第40話 準備

 ソロデビューの発表を目前に控えたある日、陽菜は事務所の収録スタジオにいた。

 グループの活動とは違う、一人きりのブース。そこに立った瞬間、自分の声と向き合う時間が始まる。

 陽菜は手にしたステンレスボトルを軽く振り、ぬるくなった紅茶をすする。


(いよいよ、今日なんだ)


 事務所の廊下を歩きながら、グループの練習の時とはまるで違う空気を感じていた。誰かと一緒に歌い踊る安心感は、ここにはない。頼れるのは自分の声と、奏がくれたこの曲だけ。


 スタジオのドアを開けると、薄明りに照らされたブースが静かに待っていた。

 マイクスタンド、譜面台、遮音ガラス。その全てが、陽菜の緊張を静かに映していた。


「おはようございます。.....準備、大丈夫そう?」


 声をかけてきたのはスタッフの女性。穏やかな表情に、陽菜は小さく頷いた。


「はい。.....よろしくお願いします」


 マイクの前に立った瞬間、周囲の音が一気に遠のく。

 収録間に入念に発声練習をする。音階に合わせた声出しやリップロールなどの顔の体操をして、緊張している体をほぐしていく。

 ヘッドフォンを装着すると、かすかなホワイトノイズとスタッフの声だけが耳に届いた。


「――テストいきますね。『Aurelia』、1コーラス目から」


 陽菜は一度、目を閉じた。

 自分の心が静かに水面のように落ち着いていくのを感じながら、深く息を吸い込む。


(大丈夫。これは私の物語。........私にしか、歌えない歌)


 イントロが流れ出す。

 静寂の中、ピアノの音だけが響く。

 最初の数音だけで、胸の奥が静かに震えた。


 歌い出す。

 一音、一音に、丁寧に感情を乗せて。震えるような不安と、確かな決意を両方抱えて、それでも前へ進む自分の足音のように。


「ただ、前を見ていた  あの日の私は  少し不器用で――」


 声の温度が変わっていく。

 感情の波が押し寄せ、込み上げてくる何かをかき消すように、陽菜は言葉をつないだ。


 ガラス越しに見えるスタッフたちの表情が変わるのが、わかった。

 驚き、引き込まれ、そして、黙って頷いている。


 歌い終えると、深く息を吐いた。

 マイクの前でしばらく立ち尽くしていると、ブースのドアが開かれ、ディレクターが小走りでやってきた。


「陽菜ちゃん……これは、すごいよ。初テイクで、ここまで“伝わる”ってなかなかない」


 エンジニアも頷いていた。


「響く声だ。まっすぐで、嘘がない。……こういう歌は、編集で作れないよ」


 陽菜は、少しだけ顔をほころばせた。

 自分の言葉で、自分の声で、ちゃんと“誰かの胸に触れる”ことができた――その実感が、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。




 数日後。

 事務所の会議室には、演出担当、衣装スタッフ、マネージャー、そして社長が集まっていた。

 陽菜は、自身のデビュー曲のステージ構成に関する資料を見ながら、椅子の背もたれに背中を預けていた。


(踊らないステージ……最初は、不安だったけど)


 誰かと揃える動きも、決められた立ち位置もない。

 マイク一本、照明一つで、すべてを伝えなければならないステージ。


 演出担当が映像イメージをスライドに表示する。

 朝焼けのような、柔らかなグラデーション。

 時間の流れをゆっくりと示す光の演出が、ステージ全体を包む予定だった。


「衣装は、グループ用とは違って……素の陽菜を出せるように、ナチュラルカラーのワンピースにしようと思ってるんだ。白に、ほんのりピンクが差すくらいの」


「シンプルでいいですね。下手に飾るより、曲が持つ静けさが生きる」


 社長も頷きながら言った。


「これは"橘陽菜"という一人のアーティストの、最初の一歩だ。

 アイドルとしてじゃない、"君自身"の声で勝負するんだね」


 その言葉に、陽菜の心はそっと震えた。

 思い出すのは、初めて人前に立ったときのこと。


 ライトがまぶしくて、観客の顔がよく見えなくて、

 それでも、歌っている自分に胸を張ろうとしていた、あの頃の自分。


(あのときの私は、誰かの"理想"でいようとしてた。でも今は、自分で"私を選びたい"って思える)


 陽菜は、深く頷いた。


「……これで、お願いします。もう逃げません。

 このステージが、"橘陽菜"のスタートになるように」



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