夜ふかし喫茶 月見亭 〜月光に癒される夜〜
Algo Lighter アルゴライター
第1話「はじめての月光ブレンド」
終電を逃したわけではない。だが、帰る気になれなかった。
OLの綾乃は、職場を出たあとも気持ちが落ち着かず、夜の街をさまよっていた。仕事のミスを上司に厳しく叱責され、同僚のフォローに助けられながらも、自分の不甲斐なさに押しつぶされそうだった。
足元に落ち葉がはらりと舞う。季節は初冬、冷たい夜風が頬を撫でる。ため息とともに吐き出した白い息が、街灯の光に溶けていった。ふと顔を上げると、目の前にこぢんまりとした喫茶店があった。
「夜ふかし喫茶 月見亭」
レトロな手書きの看板が、柔らかな月明かりに照らされている。こんな時間に開いている喫茶店があるなんて知らなかった。なんとなく、その佇まいに惹かれるものがあった。
ガラス越しに店内を覗くと、暖色のランプが優しく灯っている。誘われるようにドアを押すと、小さな鈴の音が静寂の中に響いた。
「……いらっしゃいませ」
店内は、まるで時間の流れが違うかのように静かだった。温かみのある木のカウンター、壁際の小さな本棚、ゆるやかに揺れるアンティークの振り子時計。どこか懐かしく、心がほぐれるような空間だった。
カウンターの奥に立つのは、静かな雰囲気の男性。落ち着いた佇まいながらも、感情の読めない表情をしている。だが、不思議と冷たさは感じなかった。
「えっと……まだやっていますか?」
「ええ、ここは夜だけ開く店ですので」
抑揚の少ない声。だが、その声には静かな温度があった。綾乃は少し緊張しながらカウンターの席に座る。
「何を頼めばいいですか?」
「おすすめは『月光ブレンド』です」
「……月光ブレンド?」
店主は黙って頷き、無駄のない動きで豆を挽き始めた。シャリ、シャリと心地よい音が店内に響く。次第に香ばしいコーヒーの香りが広がり、張り詰めていた綾乃の心が少しずつほぐれていく。
静かに注がれたコーヒーが、カウンターに置かれる。綾乃はそっとカップを手に取り、一口飲んだ。
——やわらかい。
苦みが控えめで、ほのかな甘みが舌に残る。けれど、それ以上に感じたのは、胸の奥がふっと軽くなるような、包み込まれるような安心感だった。
「……なんだか、落ち着きますね」
「そうですか」
店主は静かに微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、綾乃の心にわずかな隙間ができたような気がした。
「私、今日は会社で怒られて……それで、なんだか帰る気になれなくて」
「そうですか」
慰めの言葉はない。ただ、彼は黙って話を聞いていた。だが、不思議とそれが心地よかった。
カップの中のコーヒーが減るたびに、心の中のざわつきも少しずつ薄らいでいく。店の静けさと温かい香りに包まれながら、綾乃は少しずつ自分を取り戻していく気がした。
「そろそろ、朝が来ますよ」
店主の声に促されるように窓の外を見ると、東の空がわずかに明るくなっていた。もうすぐ夜が明ける。
綾乃はカップを空にし、深く息を吐く。さっきまで胸にまとわりついていた焦燥感が、どこか遠くへ消えていく気がした。
「……なんだか、少しだけ気が楽になりました」
「それは何よりです」
静かな声が響く。彼は最後まで多くを語ることはなかったが、それでも綾乃はこの夜の時間が無駄ではなかったと感じていた。
「また、来てもいいですか?」
「ええ。ここは、夜にしか開かない店ですので」
綾乃は微笑み、小さく頷いた。
——明日から、少しだけ肩の力を抜いて働いてみよう。
そんな気持ちを胸に、彼女は朝焼けの中、ゆっくりと帰路についた。
静かな夜の時間が、彼女の心をそっとほどいていた。
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