2.サーカスAula

 全員が作業に戻り、次々に道具が運び込まれる。掛け声が飛び交い、徐々にサーカスの雰囲気がつくられていく。

「天井、吊り具、確認!」

 照明、音響係のカーリーが叫んだ。キャットウォークを駆け回るカーリーは、赤毛で色白で、ふっくらと柔らかそうなほっぺたのお姉さんだ。その上薄暗いので、ナターシャには、ギャラリーをてっぺんの赤いボールが転がりまわっているように見えた。

「ほら、ナターシャ! 上手側二番の留め具、確認!」

「ん、あ、おぉ!」

 ナターシャはカーリーの声で弾かれたように立ち上がり、ギャラリーへ駆け上がった。そして、そこに格子状に組まれたアルミパイプの上に、足をかける。両手両足を駆使し、するすると二番空中ブランコの留め具まで辿り着く。

「オーケィ、ナターシャ?」

「オーケィ、カーリー!」

 カーリーは、そばかすのある丸い顔で満足げに微笑み、ポニーテイルにしたフワフワの髪を揺らして頷いた。

「次、一、三番!」

 カーリーの号令に合わせ、ナターシャは軽やかに、アルミパイプの上を行き来する。小柄な、しかし恰幅の良いカーリーの声は、明朗に快活に、よく響いた。

「オールオーケィ! 問題ないぞ、カーリー!」

 ナターシャが手を振ると、カーリーは慈しむような優しい顔でナターシャに笑いかけた。

「ありがとうナターシャ、戻っといで! ご飯にしましょう!」

 ナターシャは大きくうなずき、またもするするとバックして、ギャラリーに足をつける。

 ――なんかカーリーって、「お母さん」みたいなんだよなあ。

 ナターシャは「お母さん」に会ったことがない。キャラバンには誰かの「お母さん」はいないようだし、ナターシャは拾われた子どもだった。孤児院のような場所に育ての親こそあるものの、「母」と呼べる人物がいたことはない。しかし、物語や団員の話に聞く「お母さん」は、大体の場合、まるでカーリーそのものだった。だからナターシャはしばしば、ふとした時に、

(カーリーがお母さんだったら素敵かもしれない)

と思うのだ。もしかしたらカーリーは、意図してそんな風に振舞っているのかもしれないが――サーカスの中には、絵に描いたような幸せな家庭で育った人間なんて、きっといないから。


   ◇ ◇ ◇


「ナターシャ!」

 劇場を出ると、キャラバンの近くに張ったテントの周りで、皆が各々の食事を始めていた。最近――と言っても、半年前だが――キャラバンに乗った新人ピエロのイツキが、ナターシャに向けて声を張り上げる。草地に直置きした木のテーブルの近くでは、いつも通りジンが騒がしく喋っていた。その声に負けぬよう、イツキは更に声を張り上げる。

「遅いよ! 折角作ったのに、っつーか、作っといてアレなんだけど! このパイ、あったかい内に食べないと、全然美味しくないんだ!」

 イツキはエプロンを身に着け、両手にそれぞれミートパイとサラダの大皿を持っていた。やわらかい黒髪は束ねられてぼさぼさになり、顔には疲れが滲み出ている。ナターシャを思ってかけてくれたであろうその言葉は、疲れ切った声音のせいで、まるで悲鳴のように聞こえた。

 イツキは本来、針金のような長身としなやかさが売りのピエロだ。舞台上ではジンとコンビを組んで、その身体の対比で笑いをとっている。まだ若いが優秀なピエロだ。しかし如何せん新人なので、雑務を多く押し付けられる。ナターシャも最初の一年ほどはそうだった。

 ナターシャは元々砂漠に住む民族の生まれなので、この生活が彼ほど苦にはならなかった。しかし東洋人のイツキにはこの地域の寒暖差が堪えるようで、加えてこの激務だ。疲れない訳がない。

 この団のメンバーは、誰しも通って来た道である。

 ――しかし、それにしても。

「あんがとな、イツキ」

 ナターシャはイツキに礼を言い、その右手からミートパイの大皿をさっと取り上げた。そしてその皿からパイを一切れつまみ、イツキの口に突っ込む。

「ふぁっ!?」

「温かい内に食べないと意味がないんだろ。お前が一番ひょろいんだから、ちゃんと食っとけ」

 ナターシャは、イツキが驚いている隙に、サラダの皿もちゃっかり奪い取って、テーブルに歩いて行った。

「私の分、まだあるか?」

「遅かったなお姫様、もう無ェよ!」

 ジンが茶化すように笑う。

「黙っとけ、脳筋」

「誰が脳筋だ! ナターシャお前、俺の作ったティラミス食うなよ!」

「すまんな、乙女スイーツ系男子の間違いだった」

「んだとお前!」

「まーま、二人とも漫才してないで食べな。全部アタシが食べちゃうよ?」

 リィが割って入って、お互いやっと口を閉じる。

 実際ジンは、どちらかというと繊細な男だった。キャラバン内で一、二を争う料理の腕を持っており、公演先で必ず一品は土地に因んだ料理を作る。今日のティラミスも、地元の名産品だという。なんでも、ティラミスとは「元気を出して」という意味の言葉から付いた名前なのだとか。下調べも細かい。

 ナターシャはここにきてやっと席に着き、テーブルの上に並んだパイやチキン、グラタンなどをがっつき始める。早めに自分の分担を終えたリィとシューニャ――シュウが二人で買い出しに行き、ジンとイツキが途中で合流して四人で用意してくれた物だ。八人と言えど体力勝負のサーカス団員、普通の大人八人分とは比にならないほど量がいる。

「ナターシャ」

 深く通る声に顔を上げると、苦笑いをしたシュウが、オートミールとプディングの皿を持って立っていた。右手の肘には空き皿が乗っている。三枚持ちだ。もう五十を過ぎているというのに、空き皿は微動だにしない。体幹が全くブレていない証拠だ。

 シュウは元々吟遊詩人で、サーカスでは朗読や唄を専門としている。にもかかわらず、身体作りに余念がないので、スタイルは抜群だ。エプロンに着流しなんて珍妙な格好をしていなければ、例えばベストとリボンタイなんかを着けていれば、英国の紳士的なギャルソンそのものである。

「なんふぇふふぁ、ふゅうふぁん」

「真顔でふがふが喋るなよ。綺麗な顔が台無しだぞ。ちゃんと飲み込んでから喋りなさい」

 シュウの苦笑が濃くなる。

 シュウは壮年の男性ではあるが、格別の美形だ、とナターシャは常々思っている。高い鼻と丸く大きな漆黒の瞳、整えられた形のいい眉。たっぷりと蓄えられた髭とロマンスグレーの波打つ髪はかちりとセットされている。歳によって刻まれた皺までもが上品なので、苦笑いにすら見蕩れてしまいそうになる。

「何をぼうっとしているんだい、ナターシャ。まるでイツキじゃあないか」

「イツキ?」

 シュウに促されてイツキの方を見ると、イツキは丁度、先ほどのナターシャのようなぼうっとした顔で、ナターシャを見ていた。ナターシャと目が合うと、慌てたようにきょろきょろしてから、すぐにキャラバン内の簡易キッチンへと引っ込んだ。

「ナターシャに少し甘やかされただけで、すぐあれだ。罪な女だな、ナターシャ」

 はは、と笑うシュウにナターシャは眉を顰め、首を捻って尋ねる。

「私は何もしていない――けど、イツキは確かに、たまにあんな目で私を見るな。やっぱり、私が物珍しいのかな」


 イツキは入団当初、ぼうっとナターシャを見ることが多かった。あんまり頻度が高いので、ナターシャは一度、イツキに直接問うたことがあった。

 私の容姿は、そんなに目を引くか、と。

 初めて業務外で声をかけられたイツキが「ひゃいっ!?」と情けない声を上げたのを覚えている。その後ナターシャの問いを受け、頬を赤らめながら気まずそうに目を逸らして、

「うーん、まあ、目は引くよね」

と、そう答えたのだ。

「俺ね、君みたいな真っ白い人間、初めて見たんだ。アルビノって言うらしいね。しかも、全身に真っ赤な刺青まで入ってるんだから、まー目立つよね。つい見入っちゃう」

 尻すぼみになりつつも最後まで言葉にしたイツキは、ナターシャときっちり目を合わせた。そして、にへらと笑う。

「俺ね、すっごく、綺麗だと思う」


 ナターシャは回想し、額を押さえて頭を振った。


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