矛先

「一体どういうことなんだ」


 高崎は、訳が分からなくなった。

 狼狽えて病室から逃げ出し、ふらふらと歩く。


「あの女、確かに紗栄子だと名乗っていたのだ」


 一度だけ会った依頼人のことを、高崎は思い出す。『紗栄子』と名乗った女は、憎々しげに妹島のことを語っていた。

 だから、すっかり、元妻の紗栄子だと思っていたのだ。だが……そもそも、入社した時には、紗栄子は妹島との結婚を期に何年も前に退職していたのだ。

 高崎は、紗栄子の顔を確認したことなんてなかった。


「まさか、じゃあ依頼人の女は、誰なんだよ」


 高崎は、ぶつぶつと独り言を言いながら、歩道橋を渡り駅に向かう。

 一度家に戻ろうと高崎は、考えたのだ。

 今は落ち着いて、今後どうするかを考え直したい。そうだ……一度帰……


 高崎の思考は、止まらざるをえなかった。

 下り階段に差し掛かった時に、背中に人の手の感触を感じ、足は踏むべき地面を失う。


「えっ……」


 スローモーションになる景色。自分が落ちていることは分かるのに、高崎は何もできなかった。

 歩道橋の上から、高崎は下り階段を踏み外して、落ちたのだ。


 コンクリートの階段に何度も体を打ちつけて、高崎は転がり落ちる。

 咄嗟に受け身を取って頭部を守れたのは、小学生の時に嫌々続けていた柔道のおかげか。

 最後の段まで落ちて高崎はその場にうずくまる。

 

「大丈夫? ちょっと!」


 女性の声が、高崎の耳に届く。

 見れば、年配の蕎麦屋の制服を着た女性が、高崎を覗き込んでいる。


「あ……」


 高崎は、返事をしようにも声がうまく出ない。

 全身が痛くて身動きが取れないが、高崎の頭は、はっきりとしてくる。

 誰かに突き落とされた。誰かが俺を狙っている。高崎は、そう考えるに至って、ゾワッと全身の毛が逆立つ。

 

 理由なんて決まっている。

 妹島殺害に失敗したからだ。

 高崎は、怯える。


「助け……」


 目の前の見ず知らずの女性に縋ろうとして、はたと高崎は、思い至る。

 この女性も、無関係とは限らないと。

 何せ敵は、闇バイトを何人も雇っている人物だ。この目の前の女性だって、雇われたバイトではないと、誰が言い切れるだろうか。


「大丈夫です」


 高崎は、痛む全身を鞭打って、無理矢理立ち上がる。


「救急車は? 呼ぼうか?」

「大丈夫です! 大丈夫ですから!」


 高崎が怒鳴れば、女性もそれ以上何も言ってこなかった。

 女性は、仕事に戻ったのであろう。何度も高崎を振り返りながらも、店に戻って行った。


「確認しなきゃ。このままじゃ、殺される」


 高崎は、ヨタヨタと歩きながら呟く。

 確認するとは言っても、高崎は、紗栄子の居場所を知らない。

 居場所が分かる可能性があるとすれば、それは会社だろう。

 重い足取りで、高崎は社へと向かった。

 

 

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