♪76 たとえ未来が牙を剥いても
「ぺだるちゃん!」
新江古田から練習スタジオに向かう途中、聞き覚えのある声に振り向くと、自転車に乗った
「あ、
少しドキドキしながらも平静を装う。
昨日東京に降った初雪はすでに溶けて、一車線の裏通りのアスファルトを黒く濡らしていた。
冬の午後の低い
「見ましたよー、アレ。いつの間に行ったんですか?」
スカートでも乗り降りしやすいママチャリのカゴに、ソフトケースに包まれたドラムのキックペダルが入れられている。
「いやー、先に言おうかと思ったんですけど、タイミングがなくて……」
イルミネーションを見に行くことは
わざわざ許可を求めるものでもないし、二人で匂わせするのに他のメンバーを呼ぶのもおかしいし、仕方なかった……と思う。
「それにしても観覧車ですか~。考えましたね」
自転車を押して歩きながら、
「あんなにウケるとは思いませんでした……」
『撮ったのは誰でしょう?』
そんな俺のコメントに、最初は『
けれどすぐに、
クリスマスの配信以降、俺たち全員をフォローしているX民が多いからだ。
バレたところで
『ひずみんモテモテ』
『ゆまひずてぇてぇ』
そんなコメントに混じって、
絵文字だけだと、本気とも冗談とも分からない。
俺はそれに謝り倒し、そこにまたコメントが付く。
俺たちの現実での行動が、ファンにとっては完全にエンターテイメントになっていた。
百合営業が隆盛を誇っている理由がよく分かる。
こんなにウケたらやめられないって、これ。
「百合営業って、やってるうちに本気になっちゃう人もいるらしいですよ」
「いやいや、
本当にそんな人がいるのかはともかく、俺たちは百合じゃないだけに余計に危ない。
そう思いつつも、否定するしかなかった。
「
「それなら、私にもまだチャンスありますか?」
「えっ?」
それって、どういう意味……?
「あ、もう着きますね! 私、自転車停めてきます!」
俺に問い返す時間を与えず、
♪
「楽しみだな~、
ギグバッグから五弦ベースを取り出しながら、黒いレザージャケット姿の
俺たちがスタジオに着くと彼女はロビーでブラックの缶コーヒーを飲んでいて、間もなく
「最後のほうだけですよ、変えたの」
以前と同じ、くすみピンクのブラウスの
相模湖に行った翌日、俺はグループLINEでメンバーに歌詞の変更を相談した。
最終的な決定権はプロデューサーにあるけれど、まずはメンバー間で合意しなければ先へ進めない。
『
『で、また自主練のときにスマホで録音してプロデューサーに聴いてもらおうよ』
俺たちの意見を聞き、
『確かにそれで演奏も良くなったら、説得力もありますね』
触れてこないのが逆に怖かったけれど、こっちから触れることもできなかった。
『でもまあ、いきなり送りつけるのはやめたほうがいいかもね』
『聴いてもらうのは話をしてからかな』
『とはいえやってみないことには、自信持ってやれるとも言えないっしょ?』
かくして俺たちは、
「どんな歌詞なんですか?」
シンバルの位置を調整しながら、
「それは聴いてのお楽しみってことで」
彼女が右手でアンプのボリュームを上げると、歪んだ音がスタジオを満たしていく。
俺は黙ったまま、クリップチューナーの液晶が中央を指すまで、ゆっくりと1弦のペグを回した。
事前に見ておいたほうがそれに合わせてアレンジは考えられるけど、コードは決まってるし、考えすぎないほうがいいような気もした。
「甘っちょろい歌詞だったら承知しねーぞ?」
♪
ハイハットシンバルのリズムに合わせた、単音のギターリフ。
ここは原曲のまま、難しいことはしない。
そこに
Aメロの歌詞は、何も変わっていない。
鬱屈した少年の目を通した、灰色の世界。
けれど彼女の歌は、何かが違った。
世界への苛立ちと、自分への苛立ち。
その中に込められた、前へ進もうとする意志。
AIボーカル音源の仮歌にはなかった感情に、俺は右手の
Bメロの後半で、歌詞が変わった。
――立ち向かうよ
たとえ未来が僕たちに牙を剥いても
どこまでも単純で、力強いメッセージ。
それはもしかしたら、ベテランの作詞家には書けないものだったのかもしれない。
きっと彼女の今の心境を、そのまま言葉にしたものだった。
ああ、そうだ。
未来がどうなるかなんて分からない。
大学の問題もあるし、このプロジェクトが上手くいくかどうかも不安でいっぱいだ。
それでも俺たちはこのバンドを成功させたい。
このメンバーで。
だから――。
気づいたら左手が指板の上を動いていた。
次に弾くべきフレーズが、自然と見えた。
錆びついたレール外れて
意味のないルール壊して
歩きだしたばかりの僕の前に
空だけが広がる
以前に試したものの、歌詞に合わずに没にしたフレーズ。
どの道が正解なの?
あの日のキミの言葉
歩きだしたばかりの僕にはまだ
分からないことだらけだけど
自由に飛翔し、ともすると足元を見失いそうなボーカルとギターの下で、
凍える街のイルミネイション
海の向こうに昇る朝陽
世界はこんなにも輝いてる
だから進もう 前へ! 前へ!
それは彼女の歌で、同時に俺の歌でもあった。
何かに衝き動かされるように、俺は夢中でギターを弾き続けた。
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