第43話 音

 ステージの熱がゆっくりと冷めていく。

 カーテンの向こう側では、まだ観客たちの歓声が名残惜しそうに響いていた。

「アンコール!」の声が遠くでこだまするたびに、陽菜の胸の奥がふわりと震える。


 控室に戻った陽菜は、ドレスのまま椅子に腰を下ろした。

 汗で湿った髪が頬にはりつき、息を整えるたびに胸の鼓動がまだ速い。

 鏡の前には、ライトの残光に照らされた自分の顔――

 涙の跡も、笑顔も、そのまま残っていた。


(……終わったんだ)


 それでも、心はまだステージにいた。

 あの眩しい光と、観客の熱と、音の波の中に。


 マネージャーがそっと水のボトルを差し出す。

「お疲れさま。……本当に、すごかったよ」

 その声に、陽菜は静かに微笑んだ。


「ありがとうございます。……やっと、少しだけ“自分”で歌えた気がします」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。

 歌っている間、怖さは確かにあった。

 でも同時に、光の中で初めて“自分が生きている”と感じたのもあの瞬間だった。




 やがて、記者会見の時間が訪れた。

 照明が並ぶ取材室は、さっきまでのステージよりもずっと眩しく、

 無数のカメラのフラッシュが、また別の光の海を作っていた。


 陽菜は深呼吸をして席に着く。

 横には社長とマネージャーが控え、報道陣の視線が一斉に向けられた。


「橘さん、今日のライブで初披露された新曲『Aurelia』についてお聞きします。

 この曲には、どんな想いを込められたんですか?」


 その質問に、陽菜は少しだけ目を伏せた。

 マイクを両手で包み、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「……この曲は、“変わっていく自分”を受け止めるために作った曲です。

 アイドルとしてじゃなくて、ひとりの人間として、

 迷ったり、傷ついたりしても、前を向けるように――そんな想いを込めました」


 記者たちのペンが一斉に走る音が、静かに響いた。

 陽菜は続ける。


「今までは、“誰かのために笑わなきゃいけない”って思っていたけど、

 今日のステージでは、“私自身として笑いたい”って思えたんです。

 ……たぶん、それが“歌う”ってことなんだと思います」


 その言葉に、一瞬だけ沈黙が流れる。

 けれどそれは、言葉よりも深い“理解の間”のようだった。


 社長が満足げにうなずき、取材は穏やかな拍手の中で締めくくられた。

 陽菜の頬には、まだライトの余熱が残っている。


 夜。

 ホテルの部屋に戻ると、外の街は雨上がりで、ガラス窓に無数の光が滲んでいた。

 ベッドの上には衣装と花束、そしてスタッフからのメッセージカード。


「……終わったんだな」


 つぶやいた声が、少し震えていた。

 スマホの画面を開くと、タイムラインには“#Aurelia”の文字が並び、

 動画や写真、感想の投稿が次々と流れていく。


“泣いた”“勇気をもらった”“陽菜ちゃんの歌が本当の光だった”――

 その言葉たちが、心にしみていく。


(みんな、本当に……ありがとう)


 画面の明かりが、陽菜の瞳に優しく映る。

 そしてその光の中に、たった一つだけメッセージ通知が浮かんだ。


 ――「おめでとう。陽菜の声が、ちゃんと届いてたよ」


 奏からだった。

 その短い一文を見て、陽菜は小さく笑った。

 言葉にしなくても伝わるものがある――そう思える夜だった。


 その頃、街の別の場所。


 奏は、静かな夜の音楽棟にいた。

 窓の外では虫の声がかすかに響き、薄暗い廊下を抜ける風が楽譜を揺らしていた。

 手伝いを終えた帰り道、ふと耳に届いたピアノの音。


 それは、あの日と同じ旋律――。


(……この曲)


 足を止め、音のする方へ歩み寄る。

 薄く開いた練習室の扉の隙間から、淡い光が漏れていた。

 そこにいたのは、篠宮茉莉。


 真剣な表情で鍵盤に向かう彼女の指先は、まるで音と会話をしているようだった。

 力強くも繊細で、まっすぐな音。

 教科書的な完璧さではなく、何かを掴もうともがくような“熱”があった。


 奏は息をひそめ、ただその音に聴き入った。

 一音一音が、胸の奥に落ちていく。


(……やっぱり、この子の音、忘れられない)


 茉莉の音には、形にならない感情があった。

 それが何なのか、まだ言葉にできない。

 けれど確かに――心が動いた。


 彼女が最後の和音を弾き終えると、部屋に静寂が戻った。

 その静けさの中で、奏はそっと呟く。


「また……聴きたいな」


 その言葉は誰にも届かず、夜風に溶けて消えた。

 けれど、その瞬間から、確かに何かが動き始めていた。



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