第3話 急がば回れの一杯

カフェのカウンターに、小さなデミタスカップが置かれる。琥珀色の液体の上に、なめらかなクレマが広がっていた。


「エスプレッソって、やっぱり急いで飲むコーヒーなんだよね?」


莉奈はカップを見つめながら尋ねた。いつもより小さなコーヒーに、どこか慣れない気がする。


タクミはミルクピッチャーを片付けながら、軽く首を振る。


「実は、それは半分正解で半分違うんだ。」


「え、どういうこと?」


タクミはカウンター越しに少し身を乗り出した。


「エスプレッソの語源には、二つの有名な説があるんだよ。」


「ふむ。」莉奈は興味を示しながら、カップを両手で包む。


「一つ目は、英語の『エクスプレス(express)』と関係があるって説。『急行』とか『速達』って意味があるよな? それと同じで、エスプレッソも短時間で素早く抽出できて、すぐに提供できるコーヒーだから、こう呼ばれるようになったって話。」


「なるほど、それっぽい!」莉奈は頷いた。「確かにエスプレッソって、シュッと出てくるイメージあるもんね。」


「でもね、もう一つの説の方が、個人的には好きなんだ。」


タクミは微笑みながら続けた。


「エスプレッソ(espresso)って、イタリア語では『特別に』『注文ごとに』って意味があるんだ。」


「え?」


「つまり、エスプレッソはただ速く淹れるコーヒーじゃなくて、『一杯一杯、特別に抽出されるコーヒー』ってことなんだよ。」


莉奈は驚いたように目を瞬かせた。


「じゃあ、急いで飲むものじゃないんだ……。」


「むしろ、じっくり味わうものだよ。」タクミは笑いながら、莉奈の前にカップをそっと押し出した。「試してみなよ。」


莉奈はそっとカップを持ち上げた。鼻を近づけると、濃厚で香ばしい香りが立ちのぼる。そっと一口含むと、ギュッと凝縮された苦味と、奥深い甘みが広がった。


「……思ったより、奥が深い。」


「だろ?」タクミは満足げに頷く。「エスプレッソは、短時間で抽出するけど、味わう時間は短くなくていいんだ。」


莉奈はもう一度、小さく息をついてカップを傾ける。


「急ぐためのコーヒーじゃなくて、『特別な一杯』ってことね。」


タクミは静かに微笑んだ。


カフェの中には、エスプレッソの香りが心地よく広がっていた。莉奈はその余韻を楽しみながら、最後の一滴までゆっくりと味わった。

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