第3話 セイロンの記憶
東京のマンションの一室、平野美香(34)は、散らかった部屋を見渡し、ため息をついた。書類の山、洗い物の溜まったキッチン、そして埃をかぶった棚。忙しい仕事に追われる毎日で、彼女の生活はどこか停滞していた。
ふと、目に留まったのは棚の隅に置かれた古びた茶缶だった。金色の蓋には「セイロンティー」と書かれ、蓋を開けると、わずかに残った茶葉から懐かしい香りが立ち上った。
それは、亡くなった母が愛飲していた紅茶だった。
「セイロンティーはね、スリランカの高地で作られるの。海風と山の風が出会う場所だから、特別な香りになるのよ。」
まだ幼かった美香は、母がそう話しながら紅茶を淹れる姿を思い出した。母は専業主婦で、忙しい家事の合間に紅茶を楽しむのが日課だった。美香は、その香りに包まれると、不思議と安心感を覚えたものだ。
大人になってからは、そんな時間を持つ余裕すら忘れてしまった。しかし、茶缶を開けた瞬間、母の笑顔やあたたかい声が胸に蘇った。
その日は休日だった。美香は久しぶりに早起きをし、母のようにセイロンティーを淹れてみることにした。ポットに湯を沸かし、少しの茶葉を静かに蒸らす。母がよくしていたように、ミルクをたっぷりと加えて。
カップから立ち上る湯気に包まれながら、一口飲むと、まろやかな甘さとほのかな渋みが広がった。美香は小さく笑った。「こんなにおいしかったんだ。」
その後、美香は母のアルバムを開き、スリランカを訪れたときの写真を見つけた。母は現地の茶畑で微笑んでおり、鮮やかな緑の葉が背景に広がっていた。
翌日、美香は会社の同僚に「紅茶をテーマにしたプレゼン企画」を提案した。特にセイロンティーの歴史や、環境に配慮した栽培方法について紹介する内容だった。
「紅茶って、ただの飲み物じゃないんです。自然や文化が詰まっていて、飲むとまるで旅をしている気分になれるんですよ。」
その提案は上司にも評価され、採用が決まった。企画が進む中で、美香は再び紅茶を淹れる時間を楽しむようになり、日々の忙しさにも心の余裕が生まれた。
ある日、プレゼン資料を準備していると、美香のスマホに妹からメッセージが届いた。
「お姉ちゃん、この間もらったセイロンティー、すごくおいしかった!ありがとう!」
美香は微笑みながら返信した。
「今度、一緒に母さんの思い出話でもしながら飲もうよ。」
セイロンティーの香りは、過去の記憶と現在を繋ぎ、美香にとって大切な絆を思い出させてくれるものとなっていた。
エピローグ
その後、美香は母が訪れたスリランカの茶畑を訪れることを決めた。旅先で見た広大な茶畑と優しい風景は、母の写真そのものだった。
美香はその場でセイロンティーを淹れ、空を見上げながら一言つぶやいた。
「お母さん、ありがとう。」
カップの中の黄金色の紅茶が、心の中の空白を静かに埋めていった。
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