ウエンズディ

popurinn

第1話


 今年二つ目の台風は、昨夜のうちに過ぎたようだ。

 

 駅のロータリーのアスファルトの地面が、薄く油をひいたように夕陽が覆っている。

 客待ちのタクシーが二台止まり、運転手が車の外に出て伸びをしている。


 水色の軽自動車から降りた佳奈子は、駅の階段下にある売店に向かった。店先に、六時にしては強い陽射しが当たっている。

「おばさん、いつものちょうだい」

「あンれ、今日は早いねえ」

 売り場のおばさんが眩しそうにこちらを見てから、白い煙草の箱を差し出した。受け取った箱は、店の中の冷房のせいか、ちょっと冷たい。


 仕事場と家の間には、コンビニが数件あるから、何もここで煙草を買って帰る必要はないのだが、売店のおばさんが、四年前に逝った母と同じ愛媛の出身と聞いてからここに寄るようになった。


 ホームから電車の到着を知らせるアナウンスの声が流れてきた。どこか間延びしたふうに聞こえるアナウンスが、駅へ向かう四、五人の高校生たちの笑い声と重なる。

「気ぃつけて」

「ありがと」

 車に戻り、佳奈子はロータリーを出た。踏切に捕まらず、大通りに出た。

 

 今日は運がいいらしい。ロータリーを出て、三つ目の信号まで青で通り過ぎてから、佳奈子は思った。信号が青になったぐらいで運がいいと感じる自分がおかしいが、やっぱり気分がちょっと上向く。

 

 大通りをまっすぐ進んだ。

 道沿いにはチェーン店の牛丼屋やドラッグストア、パチンコ店や中古車販売の店が並んでいる。どの店も、利用していない。日用品は仕事場であるスーパーで全て揃ってしまうし、外食はしない。パチンコを打つ趣味もない。

 

 運が尽きたようで、信号が赤になった。ブレーキを踏むと、助手席で、惣菜を入れたビニール袋が傾いで動いた。左手で支えて、ぼんやりと前を見る。

 信号の先の左手に歩道橋があり、その下に、茶と白のオーニングが見えた。店先にコニファーの大きな植木鉢も見える。

 

 あれが、そうだ。

 二日前、仕事場でレジに立っていたとき、客としてやって来た真由美の言葉を思い出した。


「ずっと前はミナモト薬局だった場所がね、ドーナツ屋になるらしいんよ」

 真由美は中学のときの同級生だ。

 日々利用するスーパーのレジに、昔の同級生がいるのを目ざとく見つけて、見かけると声をかけてくる。

 たっぷりとした体型に、バトミントン部で活躍していた面影はないが、よく動く丸い目は変わっていない。


「ミナモト薬局だった場所って、歩道橋のある交差点のとこ?」

 レジを打ちながら話したくはなかったが、ちょうど客足が途絶えたこともあって、佳奈子は返事をした。

「そうや。ここんとこ続いた店がなかったから、どうなるんかと思ってたけど」

 歩道橋のたもとにぽつんと一軒だけ建つ建物は、たしかこの間の春まではラーメン屋で、そのあとはハンコ屋。そのハンコ屋も、国道沿いにできた大型ショッピングモールの中に店を出して移って行き、空家のままで今に至っている。


 そんなことを佳奈子が詳しく知っているのは、その場所は、母が通っていた鍼灸院の近くにあるからだった。母が生きていた頃は、背中を揉んでもらいながら、いろんな近所の話を聞いてきた。

 母がいなくなった今、町のことがわからなくなった。

 あのあたりの住民について、いや、自分が暮らす界隈についても、佳奈子にはわからなくなってしまった。


「ドーナツ屋ねえ。あそこで流行るんかしらん」

 惣菜と介護用のオムツの金額をバーコードで読み取りながら、佳奈子は首を傾げた。

 介護用オムツは、全部で三パックあった。真由美の舅が使うのである。ヨーグルトも毎回買っていく。


 よほどヨーグルトが好物なんやねと言ったら、

「お義父さんが便秘しないように食べさせるんよ」

と、硬い声が返ってきた。真由美はぼんやりした目で、ぎゅっと口元を引き締めていた。


 大人になると、人はいろんな表情を身につける。自分もきっと、年を重ねるうちに、様々な表情を浮かべるようになったのだろうと思った。昔の知り合いが見たら、別人だと思えるほどの表情を。


 ヨーグルトを脇に寄せ、惣菜を籠に入れる佳奈子を手伝うと、真由美は明るい声になった。

「東京とかさあ、都会ではドーナツの店が流行っているって、テレビでは見たことあるけどな」

 ワイドショーだったか、佳奈子もそんなニュースを見た覚えがある。アメリカの西海岸発祥のドーナツを売っているというその店には、長い行列ができていた。


「しかも驚いたことに」

 真由美はやっぱり、これはやめとくわと、惣菜の一つを籠から取り出してから、

「誰の店だと思う? その店」

と、目を輝かせた。


「誰?」

「あたしらの同級生。カスベがやるらしいんよ。覚えてへん? 春日部玲子。あんたと同じクラスやったな?」


 春日部玲子。

 同級生からカスベと呼ばれていた少女。ぼんやりとしか顔が思い出せない。


「いっしょに中学の卒業はしてへんな。たしか、東京か大阪か、どっか遠くへ転校したって噂やったけど」

 真由美の話にうなずきながら、佳奈子はレジ脇のビニール袋の束を見た。数が少なくなっている。足しておかなくては。シフト交代のとき、こんなことで嫌味を言われたらかなわない。


「やっぱり故郷が恋しなったんかな」

「さあ、どうやろな」

「故郷に錦を飾るってことちゃう?」

「なんで?」

 昔住んでいた町でドーナツ店を開くのは、故郷に錦を飾るというほど大きなことだうか。


「だって、あの子」

 意味ありげな視線を、真由美は向けてきた。

新田しんでんに住んでたやん」

 新田というのは、駅裏にあるちょっとした繁華街で、今ではチェーン展開している弁当店や百円ショップができて明るい場所になっているが、昔は子どもが歩くにはそぐわないような、暗くてうらぶれた界隈だった。


「あそこのふるーいアパートにおばあちゃんと二人で住んでたんやから」

 ふるーいを強調したものの、真由美の声はひそめられた。

 ふいに、遠い昔の新田の様子が蘇ってきた。飲み屋の看板が並ぶ通りの間に、たしかに数件古くて小さなアパートがあった。カスベはあの場所に暮らしていたのか。


「噂によるとな」

 声をひそめたまま、真由美は続けた。

「えらいお金持ちと結婚したらしいわ」

 次の客が、ちょっと迷惑そうな顔で、レジ横に立つ真由美を追い越していく。

「でも、別れたらしいけどな」

 思わず真由美の目を見ると、生き生きと輝いている。

 女というのは、どうして他人の離婚が嬉しいのか。

 自分が別れたときも、知り合いの女たちはこんな目をしたんだろうと、あのとき佳奈子は思ったものだ。 



 背後の車からクラクションが鳴らされ、佳奈子は慌てて、アクセルを踏んだ。

 カスベの店の前を通り過ぎる。

 ドーナツショップ・ウエンズディ。

 立てかけタイプの黒板のような看板だった。黄色の地の色に青い文字が踊っている。


 中で人が動いているのが見えたような気がした。それがカスベなのか、佳奈子にはわからなかった。



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