蒼風のヘルモーズ

『ソルフーレン』編〈1〉

序幕 【風の乙女】と【雷帝の龍】

 空に瞬く無数の星々を消し去った闇夜よりも暗い、その『』は際限がないほどに目前で満ち満ちていた。

 その黒どこまでも深く底知れない。その黑は天よりも高く果てが見通せない。

 この世の物とは到底思えぬほどの『』は世界を遍く見てきた私からしても目を疑うほどに、全てを飲み込んでしまうだろう溶岩すらも容易に灰に変えてしまえる埒外な熱量を発しながら煮えたぎっている。


 無限量としか形容できない森羅万象を一箇所に集めたとしても。

 永遠としか形容できない悠久を過ごしてきた世界に尋ねたとしても。


 全生命がただ一目にしただけで、これが最も『黒』であると呆然自失に断言してしまうだろう『』は人魔大戦歴と呼ばれる過酷極まった『古代』から、人歴と呼ばれる普遍的な平和に満たされている『現代』までの約『一千年』もの長き時の中で絶えず猛火を上げ続けていた執念が生んだもの。

 絶えず私へと向けられているその『』は、この時にでも遍く全てを灰燼に帰すために暴れ出してしまうのではないかと思えるほどの、甚だしい『憤怒』に他ならない。

 それが今、人の域を優に超えている甚だしい実力を何の変哲なき只の人の身に有している、風にこよなく愛された風の寵児である私の目前にある。

 しかし、その常軌を逸した怒気を一身に向けられたとしても私の心は、家族を守るための覚悟が揺るぐことはない。


 今にもこの世の全てを呑み込んで、星の地表の尽くを焼き滅ぼしてしまいそうな『大雷』が迸ろうとする絶怒の矛。

 それを向けられている私は一度深く考え込むように、三十年ほどだった短くとも充実していた人生の最期に数多の宝石さえ霞んでしまうかけがえのない思い出を振り返るように、ゆっくりと儚げを与える薄く開かれていた両の目を閉じた。

 逡巡にも取られかねない無言のままでの瞑目。しかし目前にて銀の三又槍を持っている勇者が出す雰囲気からは逃走の気配も、怖気たなどとも取ることはできない。


 その光景を前にして甚だしい苛立ちと、これまでの千年間、屈辱の記憶を燃料にして絶えず猛々しく燃え続けていた怒気を青き稲光を発生させる『最強の肉体』から立ち昇らせているのは、勇者から見て数メートルほどの高さにある両の目から当の勇者を見下ろしている龍——

 

 雷雲の如き漆黒の体皮に、地上へと落ちた大雷のような橙色の瞳、人の物と比べて何倍もの大きさを誇る頭部から生えるのは、稲妻のように歪んでいる巨大な二角。

 その甚だしい威容を、天を突くほどの覇気を、この上なき絶大なる力を人の世となった世界に顕現させているのは龍王国・クオンの王——雷龍王トールに他ならない。


 一人の勇者と一頭の龍王——この二体に因縁は無い。それでも暴れさせずにはいられない屈辱が、龍王にはあった。過去がなければ決して邂逅せぬはずだっただろう互いの間に流れるは、全てが凍てついたかのような無的な時の流れ。

 

 その凍てつく時空を撃ち裂くのは、本来であれば自由を象徴しているはずの天空を支配してしまっている雷雲の、網膜を焼き切りかねないほどの雷光の明滅によるものだけで。

 瞬くほどの一瞬に生じ、瞬けば消え去っている神聖さの欠片もない、ただ力を爆発させている暴力的なまでの光輝は、一者一龍の周囲、そして互いの間にある黒風の静を退けた。

 それは契機か、はたまた偶然か。それは神すらも知らぬ全くの未知に違いない。しかし、そんな未知に興味を示すものは、この場には皆無。

 犬猿の仲をしている者共さえも口を揃えるほどの些事。そうして両の目を静かに閉じていた勇者は閉じた際と同じようにゆっくりと目を開けて、言う。


「ごめんね、「」。もう会えなくなるのに『さようなら』って言えなくて、言ってあげられなくて、ごめんね……」


 雲一つない初夏に見られる、目を窄めてしまいかねない生命の息吹。

 暖かな風に揺られる新緑の森林を思わせるさらさらとした薄緑の長髪を、天翔ける雷動の嘶きが聞こえ、火を見るよりも明らかに認められるというのに、その暴力的な自然の顔に見合わない至極優しい微風で靡かせながら、両の目の端から透明な涙を流した『風の勇者』である女は、どこかにいるのだろう「」に別れの言葉を言えなかったということを心底悔いて、静かに謝罪の言葉を口にした。

 

 そして、世界にたった一人しかいない風の勇者である女は、己が手に確と握られている三叉の細銀槍——

 神樹の国『エリュン』の国宝である『始原の風神槍』の矛先を目前にて何かを待っている雷龍王トールに……ではなく、今日での死を覚悟してなお健気に強かな鼓動を華奢な女の肉体の内で打ち鳴らしている『己』の心臓に向かって、突き当てた。

 側から見れば『ただの自害』であろう滅裂極まる一連の動作を行う勇者を静かに見下ろすのは一頭の、夜色の雷龍王。ある一定の実力を有していなければ、あっという間にその者は意識を手放してしまうだろう怒気を絶えずに発散する王はただじっと、その約束されている事の結末を見守っていた。


「————————」


 悠久の如き長きに渡る『龍王国・クオン』の過去を振り返ろうとも『最強』であると声高々に言えてしまう、まさに稀代たる『雷龍王・トール』の御前にて、両手にしている世界に一つしか存在しない高潔極まる神槍を自身の胸に突き立てているのは、龍王と同じく稀代たる風の勇者の女。

 その勇者の姿はまるで、人柱にされた聖女が邪龍の生贄にされているようで、その光景は残酷に違いなくとも、この上なく美しかった。


「今までの『「」と「」』の二人と一緒に過ごしてきた日々は、夜空の星みたいに輝いていて、すごく、すごく、楽しかったよ…………」

 

 勇者の女の呟きは、今までの怒りを忘れて、来る喪失に怯えているかのような空の雷鳴により掻き消された。

 しかし勇者は動じることなく、決定されている運命に従うべく手に持って胸に突き当てていた神槍を進め——突き刺した。

 胸に刺さり、生命体の急所たる心臓を貫き、そして血肉をすんなりと進む。その終着は背中から突き出してきた時か。

 口端から暖かで嫌な味のする赤水が垂れてくるも、穴が空いた胸と背から『命』が溢れてくるも、女は倒れなかった。

 ただただ、女は艶やかな朱に染まる唇を弧を作り、生々しい音を鳴らしながら引き抜かれた血濡れの槍を地に立てる。

 もう、目前で不気味に思える笑みを、しかし決して長くはなかったはずの人生の中で得てきた、唯一無二で、かけがえのない『幸福』が滲み出ている笑みを湛えている女の命は、世界に一人しかいない風の勇者の尊い命は長くはない。


 そのことを認めた龍王は、己が命じた自死を躊躇なく決行した勇者と交わしていた『契約』の元、その怒りを鎮めた。

 一連の光景を遠目から見ていた、西方大陸の最北にあるクオンの民である龍達も勇者の高潔さと覚悟の丈を認めたように、哀悼の意を込めて静かに目を伏せた。 


 そうして約束された、今から十三年前には既に確約されていた、その時が来たる。


 口端、鼻、目、そして穴の空いた胸から、止めどなく夥しい量の血液を溢れさせていた勇者の女は迎えが来たことを、天空を支配していた雷雲を押し退けて『神界に通じる穴』を作りだした『風の神』の気配を察知したことで理解する。

 そして己の肉体がまるで焚き火により生まれた煙のように、寒空の下に曝されていた葉々に日が当たりて生ず朝露のように溶けていっていることを真っ赤な血に塗れている両手を見るために下げられていた、ぼやけている視線で認めた。

 

 取り返しがつかない致命傷。二度とこの世界を歩めない現実。

 

 あの日、あの時、あの場所で見た、天上の如し美しき滝も。地平線の彼方まで広がっていた大森林も。どこまでも続いている蒼穹も。家族で囲んだ暖かな食卓も。

 火が揺れる暖炉の前で、せがんでくるあの子に読み聞かせていた夢幻の如き絵本も。いつかの夢で見た、黄金の麦の穂がさざなみを打つ平原を、息を絶え絶えにさせながら走り回っている私の名前を読んでくれた大好きな『誰か』の呼ぶ声も——。


 もう、全て忘れてしまう。

 もう、思い出せなくなる。

 もう、探せなくなる。

 もう、会えなくなる……。

 

 それはすごく嫌だけど、何故だか受け入れられてしまう自分がいる。

 後悔はあると思う。未練もあると思う。

 だけど、けれど、私がそれを受け入れられるのは何故だろう。

 

 無意味な自問自答。それはもう分かっているでしょ。

 

 私は、あの子を守れて、今まで共に過ごせた時間だけで十分に満たされていたから。だから、私は今の自分を無に帰そうとも、受け入れられる。

 薄緑の長髪を空の穴から吹いてくる、泣いているように荒々しくも、優しく私を抱きしめてくる神の風に揺られながら、女は大切な「」の人生がこれからも続くという紛れもない事実に対して、心底嬉しそうな涙を流しながら、美しく笑っていた。


「ずっと、ずっと……見守っているからね————」


 風が吹く。すると女の身体は風に攫われてしまったように解けて、融けて、溶けていき、その場から消えて無くなってしまった……。


『………………』


 結末を静かに見届けていた龍王は地に突き立っている風神槍を見つめた後、己が胸の内に抱えている『思い』を何者にも悟られぬように、両の瞼を閉ざすのだった。

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