喫茶店

 住んでいたアパートが燃えていることに、高崎は身震いする。

 テレビ画面の向こうでは、消防隊員が忙しく走り回っている映像とともに、近隣住人がインタビューに応えている。


『びっくりしたよぉ。だって、突然炎がわあぁって上がってさ!』


 声を変えて、顔は映していないが、あれは隣の部屋の住人だろう。玄関前で何度か挨拶を交わしたことがある老人だ。


『燃え始めたのは、隣の部屋のからだろう? 煙草でも置きっぱなしにしていったんかね?』


 隣人の聞き捨てならない言葉に、高崎は青ざめる。

 

「俺の部屋が火元だって言うのかよ……」


 煙草を吸う習慣は、高崎にはない。

 だったら何だって言うんだ。無人の部屋、ひょっとして誰かが侵入して放火……そこまで考えて、高崎は、突き落とされた時の背中の感覚を思い出す。


 今でもくっきりと背中に思い出せる、自分を突き落とす手のひらの感覚。高崎の背中にべったりとこびりついているようだ。


 ……急がなければならない。


 高崎は、急いで服を買い揃えて着替えると、紗栄子の家へと急いだ。


◇ ◇ ◇


 妹島の元妻、大塚紗栄子の実家は、商店街の一角にある喫茶店だった。

 『カサブランカ』という店名は、有名な映画にちなんだのだろうか。

 古ぼけた扉を開ければ、扉上に付けられたベルがカラカラと錆びた音を立てる。


「いらっしゃいませ」


 声を掛けてきたのは、年配の男性だった。紗栄子の父親だろうか。

 高崎は、ゆっくりとカウンターに腰をかける。


「コーヒーをホットで」


 水を持ってきてくれた年配男性に高崎が声を掛ければ、「はい」と小さな声で返事をしてカウンター向こうに男は戻って作業を始める。


「閉店時間は?」


 辺りは、もう日が暮れて店の前には帰宅中の会社員の姿が足早に通り過ぎる。

 帰宅中の会社員達の影を眺めていると、高崎には、帰る家が燃えてしまったことが、頭によぎる。

 ここに来るまでに何度も考えた、なぜと、どうして。その答えを高崎はどうしても見つけられなかった。


「大丈夫ですよ。夕食を食べに寄る客もありますからね、まだ遅い時間までやっております」

「そう……じゃあ、カレーももらおうかな」


 今日は、朝食を食べてから何も口にしていない。腹は減っているのだ。


「この店は、お爺さんだけ?」

「いえ、妻と娘でやっています。娘は、子どもを連れて出戻ってましてね。まぁ、よく働いてくれてます」

「大塚……紗栄子……さん?」


 男は、目を丸くしてコーヒーを淹れる手を止める。


「なんだ。あんた、紗栄子の知り合いか」

「いや、紗栄子さんの昔の会社の者です。すごく優秀だっていう話で、実家がここだって聞いてましたので」


 紗栄子の父親は、口元を引き攣らせる。


「あんた! あの男の! 妹島の回し者か!」

紗栄子の父親は、声を震わせて激高する。


「違います! 違いますよ!」


 高崎は、慌てて否定する。

 このまま妹島の味方だと思われては、紗栄子に会う前に追い出されそうだ。


「俺は、紗栄子さんのために、現状を伝えに来たんです!」

「現状?」


 紗栄子の父親は、疑いの目を高崎に向ける。


「妹島さんは、今、入院中です」

「入院? それが紗栄子にどう関係しているんだ」

「いや、ええっとですね……」


 高崎は、良い言い訳がないかと思い巡らせる。

 こういった場合、完全な嘘よりも、少しの真実を織り交ぜた嘘の方が誤魔化しやすい。


「妹島さん、自殺未遂をしまして」

「なんだと? 自殺?」

「ええ、どうやら、妹島さん自身も離婚により思い詰めていたようです」

「思い詰めるだと? はっ! 何を今更!」


 父親は、よほど妹島に腹を立てているのだろう。妹島の自殺と聞いて、一層不愉快そうな表情を浮かべる。


「これが、病院の名前です」


 高崎は、サラサラッとカウンターに備え付けられていた紙に、病院の名前を書く。

 父親に渡せば、それは見もせずにクシャクシャに丸められてゴミ箱へと放り込まれる。


「あんた、それが余計なお世話だってんだ。それを今さら紗栄子に伝えて、何になるって言うんだ」

「あ……いや、もちろん、それで紗栄子さんに妹島を許せとは言いません。ですが、ことは命のことです。事実だけは知っておかねば、今後のことにも関わるじゃないですか」


 養育費とか、相続とか……

 言いかけて、高崎は口をつぐむ。

 ここは、下手に金銭のことだとは高崎の口からは言わない方が良いだろう。


「それは……まぁ……そうか……」


 高崎が口に上らせなくとも、父親は何かを察したようで、怒りも落ち着いたようだった。

 

 ゴトリと高崎の前に置かれた皿には、うまそうなカレーが盛り付けられている。

 スプーンとコーヒーをさらに置くと、「食ったらさっさと帰れ」と、父親は低い声で言った。


 イギリス風の家庭で食べるような普通のカレーだったが、味は美味かった。生姜が効いたカレーは、あっという間に高崎の胃に収まった。


 コーヒーを啜り、チラリと父親を盗み見る。

 くたびれた服、ボサボサの髪の父親は、紗栄子の離婚でどれほど妹島を恨んだだろう。

 そうか……この紗栄子の父親が本当の依頼人ということは、あり得ないだろうか。

 そこまで思い巡らせて、高崎は、自分でその考えを否定する。

 いや、違う。

 父親は、妹島が入院していたことを知らなかった。先ほどの反応が、演技とは思えない。

 では、誰が妹島を恨み殺そうとしているのか。誰が高崎を狙っているのか。

 

 カラカラと扉のベルの音がして振り返ると、幼い子どもを連れた女が立っていた。


「紗栄子さん……」


 妹島の病室で見た写真に写っていた女であった。


「……誰?」


 女が、高崎に名を呼ばれて警戒した。

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