♪76 たとえ未来が牙を剥いても

「ぺだるちゃん!」


 新江古田から練習スタジオに向かう途中、聞き覚えのある声に振り向くと、自転車に乗ったがわさんがこちらに近づいてくるところだった。


「あ、さくセンパイ! おはようございます……」


 少しドキドキしながらも平静を装う。

 かいとの「匂わせ写真」を公開して以来、直接会うのは初めてだった。


 がわさんは俺を追い越したところで自転車を停め、俺は少し歩調を速めて彼女に並ぶ。


 昨日東京に降った初雪はすでに溶けて、一車線の裏通りのアスファルトを黒く濡らしていた。

 冬の午後の低いしを反射して、濡れたアスファルトが光っている。


「見ましたよー、アレ。いつの間に行ったんですか?」


 がわさんは自転車を降り、苦笑の中に抗議の響きを滲ませた。

 スカートでも乗り降りしやすいママチャリのカゴに、ソフトケースに包まれたドラムのキックペダルが入れられている。


「いやー、先に言おうかと思ったんですけど、タイミングがなくて……」


 イルミネーションを見に行くことはかいとの個人LINEで決めたから、がわさんたちに言う機会がなかったというのは本当だ。


 わざわざ許可を求めるものでもないし、二人で匂わせするのに他のメンバーを呼ぶのもおかしいし、仕方なかった……と思う。


「それにしても観覧車ですか~。考えましたね」


 自転車を押して歩きながら、がわさんは感心した様子を見せた。


「あんなにウケるとは思いませんでした……」


 かいと出かけた翌日、俺たちがそれぞれXにポストした写真には、予想以上の反響があった。


『撮ったのは誰でしょう?』


 そんな俺のコメントに、最初は『がわさん?』とか、冗談めかしてカレシの存在を疑う声もあった。

 けれどすぐに、かいも観覧車の写真を上げていることに気づかれた。

 クリスマスの配信以降、俺たち全員をフォローしているX民が多いからだ。


 バレたところでかいがツーショットの自撮りをポストし、それを俺がリポストすると、すぐにたくさんのコメントが付いた。


『ひずみんモテモテ』

『ゆまひずてぇてぇ』


 そんなコメントに混じって、なつさんは『お前らもう付き合っちゃえよ』と冷やかし、がわさんは怒りの絵文字を送ってきた。


 絵文字だけだと、本気とも冗談とも分からない。

 俺はそれに謝り倒し、そこにまたコメントが付く。

 俺たちの現実での行動が、ファンにとっては完全にエンターテイメントになっていた。


 百合営業が隆盛を誇っている理由がよく分かる。

 こんなにウケたらやめられないって、これ。


「百合営業って、やってるうちに本気になっちゃう人もいるらしいですよ」


 がわさんのつぶやきにドキリとする。


「いやいや、センパイとはそういうのないですから……!」


 本当にそんな人がいるのかはともかく、俺たちは百合じゃないだけに余計に危ない。

 そう思いつつも、否定するしかなかった。


ちゃん……?」


 がわさんは自転車を押しながら、濡れたアスファルトに視線を落とす。


「それなら、私にもまだチャンスありますか?」

「えっ?」


 それって、どういう意味……?


「あ、もう着きますね! 私、自転車停めてきます!」


 俺に問い返す時間を与えず、がわさんは再び自転車に乗ると、ペダルを漕いで先に行ってしまった。


        ♪


「楽しみだな~、ちの歌詞」


 ギグバッグから五弦ベースを取り出しながら、黒いレザージャケット姿のなつさんがつぶやく。

 俺たちがスタジオに着くと彼女はロビーでブラックの缶コーヒーを飲んでいて、間もなくかいも合流し、練習時間となった。


「最後のほうだけですよ、変えたの」


 以前と同じ、くすみピンクのブラウスのかいは、大きい方のギターアンプにシールドケーブルを突き刺す。


 相模湖に行った翌日、俺はグループLINEでメンバーに歌詞の変更を相談した。

 最終的な決定権はプロデューサーにあるけれど、まずはメンバー間で合意しなければ先へ進めない。


ちがやりたいなら、とりあえずやってみれば?』

『で、また自主練のときにスマホで録音してプロデューサーに聴いてもらおうよ』


 俺たちの意見を聞き、なつさんはそう提案してくれた。


『確かにそれで演奏も良くなったら、説得力もありますね』


 がわさんも「匂わせ写真」や怒りの絵文字のことには触れず、同意してくれた。

 触れてこないのが逆に怖かったけれど、こっちから触れることもできなかった。


『でもまあ、いきなり送りつけるのはやめたほうがいいかもね』

『聴いてもらうのは話をしてからかな』

『とはいえやってみないことには、自信持ってやれるとも言えないっしょ?』


 なつさんの意見は正論だった。

 かくして俺たちは、かいの歌詞で一回合わせてみようということになったわけだ。


「どんな歌詞なんですか?」


 シンバルの位置を調整しながら、がわさんが尋ねる。


「それは聴いてのお楽しみってことで」


 かいはそう言って、Eマイナーのローコードを鳴らした。

 彼女が右手でアンプのボリュームを上げると、歪んだ音がスタジオを満たしていく。


 俺は黙ったまま、クリップチューナーの液晶が中央を指すまで、ゆっくりと1弦のペグを回した。


 かいの歌詞は俺もまだ見ていない。

 事前に見ておいたほうがそれに合わせてアレンジは考えられるけど、コードは決まってるし、考えすぎないほうがいいような気もした。


「甘っちょろい歌詞だったら承知しねーぞ?」


 なつさんの五弦ベースの、低いBの音が空気を震わせた。


        ♪


 がわさんのカウントで曲が始まる。

 ハイハットシンバルのリズムに合わせた、単音のギターリフ。

 ここは原曲のまま、難しいことはしない。


 そこにかいのロングトーンと、なつさんの根音ルート弾きが重なり、楽曲を構成していく。


 Aメロの歌詞は、何も変わっていない。

 鬱屈した少年の目を通した、灰色の世界。


 けれど彼女の歌は、何かが違った。

 世界への苛立ちと、自分への苛立ち。

 その中に込められた、前へ進もうとする意志。


 AIボーカル音源の仮歌にはなかった感情に、俺は右手の消音ミュートを少し緩め、パワーコードに力を込めた。


 Bメロの後半で、歌詞が変わった。


  ――立ち向かうよ

  たとえ未来が僕たちに牙を剥いても


 どこまでも単純で、力強いメッセージ。

 それはもしかしたら、ベテランの作詞家には書けないものだったのかもしれない。

 きっと彼女の今の心境を、そのまま言葉にしたものだった。


 ああ、そうだ。

 未来がどうなるかなんて分からない。


 大学の問題もあるし、このプロジェクトが上手くいくかどうかも不安でいっぱいだ。


 それでも俺たちはこのバンドを成功させたい。

 このメンバーで。


 だから――。


 気づいたら左手が指板の上を動いていた。

 次に弾くべきフレーズが、自然と見えた。


  錆びついたレール外れて

  意味のないルール壊して

  歩きだしたばかりの僕の前に

  空だけが広がる


 かいの伸びやかな声に、オクターブ奏法の単純なフレーズを重ねる。

 以前に試したものの、歌詞に合わずに没にしたフレーズ。


  どの道が正解なの?

  あの日のキミの言葉

  歩きだしたばかりの僕にはまだ

  分からないことだらけだけど


 自由に飛翔し、ともすると足元を見失いそうなボーカルとギターの下で、なつさんのベースがボトムを支え、がわさんはリズムを保ったまま左右のシンバルを何度も打ち鳴らす。

 かいは完全にミュートを外したパワーコードをかき鳴らしながら、大きく息を吸う。


  凍える街のイルミネイション

  海の向こうに昇る朝陽

  世界はこんなにも輝いてる

  だから進もう 前へ! 前へ!


 それは彼女の歌で、同時に俺の歌でもあった。

 編曲アレンジに対する迷いなんてもうなかった。

 何かに衝き動かされるように、俺は夢中でギターを弾き続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る