Re:銀河鉄道の夜 アルビレオ
灰色鋼
第1話 旅立ち
あの銀河鉄道は夢だったのか。ジョバンニはどうしてもそうは思えなかった。
カンパネルラにもう一度だけでいいから会いたい。ジョバンニの思いは二年が過ぎた今も募るばかりだ。父は帰ってこなかった。病にふしていた母は天国へ旅立った。ジョバンニはきょう、士官学校に入るため故郷の町を出る。
母に別れを告げるため、ジョバンニは墓の前に立っていた。
「お母さん。僕は、お母さんのしあわせをずっと願っていました。けれど、神様はほんとうに不公平だ。あんなに一生懸命に働いていたお母さんがなんで……。僕だってお母さんが元気になってくれることをずっと祈っていたのに。天上に行くことはさいわいなのでしょうか。僕は今、自分がどうすればいいのか少し分からなくなっています」
そうつぶやいたジョバンニだったが、意を決したように顔を上げた。
「ああ、でも心配しないで。僕は一人でも大丈夫です。それでは、行ってまいります」
大きな肩掛け鞄をかつぎ、墓地を駆け出たジョバンニは田園の道を駆けた。
「ああ、ジョバンニ。出発かい」
農作業をしていた男がジョバンニに気付き、呼び止めた。
「はい。お世話になりました。姉さんにもよろしくお伝えください」
「分かった。見送れなくてごめんな。あいつもどうしても忙しくてな」
「ええ、僕も顔を見ると何だか気まずくなるだけですから」
「そうかい。まあ、姉と弟なんてそんなものかな。ジョバンニなら士官学校でもきっと頑張れるさ。たまには帰っておいで。お母さんの墓参りもあるだろうからね」
「ありがとうございます」
ジョバンニは駅へと急いだ。一人の少年が道に立っていた。二年前のケンタウル祭の夜、カムパネルラが川で命を救ったザネリだ。
「ジョバンニ!」
立ち止まったジョバンニだったが、何も答えず目を伏せた。
「ジョバンニ。僕……」
「何?」
「小さいころ、意地悪してただろ」
「何だい、そんなこと今さら」
「カムパネルラがいなくなってからずっと謝ろうと思っていたけど、言えなかったんだ。でも、君がもう出発してしまうっていうから」
「もういいよ。だいたい何を言ってもカムパネルラは帰ってこない」
「僕のせいだね」
「ああ、君のせいだ。君があの夜、ほんの少しだけ注意していれば……」
「ごめん……」
ザネリがうつむいた。
「ああ、ごめんよ。僕が言いすぎた。カムパネルラがせっかく君のことを助けたのに……。僕はほんとうに嫌なやつだよ。君のことを攻める資格なんてない。でも、君と仲良くすることもできないんだ。ごめん、もう行かなきゃ」
そう言ってジョバンニは走り出した。
「あ、ジョバンニ……」
二カ月前の教室。ジョバンニは窓際の席で一人、外を見ながら座っていた。
「あーあ」
校庭ではザネリと仲間たちが歓声を上げていた。
(あいつら、もうカムパネルラのことなんか忘れてしまったみたいだ。いい気なもんだ)
「ジョバンニ。何ぼんやりしてるの」
同級生が声をかけた。
「ああ、ちょっと」
「士官学校に行くんだって? ずいぶん思い切ったことするね。軍なんて君に一番似合わないって思ってたのに」
「そんなことないよ。それに、上の学校は仕事しながら行くのは無理だからね。士官学校なら寄宿舎もただだし、二年からは給金だってもらえる。姉さんに仕送りすることだってできるんだ」
「ああ、そう言えばジョバンニはお母さんを養ってたよね」
「お母さんは半年前、天国へ行った」
「ああ、ごめん。そうだった」
「いや、いいよ。だから僕はこれから自由に生きていく。もうだれにも縛られないさ」
「俺はそういうわけにはいかないな。家を継がなきゃならないし」
「そうなのか。でもそれはしあわせなことだと思うよ」
「そうかなあ」
校庭からザネリが教室に戻ってきた。
「あのさ、ジョバンニ……」
ジョバンニは険しい顔でザネリを無視して席を立ち、廊下へ出ていった。
「あいつ、まだあの時のことを。ザネリ、あまり気にするなよ」
「あ、ああ……」
二年前。町の墓地では小さな棺が土に埋められようとしていた。
「さあ、最後のお別れを」。牧師が言った。
「はい」。カムパネルラの父は小さく答えた。
「カムパネルラ……」
ジョバンニは目に涙を浮かべ、それ以上言葉を発することができなかった。
ひつぎが空だということをジョバンニは知っている。参列者の声が聞こえた。
「結局、体は上がらなかったってね」
「そうなんだ。どこまで流されてしまったのだろう」
「いい子だったのにほんとうに悲しいことだ」
「息子も亡くすなんて先生もおかわいそうに」
(カムパネルラは死んでなんかいない)
ジョバンニは心の中でつぶやいた。
「きょうは来てくれてありがとう、ジョバンニ」
「いえ……あの、カムパネルラはまだ死んだって決まってないです」
「君がそう言ってくれるとうれしいよ。私もどこかで無事でいてくれると信じたいが……」
「カムパネルラは死んでなんかいません。僕はそれを……」
「うん、本当にありがとう。ああ、そうだ、それよりも、君の父さん、帰ってこなかったね。不確かなことを言ってすまなかった。君のお母さんも心配しているだろう。どうしたことだろうね」
「はい…」
「まあ、何か忙しいことがあったのだろう。なに、彼のことだから大丈夫だ。そうだ、うちへ来てカムパネルラの部屋を見てやってくれないか」
「はい」
カムパネルラの父に招かれ、部屋に入ったジョバンニは机の上に大きな本があることに気付いた。
「ああ、これ、前に一緒に見た本です」
ジョバンニはカムパネルラの父にそう告げ、「銀河」と書かれたページを開いた。
「カムパネルラ、君はこの銀河の向こうに行ってしまったのだろうか」
「カムパネルラは銀河や宇宙にとても興味を持っていた。いつの間にか私の書斎からこの本をここへ持ってきてしまっていたんだ。祭りの前の日も、その本をずっと眺めていたよ。ジョバンニ君、君も宇宙に興味があるのかな?」
「僕はあの夜、カムパネルラと一緒に……あ、いえ、何でもありません」
「どうしたの?」
「いえ、カムパネルラはきっとこの銀河のかなたに行ってしまったんです」
「ああ、そうかもしれないね」
部屋の隅には、以前、カムパネルラと一緒に遊んだアルコールランプで走る汽車がさびしそうに置いてあった。レールを七つ組み合せて円くなっていて、電柱や信号標もついている。
「カムパネルラは少し前、この汽車は天の川に沿って走る銀河鉄道だと言ってね。君と一緒にこの汽車に乗ってどこまでもどこまでも行くんだと楽しそうに話していたんだよ」
「え……」
(そうだ。やっぱり夢なんかじゃない。あの銀河鉄道の夜は……)
駅で汽車を待つジョバンニは二年前の記憶を思い起こしていた。
出発時間が迫り、汽車に乗り込もうとするジョバンニに、見送りに来たカムパネルラの父が後ろから声をかけた。
「ジョバンニ君」
「あ、わざわざ来ていただいて……」
振り向いたジョバンニは帽子を取って頭を下げた。
「おお母さんのことはほんとうに残念だった。でも、君ならこれからもきっと大丈夫だろう」
「はい、悲しんでばかりでは母に怒られますから」
「ああ。それにしても士官学校か。君にはゆくゆくは大学に行ってもらおうと私は考えていたんだがね。まあ君が自分で決めたことだ。カムパネルラもきっと応援しているだろう。ああそうそう、ザネリ君や他の友人たちは来ていないのかね」
「あ……ええ、みんな忙しいみたいですから」
「そうかね。そんなものかね君たちの年頃というのは」
「ええ、まあ仕方ないです」
「私に何ができることがあれば何でも言ってくれたまえ。手紙をよこしてくれればいい。私は君のことをほんとうの息子のように思っているのだから」
「はい。ありがとうございます」
汽笛が鳴った。
「もう発車の時間です」
「ああ、忘れてはいけない。君の父さんがまだ見つからないことをきちんと報告しておかなければね。私も八方手を尽くしているが、なにぶん遠い場所だから。何かわかったら必ず連絡する」
「はい」
また汽笛が鳴った。
「ああ、気を付けて行きなさい」
「ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げ、ジョバンニは汽車に乗り込んだ。荷物を網棚に上げ、四人掛けの席に座ったジョバンニは窓を開け、カンパネルラの父にもう一度会釈した。大きく汽笛を鳴らし、ゆっくり汽車は出発した。
(カンパネルラ。君と一緒にこんなふうに銀河鉄道に乗ってサザンクロスで別れてから、ずいぶん経ったね。カンパネルラ、ほんとうのさいわいってほんとうにあるのかな。僕はあの日から……)
たくさんの明かりが行き交っている。
「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ」
「どうして、いつ?」
「ザネリがね、舟の上から烏瓜のあかりを水の流れる方へおしてやろうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこった。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこした。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ」
「みんな探してるんだろう」
「ああすぐみんな来た。カムパネルラのお父さんも来た。けれどもみつからないんだ。ザネリはうちへ連れられてった」
カムパネルラの父が黒い服を着て時計をじっと見つめていた。
夕闇が追い掛ける列車の中で、ジョバンニは思いを巡らせていた。
(君が助けたザネリだって、あれから僕にだいぶ優しくしようとしてくれたけど、僕にはどうにもできやしなかった。なぜ君がいなくなってザネリが……。それは考えてはいけないって分かっているけど、でも……。どうやったって君は帰ってこない。そしてお母さんもだ。ああ、ほんとうのさいわいってなんだろう。僕はこれからどうしたらいいのかな。君に聞いたらなんて言うかな……カムパネルラ。そうだ、あれは絶対に夢なんかじゃない。君はきっと天上にも石炭袋にも行ってない……)
車窓からは遠くの丘の上に、まだ闇に溶けずにいる天気輪の柱が見えた。
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