ふたつの「ありがとう」
俺はステラに真実を告げるべきか、わずかに迷った。
実を言うと、俺はシリウス・アッシュフィールドとしての過去はおぼろげだ。
前世での記憶を思い出した影響か、あるいはシリウスという人間があまり過去に未練がない人間なのか、どうしても思い出せないことが多い。
ステラが言う「自分を拾ってくれた過去」も、残念ながら霧の中だ。
でも、きっとごまかしたところで、彼女にばれないわけがないよな。
「……いいや、覚えてない」
「やっぱり、そうですよね」
俺が正直に伝えると、ステラの体が少しだけ背中から離れた。
どういったものかは悩んだけれど、きっと悪いことをしてしまったのは確かだ。
「ごめん」
ステラに謝ると、後ろで彼女が首を振るのを感じた。
「いえ、シリウス様が気に病むことはないんです! もうずっと前のことですし、忘れちゃって当然ですよ!」
仮に俺が記憶をちゃんと持っていたとして、それはいいことだったんだろうか。
悪役貴族だったころの記憶なんて、俺としては投げ捨ててしまいたい気持ちもあるけど。
「でも、私は覚えてます。私が捨てられて、どこにも行くあてがなくて、行き倒れていた時……シリウス様が助けてくださったんです」
だけど、ステラの言葉が正しいなら、
「俺は、そんなに優しい人間だったのか?」
「もちろんです! だった、ではなく、シリウス様はいつだって優しいんです!」
「でも、乱暴でメイドたちにもきつく当たってたんだろ」
「それは、シリウス様の気持ちが荒んでいたからですよ! 私は気づいていましたよ、最初から貴方の心には、正しい強さが眠っていると!」
「ははは、買いかぶりすぎだよ」
俺は冗談だと思って受け流したけれど、ステラにとってはそうじゃないみたいだ。
「……買いかぶりなんかじゃ、ないです」
ぴとり、と俺の背中にステラの手がくっつく感覚があった。
「ありがとうございます、シリウス様。私を、貴方のメイドにしてくれて」
こんな献身的なメイドに、ここまで慕ってもらえるなんて、俺は幸せ者だな。
だったら、こっちの気持ちもしっかりと伝えておくべきだ。
「……ありがとうだなんて。それを言うべきなのは、俺の方だよ」
湯気の立ち込める風呂場で思い出すのは、1年間の修行の日々。
「俺はさ、1年間で最強になるとか言っておきながら、陰で何度も心が折れそうになったんだ。もういっそ諦めてしまおうって、何回も思ったよ」
肌についた傷跡の分だけ、俺の挫折と苦悩と、迷いとためらいがある。
「スキルを見ていても、自分に才能があるかどうかを疑い続けてた。メイプルさんの地獄の修行なんて放り投げて、ぐうたらな貴族暮らしも悪くないって、何もかも投げ捨てかけた」
そのすべてを実行に移して、逃げたいと思った回数は傷より多い。
ただ、どうしても踏ん切りがつかなかったのは、俺を励ますステラの顔が、どうしても忘れられなかったのが理由なんだ。
「そうしなかったのは、ステラ……お前が、俺を応援してくれたからだ」
「シリウス様……」
「いつもどこかで、俺を応援してくれた。辛いときに、隣で支えてくれた。今ここに、こうしてジョブを極められた俺がいるのは、全部ステラのおかげなんだよ」
ステラがいなかったここでの生活なんて、今も、これからも考えられない。
ステラほどの理想のメイドなんて、きっと異世界のどこを探したって見つからない。
「俺の方からも言わせてくれ――ありがとう」
だから俺は、心からの気持ちを伝えたんだ。
ちょっとカッコつけすぎたかな、なんて心の中で気恥ずかしくなっていた時だ。
「――やっぱりダメです、我慢できませーんっ!」
後ろからステラが飛びついてきて、俺は思わずひっくり返ってしまった。
「どわあぁっ!?」
風呂場のタイルにあおむけに転がる俺の上に、満面の笑みのステラがのしかかる。
俺にべったりとくっついてるだけじゃなくて、いつのまにかタオルもどこかに行ってるし、しかも胸板に頬ずりまでしてくる。
つまりあれだ、どこがとかじゃなくて、もう全部密着してるんだ。
「シリウス様、私、貴方のことを心からお慕いしてます! 10年後だって、100年後だって、おばあちゃんになったって、ずっとシリウス様のメイドです!」
「わ、分かった、分かったから! 当たってるから、いろいろ当たってるんだって!」
「そんなの関係ありません! 今ばっかりは、今日だけは、シリウス様にありがとうってお気持ちをいっぱい伝えちゃいます!」
彼女は気にしないだろうけど、俺は気にするんだよ。
お腹の辺りで大きいのがむにむに、ぐにぐにって揺れて動きまくってる。
もうちょっと下に体勢がずれてしまったら、もう完全に18歳未満のお子様がプレイしちゃいけないゲームになるんだぞ。
『ライズ・オブ・ザ・ワールド』は15歳とか17歳とかでもプレイできるゲームだったんだから、そこは頼むから守ってくれ。
「まずはシリウス様にいっぱいハグして、お風呂を出たらお体も拭いちゃいますね! 夕飯は全部あ~んって食べさせてから、寝るときには絵本も読んじゃいます!」
そんな風に言ったところで、きっと今のステラは聞いてくれない。
俺にご奉仕することで頭がいっぱいで、顔が完全にとろけてるんだから。
金髪美少女メイドの甘えん坊な表情なんて、普段ならかわいくてしかたない。
いや、ステラはどんな時だって確かにかわいい。
問題は、今まさに俺の男としての理性の砦が崩壊しそうなところだ。
「やりすぎ! それはやりすぎだってば!」
「えへへ、今日だけはシリウス様の命令は聞けません! ステラ・カナリー、貴方に仕えるメイドとして精いっぱいご奉仕しますっ♪」
「メイドとしてめちゃくちゃじゃねーかっ! それと――」
もうどうすりゃいいか、何をすればいいか、訳も分からず。
「――それと、さっきからずっと当たってるんだっつーのーっ!」
ただ、俺は自分の置かれた状況と一番危険なものを叫ぶほかなかった。
残念ながら俺の声は、広い風呂場にむなしく響くだけ。
そしてステラは、ずっと嬉しそうに俺と密着したままだった。
――この後俺たちは、たまたま風呂場の近くを通りかかったメイプルさんに発見されて、こっぴどく叱られてしまった。
うら若い男女がどうのこうのとか、主人と従者の立場がどうたらとか。
タオルを巻いて正座させられた俺とステラは、ひたすら話を聞くばかり。
いろいろと長い話は続いたけれども、ステラは俺の方をこっそりと見て、小さくウインクしてくれた。
俺もなんだかおかしく思えて、小さく笑って返した。
――もちろんそれもバレて、説教は倍の長さになったけどな。
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