選択の灯火
セクストゥス・クサリウス・フェリクス
第1話『手を離す』
教室の鉛筆が床に落ちる音が、異様に大きく聞こえた。
美空は視線を感じて、顔を上げなかった。黒板の数式は霞んで見えた。
「ねえ、見て。また一人で」
「あの子、臭くない?」
「消えればいいのに」
耳元でささやかれる言葉は、昨日も、一昨日も、同じだった。もう慣れているはずなのに、胸の奥が痛んだ。
下校時、ロッカーを開けると中から黒いゴミ袋が現れた。周囲からクスクス笑い声が聞こえる。
「美空、今日も一緒に帰る?」
唯一の味方だった友達も、もう誘ってはくれない。怖いのだろう、自分も標的になることが。
「大丈夫、一人で帰るから」
美空は笑顔を作った。
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「ただいま」
静かな家に帰ると、母の声がリビングから聞こえた。
「お帰り。今日はどうだった?」
「普通」
いつものように嘘をつく。母の心配そうな顔を見たくなかった。
「美空、好きなケーキ買ってきたよ。食べる?」
美空は首を振った。「宿題あるから」
母の目に一瞬、悲しみが浮かんだ。それを見ないふりをして、自分の部屋へ向かう。
「あなたが元気ならそれでいいんだよ。ただ...生きていてくれるだけでいいのに」
振り返ると、母はため息をついて台所へ向かった。その背中が小さく見えた。
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スマホを川に投げ捨てたのは、グループチャットの最後の言葉を見たからだった。
「美空がいなくなれば平和なのに」
そして「みんなで賛成」の絵文字が十個。
夕暮れの河川敷で、美空は膝を抱えていた。「もう学校には行かない」と決めていた。
「この川は、昔より水が澄んでるね」
振り返ると、杖をついた老人が立っていた。美空は黙ったまま顔を背けた。
「邪魔するつもりはないよ」老人は、少し離れた場所に腰を下ろした。「ただ、夕日を見に来ただけだから」
しばらく沈黙が続いた。
「死にたいと思ったことはあるかい?」老人が突然言った。
美空は驚いて顔を上げた。目の前の老人は彼女を見ていなかった。ただ夕日に向かって問いかけるように言った言葉だった。
「...あります」彼女は小さく答えた。
「そうか」老人はゆっくりと頷いた。「死にたくなるほど辛いのは、誇りがある証拠だよ」
「意味がわかりません」
「無価値だと思ってる者は、死のうとも思わない。自分がこうあるべきだという誇りがあるから、それが満たされないとき、死にたくなる」老人は続けた。「君には、誇りがある」
美空は黙っていた。なんて簡単に言うのだろう、と思った。でも、反論する言葉も見つからなかった。
「これをあげよう」
老人は、ポケットから細い真鍮製のブローチを取り出した。それは花の形をしていて、長い年月を経て、艶のある黄金色に変わっていた。
「いりません」
「持っていなさい。いつか、これを必要とする時が来る」
美空は断りきれず、ブローチを受け取った。
「ありがとう」と言いかけて、美空は口をつぐんだ。
「お礼は後でいい」老人は微笑んだ。「私の名前は佐藤だ。向こうのアパートにいる」
美空は頷いただけだった。老人が立ち上がり、ゆっくりと歩いていくのを見送った。
その夜、美空は日記に書いた。
「『死にたくなるほど辛いのは、誇りがある証拠だ』—意味不明な言葉だけど、なぜか心に残る」
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翌日、美空は学校を休んだ。髪を切り、制服を脱ぎ捨て、部屋に閉じこもった。母親の心配そうな声も無視した。スマホもないので、時間が永遠に続くように感じられた。
日記を開き、昨日の言葉を読み返す。「死にたくなるほど辛いのは、誇りがある証拠だ」
「意味わかんない」と呟きながら、彼女はブローチを手に取った。
突然、玄関のチャイムが鳴った。しばらくして、母の声がした。
「美空、あなたを訪ねてきた方がいるけど...」
美空は返事をしなかった。また母の声がした。
「佐藤さんという方...昨日会ったって」
美空は驚いて顔を上げた。あの老人が、なぜ?
「会ってくる」
外に出ると、玄関には昨日の老人が立っていた。「ちょっとお願いがあるんだ」と佐藤は言った。「私の部屋の鍵を、明日の朝まで預かってもらえないだろうか」
美空は混乱した。「なぜ私に?」
「今日、病院に行かなければならなくてね。もしかしたら入院するかもしれない。だから、明日の朝、私の部屋の植物に水をやってほしいんだ」
美空は断りたかった。でも、老人の穏やかな表情に、言葉が出なかった。
「わかりました」
佐藤は微笑み、鍵を美空に渡した。去り際、彼は静かに呟いた。
「今度は届いてくれるといいな」
「何がですか?」美空は聞き返した。
佐藤は振り返らず、手を振るだけだった。
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翌朝、美空は佐藤の部屋を訪れた。古いアパートの一室は、驚くほど整然としていた。美空は窓際の植物に水をやり、部屋を見回した。
壁には一枚の写真が飾られていた。二十代の若い女性の笑顔。その傍らには、メモが貼られていた。
「咲良へ。君の選択は間違っていなかった。父より」
美空は思わず写真に近づいた。女性は美空と同じような年齢に見えた。そして、その首元には、美空が持っているのと同じブローチがあった。
机の上に置かれた古い日記を、美空は手に取った。開いたページには、「娘の咲良が今日、自ら命を絶った。私の厳しさが彼女を追い詰めたのだろうか」と書かれていた。
日記をめくると、そこには咲良の言葉が引用されていた。
「お父さん、私には価値がない。あなたの期待に応えられない娘なんて...」
その言葉に、美空は自分自身を見た気がした。日記の最後のページには、佐藤の手書きで「彼女にこの言葉が届かなかった。でも次は...」と書かれていた。
美空の胸が締め付けられた。あの言葉は「死にたくなるほど辛いのは、誇りがある証拠だ」。咲良には届かなかった言葉を、自分に届けようとしていたのか。
病院からの帰り道、美空は真鍮のブローチを握りしめていた。家に着くと、母が心配そうに待っていた。
「美空、学校は...」
「お母さん」美空は母の目をまっすぐ見て言った。「私、生きていていい?」
母親の目に涙が溢れた。彼女は言葉も発せずに美空を抱きしめた。
「当たり前よ」母は震える声で言った。「あなたが生きていてくれるだけでいいの。お母さんはあなたがいてくれて、どれだけ救われてると思う?」
美空は母の言葉に、以前聞いた「生きていてくれるだけでいいのに」という呟きを思い出した。その言葉は母の本心だったのだ。
美空は母の胸で泣いた。まだ全部は理解できなかったけれど、「死にたくなるほど辛いのは、誇りがある証拠だ」という言葉が、少しだけ心に響き始めていた。
その夜、美空は日記に書いた。
「明日、佐藤さんのお見舞いに行こう。あのブローチの話を聞きたい。そして、私の答えを伝えたい。あの言葉は、私に届いたって」
窓から見える月明かりの下、真鍮のブローチが静かに輝いていた。それは、生きる決意をした少女と、その言葉が届かなかった少女を繋ぐ、小さな希望の印だった。
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