独り暮らし・3

門永 澪

第1話 曇る

「なんかさ、あそこ、いつも曇ってない?」

 友人が突然そんなことを言い出して、Dはきょとんとする。

 下宿に仲の良い友人を招き、居間でテレビを観ながら世間話に興じていたときのことだ。話の途切れ目に、ふと思いついたように、友人が部屋の一角を指さしたのである。

 彼女が指し示した先には窓がある。何の変哲もない窓で、梅雨時の、白けた曇り空を映している。友人が何を気にしているのかわからず、Dは首を傾げた。

「曇ってるって、なにが?」

「ほら、あれ、窓ガラスの上の方」

 友人が立ち上り、窓辺に寄って腕を目いっぱい伸ばし、上部の隅を指した。

「ここ、ここ。あんたの家に来ると、いっつもここが曇ってんの」

 Dもクッションから腰を上げ、友人の傍らに立つ。友人の指がさした先では、窓の端、四隅のうち右上側の一角に、小さな曇りができていた。歪な楕円形をした白い曇りは、室内側ではなく、ガラスの外側にできているようだ。

「なんだろうね」

 不思議な思いでDは曇りを見つめるが、正体はわからない。そもそも、真剣に正体を探ろうという気にもなれなかった。室内から換気された空気や、外気の流れが関係してこんなものができたのだろう、と適当なことを考えた。

 しかし友人は、少し嫌そうな顔をしている。そして思いがけないことを言った。

「ひとが覗いたあとじゃない、これ?」

 え、とDは目を丸くする。友人は窓ガラスに顔を寄せる。

「窓に、こう、顔をくっつけて中を覗いたら、息でガラスが曇るでしょ。そういうのに似てる気がするんだけど」

 Dは友人の言葉にもう一度窓を見る。彼女の言わんとすることは何となくわかるが、危機感は湧かなかった。Dは苦笑する。

「ここ、四階だよ。外から覗くなんて無理だって」

 しかも窓の外には、足場となるようなものはない。竪樋――雨水を通すために外壁に取り付けられる配管も、窓とは反対方向にあるため、地上から誰かが登ってくることは不可能だ。狭いサッシに人間が立つのも無理があるし、ヤモリのように壁を自由自在に登れるような生き物でない限り、あんなところに取り付いて、室内を覗き込むなんて真似は到底できまい。

「それは、まあそうだけど」

 友人は歯切れ悪く返事をする。Dはそんな友人を見つめながら、相変わらず突飛なことを言うひとだ、と思う。嫌な気持ちはしない。友人には軽い空想癖というか、普通のひとがしないような発想をすることがある。これもそのうちのひとつなのだろう、とDは気楽に結論付けた。

 やがて陽も暮れかけ、友人はDの下宿を後にした。Dは友人を外まで見送って自室に戻る。友人が帰り、急にしんとした部屋に入ると、視線が自ずと窓の方へ向かう。曇りは既に見当たらず、厚い雲の立ち込めた空が広がっているのが見えた。

 ――もし、あんなところから中を覗き込める「人間」がいるのだとしたら。

 ぽつんと浮かんだ考えが、そのままある方向へ流れていこうとする。Dはそれと気づき、意識して流れを押しとどめた。

 そんなわけがない。

 そんなものは、映画や小説の中にしか存在しないのだ。

 Dは思考に栓をすると、それ以上、そのことを深く考えるのはやめにした。

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