しの金髪、和真さんはやはり短めの髪にピアス。
背はとても高いから、小柄な私では見下ろすことも大変だろう。
「葵、どういうことか説明しろ。」
彼はドカッ、と大きな一人がけソファに腰を下ろして眉を顰めてから、葵さんを睨んだ。
その茶色の瞳が葵さんからこちらに視線を移した。
その瞳を歪め、睨むようにこちらを見る。
その凍る様な冷たい瞳に肩が揺れる。先程は感じなかったはずのゾワリ、とした恐怖が沸き立って怯える。
「和真。」
肩を震わせ怖がったのがわかってしまったのか葵さんが和真さんを、牽制する。
それに「チッ…」と和真さんは舌打ちをして、私から視線を外した。
その冷たい視線が外れたことにより胸を撫で下ろす。目線を外した彼に怯えながらも、恐る恐ると声を掛けた
「…あ、あの…さ、さっきは、ありがとうございました…」
何とか言葉を吐き出して、震える声でそう言う。
何とか震える体を抑え、頭を下げた。ジャージの裾を掴んで、何とか震える体を抑えた。
「葵。」
私の言葉、それを無視するように和真さんは葵さんの名を呼ぶ。その低い声にズキン、と何か胸が痛んだ。
「ハァ…。京香ちゃん、いいよ 座って」
「…ぁ、はい…」
和真さんに睨まれるのを気にしていないらしい葵さん、溜め息交じりの声に私は素直に言う事を聞いてソファーに座り直した。
向かいのソファーにいた凌弥さんも困った様に顔を歪めて、溜め息をついていた。
「和真、この子は京香ちゃん。─さっき話した通り、家には帰れないらしい」
「…で?」
「さすがに俺らでも、この寒空の下、女の子を街に放ることはできない。」
「そりゃ、たりめーだ。和真もそうだろーが。」
葵さんの言葉に近藤凌弥が参戦する。そんな近藤凌弥の言葉に
「……チッ、あぁ。」
と静かに和真さんは返事をした。そして眉を顰めたかと思うと、溜め息混じりに言葉を吐いた。
葵さんをその冷たい瞳で睨み、何か怪訝そうに声を漏らす和真さん。舌打ちが彼から漏れて、あたしはまた肩を揺らす。
「…チッ、明け方までは許す。けどな、夜が明けたらすぐにソイツを追い出せ。」
「和真、」
「何処の女かわかったもんじゃねェ。なにより、この場に女がいることが最悪だ。気分がわりい…!」
低い声で言う和真さんは葵さんの言葉を振り切って、眉間に皺を寄せたまま、吐き捨てるように言葉を吐いた。
「…っ」
「京香。」
ズキン、と胸が痛み音を立てる。つい肩を揺らして言葉を詰まらせると、ふと前から名前を呼ばれてハッとする。
見れば向かいのソファーの凌弥さんが首を振ってる。
『何を言われても気にすんな』
あれは、こういうこと?
「和真!お前、少し言葉を選んでっ…!」
「まあまあ、凌弥。…確かに京香ちゃんの身元はまだ確認してない。けど和真、お前だって見たんだろ」
凌弥さんが和真さんの言葉を咎める様に声を上げる。それに手を縦に振って、凌弥さんを牽制する葵さん。
葵さんが発した最後の言葉に、和真さんはピタリと口を閉じて、黙った。
「…」
「それを見てもお前はその子を簡単に返す気か?」
「…。」
『それを見ても』
きっとそれは私の腕や足、体中にあった傷のことだろう。見られた、と瞬時に思えば体中からサァ、と力が抜けてしまう。
『消えろ!シネ!シネ!!』
思い出してしまい肩を震わす。急いで水を流し込み、自分を抱き締める様にして傷のある腕を摩った。
「……敵対するチームに関わる女とかだったらどうする」
「…」
「何も考えてねぇのか、葵。テメェ、おふざけとかだったら承知しねぇぞ。」
「…圭に連絡しておいた。明け方までには戻って来ると思うけど…。」
なんの話をしているのかわからなくなってきた。
和真さんの言葉に葵さんが口を噤んで黙ったと思えば、今度は言葉を詰まらせるように、和真さんが黙る。
その緊迫した空気にどうする事もできず、ただ黙って彼らの沈黙を見ていた。
「和真。お前んとこに頼ればアパートやマンションの一室くらい空きがあるだろ」
「そんなのホテルに泊めれば同じだろ。」
「強情…。」
冷たい和真さんの言葉に、凌弥さんが大きな溜め息をつく。腕を組んで、睨んでくる和真さんから目を逸らした。
「……オイ」
「………え?あっ、はい…」
不意にそんな声が降ってきて、一瞬では理解できなくて。私が呼ばれたと思わずつい間が空いてしまった
慌てて目線をそちらに向けると眉を顰めてこちらを見ていた金髪。
「その傷、どうした」
「…っ!」
なんでこの人たちはこうも直球なんだろう
「…お前の、男か?」
ジャージから少し覗いた腕、そこに見える傷を彼は眉を顰めて言った。
その声色は先程よりも優しくて、冷たく低い声ではなく何処か寂しそうな声だった。
その言葉に慌てて目線を逸らしてからブンブンと首を振った。
「………家族か?」
「…っ!!」
またも降ってきた声。その言葉につい体が反応したのか震えてしまった。手にずっと持っていたペットボトル、その中の水が揺れた。
咄嗟に脳裏を駆け巡った言葉たち。
大丈夫って言わなきゃ
早く家に帰らなきゃ
わかっているのに
わかっているはずなのに
『あんたに帰る場所なんかあるわけないじゃない』
『俺の子じゃない』
『消えればいいのに』
あの人たちのことを考えると体が震えて、足が震えて立てなくなる。体中から力が抜けて、そのまま入らなくなる。
目の前が暗闇に染まって
どこに進めばいいのかわからなくなる。
大丈夫って
大丈夫って
大丈夫って
言わなくちゃ、いけないのに、
その言葉が出てこない。
簡単に出てきたはずのいつもの『大丈夫』が。
『京香ちゃん、家に帰れないんじゃない?』
『お前その傷はどうした』
彼らの言葉にもう嘘がつけない気がして
言葉が出てこなくなる。
どうしよう
どうしよう
どうしよう
「オイ。」
下を向いて震えていた。自分を抱き締めるようにして、目を瞑っていた。
すると上から降ってきたその声、それにハッと我に帰って顔を上げる。
「大丈夫だよ。そんな思い詰めた顔しないで」
「別に無理して話せと言ってるわけじゃねえ。」
「ッ………」
「…っ、すみませ…」
その言葉に堪らず涙が頬を流れた。優しい葵さんと凌弥さんを見て、顔を歪めて目尻を拭った。
「チッ…」
そんな私に向かって、舌打ちが聞こえて来た。途端、ビクリと体が震える。慌てて、その舌打ちの方向を向いた。
「早く圭を呼べ」
和真さんは体を深くソファーに沈めて、その金髪の頭を掻きながら溜め息をついて低く唸るような声でそう言った。
「とりあえず素性と安全を確認しろ。圭が着くまであとどれくらいかかる?」
「遅くなるみたいで…明け方には戻ると思うけど」
和真さんの言葉に、葵さんが目を逸らしながら言った。その言葉を聞いた途端、和真さんが眉間に顰めた。
「は?それじゃおせェだろうが。」
「圭も圭で忙しいんだろ」
「チッ…しょうがねぇ…」
葵さんの言葉に、渋々といった調子で和真さんは頭を掻いた。立ち上がりながら、服のポケットからスマートフォンを出した。
「ハァ…アイツに頼んのは癪だな…」
随分と嫌なのだろう。溜め息交じりに顔を歪めた和真さんは、その長い脚を前に出してソファーの合間を抜い、部屋を出て行く。
扉が閉まる前に、画面をタップしてどこかに電話し始めた和真さんが見えた。
部屋に残された私と凌弥さん、葵さん。出て行った和真さんを見て凌弥さんが葵さんを怪訝そうに見た。
それに葵さんは少し黙った後、視線で凌弥さんに何かを説明していた。
聞いちゃいけない系の話…か、な、
これからどうなるんだろう…
家に帰らなきゃ…。
だけどきっと、もし私なんかが帰って来なくてもあの人たちは心配しないだろうな…。
逆に清々するのかも。あの子だけになるから。
そんな事を考えている内に、ギュッとジャージの裾をを握り締めていた。何故か手首にある傷が痛んだ気がした。
…そう言えば
「あの…」
葵さんと凌弥さんに話しかける。
二人の話はもう終わっていて凌弥さんはポケットから出した煙草をふかし、葵さんは冷蔵庫から取り出したらしい缶コーヒーを飲んでいた。
「このジャージって…誰が…?」
「あぁ、ごめんね。勝手に着せちゃって…俺らが着せたわけじゃないから!ちゃんと着せてくれたのは女の人だよ」
私の言葉に慌てて弁護する葵さん。
それにそうなんだ、と少し安心してから「ハァ、」と頷いた。
ホッと小さな溜め息をついてジャージを握った。
すると、
バァン!!と派手な音がしてまた扉が蹴り開けられた。
「あ〜!!もう、和真、蹴り開けるなって言ってんだろ!?」
スマートフォン片手に部屋に入ってきた和真さんは始めの時と同じで、葵さんの言葉を気にしない様子でそう言って彼専用なのであろう大きなソファーに腰を降ろした。
先程から無表情か不機嫌に眉を顰めた顔しか見せない和真さん。
その顔が歓迎されていないことがありありと分かって、先程からずっとこの場に居にくい。
「どうだった?」
ソファーに座って和真さんに様子を伺う様に凌弥さんが尋ねた。それに溜め息をついて、和真さんがチラリ、とこちらを無表情の顔で一瞥した。
それに無意識にビクッと肩が震える。
「極普通の、一般人だ。」
「そうか…」
和真さんが一息ついて、長い足をテーブルにかけてソファーに身を沈めた。その言葉を聞いた凌弥さんが、その言葉に安心したように言葉を吐く。
スマートフォンをタップした和真さんは、そのスマートフォンを葵さんに渡した。
葵さんと凌弥さんはそれに顔を近づけて、食い入るように見つめる。
何を見てるんだろう?
「オイ。」
「えっ?…わ、私で、すか…?」
和真さんに急に声をかけられてビクリ、と肩を震わす。その怯えが気に入らないらしく、和真さんは眉を顰めた。
「あぁ。」
いちいち怯えることに文句を言いたげにこちらを睨む和真さん。その睨みにまたビクリ、と肩が震える。
「…はぁ。」
どんなに震えを止めようとしても、震えは止まらなくて。
深い溜め息をつかれる、それになにか申し訳なくなって涙目を隠すために下を向いた
和真さんはそんな私を見て、金髪の頭をガシガシと掻いた。
「お前家出たいか?」
「へっ…?」
その突然の言葉に私は目を見開いて、和真さんを見つめた。
「家、出たいか?」
和真さんが無表情を崩し、真剣な顔でそう繰り返す。
それに何を言っているのか、意味がわからなくてカタカタと体が震え出す。
家を出たいか?
そんなの
そんなの
あたりまえ
「…」
葵さんと凌弥さんもこちらを見ている。三人とも真剣な表情で、どこか怖くて身が竦んだ。
家を出たい
たとえそれでも……
「………い、いえ、」
出たくないです、と震える声が口から毀れた。
ジャージの裾を握って下を向いた。まだ、体はカタカタと震えている。
声が震える。
葵さんが眉を顰める。
その様子に心の中でギクリとする。
見透かされてる、そんな気がして心臓が脈打ってうるさい。
「帰れるのか?」
そんな低い声で、和真さんが尋ねてきた。下を向いていたから、不意に掛けられたその声に肩を揺らしながら黙る。
帰れる?
帰れる?
カエレル?
「…帰りますよ」
沈黙の後、どうする事もできずただ口の端を無理やりあげて、少し笑ってみせた。
帰れるかどうかじゃない
他に帰る場所がないんだ
あそこが私の居場所だとも言えないけど。
「…」
返答に、和真さんは眉を顰めて黙る。その後に、金髪の頭をガシガシと苛立ったように掻く。
「京香ちゃ…」
「凌弥」
葵さんが何かを言いかける。それを過ぎって和真さんが凌弥さんを呼んだ。まるでやめろ、と静止をかけるように。
和真さんは葵さんをひと睨みしてから、凌弥さんを見た。
「コイツ、送って来い。」
立ち上がった和真さんは無表情になり、低く唸るような声で静かに「二度と来ないよう言え。」と言って部屋を出た。
二度と来ないように言え。
もちろん、その言葉はわかっていたことだけど。
和真さんに睨まれて居心地の悪さを感じていたのだけれど。
『帰りますよ』
何故か少し自分の言葉に後悔した。
「来い。」
和真さんの言葉通り、凌弥さんがソファーから溜め息を漏らしつつ立つ。それに続いてソファーを立った。
「京香ちゃん」
途端、グッと何かに腕を取られた。それにビクリ、と方を揺らして驚いた。振り返ればそれは葵さん。
「オイ、葵」
前を歩く凌弥さんが足を止めて、振り返る。顔を顰めたのがわかって、少し慌てる。
「あの…ご、ご迷惑をおかけしました!ありがとうございます。…あの、えと、このジャージは…」
凌弥さんを待たせてはならないと慌てて、葵さんに深々と礼をして、ジャージの裾を空いてる方の片手で掴む。
少し震えているかもしれない、と思えば手がピクっと動いた。
「それはここのだから持って帰っていい。捨てろ」
そう溜め息をついて言った凌弥さん。葵さんを一瞥してから「勝手にしろ。」と言って部屋を出て行ってしまった。
パタン、と閉じられた扉を見て何だか申し訳ない気持ちになった。
でもなんで葵さんは、私を呼び止めたりしたんだろう。
そんな疑問が脳裏に浮かんで恐る恐ると葵さんの方を振り返った。
部屋の中は凌弥さんが消えて、葵さん二人きり。葵さんはソファーに腰掛けたまま、私の腕を掴んでいた。
「京香ちゃん、家に帰れるの?」
途端、葵さんが怪訝そうな視線をこちらに向けてそんなことを聞いてくる。
それに心臓がドキ、として。
葵さんの声はどこか低く疑う様な声でそう言った。それに肩を揺らしてしどろもどろになって答えた。
「だ…大丈夫ですよ…「京香ちゃんさ」
言葉を過った葵さんが顔を上げる。
葵さんは目を細めて、何処か怪しむ様な視線、その顔がなんだか怖くて、何を言われるのかと怯えて黙る。
葵さんはゆっくりと口を開いた。
「男の人怖かったりする?」
「えっ…」
葵さんから掛けられた言葉に言葉を失い、息を呑む。喉の奥がヒュ、とか細くなった気がした。
また
また
まただ。
なんでこの人達は
心の中を読むように
過去を知るように
そんな言葉をかけてくるの…?
葵さんの目が黒く、歪んでいる気がして目を逸らした。
「俺らが喋るたびに体が震えてる。俺らが詮索しすぎたからかもしれないけど。さっきも…俺が手を取ったら、震えた。」
「っ~…」
その言葉が図星過ぎて何も言えなくなる。淡々と言う葵さんの言葉が怖くて、逃げる様に下を向く。
言う通り、男性恐怖症だ。
そこまで酷くはないけど男の人に話し掛けられると無条件で体が震えたり、声が裏返ったりしてしまう。
黙っているのを見た葵さん。
その掴まれている腕がカタカタと小刻みに震え出してるのを見て、
「…ごめんね」
声色を打って変え、優しくゆっくりと腕を離した。私の手を引く力が無くなった。
「…いえ、こちらこそご迷惑をおかけしました」
「うん、…気をつけて、」
もう葵さんの顔を見ないように、下を向いたまま葵さんに深々と頭を下げる
それをわかってか葵さんももう何も言わずにただその言葉を背に受けて、その部屋を出て行くのを見守っていてくれた。
部屋を出ればそこにあるのは廊下で。こういう構造になってたんだ、とつい左右をキョロキョロとしてしまった。
すると、向かいの壁。
凌弥さんが寄りかかるようにしてそこに立っていた。
今の話、聞いてたのかな…
そんなことを考えれば、凌弥さんが煙草を吹かすのをやめて顔をこちらに向けた。
「話は終わったか」
「は、はい。いろいろご迷惑かけて申し訳ありませんでした…」
そう言えば、初めて見た時から怖いと思っていた凌弥さんが、ふっと優しく笑った。
「行くぞ。」そう言って歩き出す凌弥さんの後を追った。
『男の人怖かったりする?』
『お前、家出たいか?』
彼らに駆けられたありとあらゆる言葉が脳裏を埋める。それに心の奥がズキンとひどく痛み出す。
苦しくなってつい傷物の腕を掴んだ。
「オイ、」
「あっ、はい」
不意に前からそんな声が聞こえて、ハッとして顔を上げる。見れば、目の前には出口らしい扉を片手で開けている凌弥さん。
気がつけばもうそこは外だ
部屋にいる時に聞こえてきたあの騒がしさは何故か無かった。
…裏口?
目の前にはフェンス。後ろを振り返れば歩いてきた廊下と小さな扉。そこにはバイクが一台止まっていた。
「乗れ。」
ヘルメットを投げられる。それに驚きながら、なんとか手を動かして受け取った。
「和真も言ったが、もうここには来んな。忘れろ、俺らのことは。全部な。ここも話したことも」
ヘルメットを被りながら凌弥さんが言う。そんな凌弥さんにギュッとジャージを握り締めた私は声を絞り出す。
「あ、あの…りょ、凌弥さん」
これだけは
これだけは伝えなきゃ
あの裏路地でのこと
貸してくれたジャケットのこと
ここに連れてきてくれたこと
感謝しなきゃ…。
胸がドクンと鳴った。先程からズキズキと痛んでいた心が、少し痛みを引き落ち着いた気がした。
「あの、お、お願いできたら…か、和真さんに…あ、ありがとうございましたって…伝えてください…」
「…あぁ。わかった」
もうヘルメットをした凌弥さんの表情は私にはわからなかった。
街の光と星の光が混ざる。
ネオンの光、星の光、それを縫う様に私は家に帰った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます