教授の作ったホイホイ

祐里

1.くじびキ

 人は死ぬ前に一番見たかった光景を瞼の裏に浮かべるというのは、何の本で読んだんだったか。

 本当か嘘かなんてわからないけれど、僕が暖かい春の夜に家を抜け出してここにたどり着くのはおかしくないのかも、と思う。たとえそれが、木々が生い茂る林の中では絶対にあり得ない、賑やかな市場だったとしても。


 成長とともに小さくなる靴を、父さんも母さんも気にしてくれない。真夜中のアスファルトを、きついスニーカーで踏みしめながら歩いた。住宅地の白い防犯灯はAIにで制御されていて、人が通るとより明るさを増す。スニーカーのサイズも靴箱に入っている間にAIで管理されればいいのに。

 死にたいのかもしれない。中学受験には失敗した。入学した市立中学校では浮いていて、教師からはため息をつかれて、親からも見離されていて。

 僕には、何もない。勉強をして知識を頭に入れたところで、空洞が食べてしまった。何も生み出さない真っ黒な穴が、僕の「悲しい」も「つらい」も「疲れた」も「やりたくない」も「消えてしまいたい」も、何もかもを平らげた。

 本当は、自分が何を考えているかもわからない。ただ、迷い込んだ林に突如現れた、ぴかぴかのカラフルな電灯に誘われた。そこかしこに立つ屋台の菓子の甘い匂いを嗅いでいると、僕の中の空洞は大人しくなっていく気がする。


『そんなんじゃAIに使われる側になるぞ』

『社会が必要とする優秀な人材になれ』

 でも空洞は、父さんの言葉を食べてはくれない。


 目の前の市場を、その場で眺める。つま先が痛い。靴を脱いでしまいたい。でも僕は、一歩を踏み出した。真っ青な電球で照らされた屋台のふわふわの綿あめが、とても気になったから。

「いラっしゃイ」

 形だけが人間で、基板や配線がむき出しの店番ロボットが僕に話しかけてくる。声はごついガスマスクの口から出ているようだ。

「青いノと赤イのガあリマすよ」

 紫じゃなくて赤なんだな、と思いながら、僕は「値段はいくら……?」と尋ねる。

「ネだん、ないでス。赤いノにしまスか?」

「あ、あの、青いので」

「ハい、どうぞ」

「ありがとう」

 細いケーブルが何本か走る手から受け取ったのは、割り箸に巻き取られた、まだほんのり温かい薄青色の綿あめだった。


 口の中で柔らかく甘く溶ける綿あめを食べながら奥に進むと、真っ赤な電球の下に『くじびキ』と書かれた看板を見つけた。大きな透明のケースに、たくさんの景品が乱雑に入れられている。レンズまで真っ白なメガネや虹色のウォーターポット、柔らかそうな半透明の珊瑚、鯨の形の枕。底のほうにはビーチサンダルも見えている。

「ビーチサンダルも景品ですか?」

 念のため聞いてみる。店番の歯車がギシギシいう音の間からは、「ソうです」という返事。

「値段は……」

「ねだン、ナいです。どのヒもにしマすか?」

「え。あ……、これ」

「引ッ張ってクださい」

 たくさん出ている白いひものうち一本を引っ張り、するすると上がってきたものを確認すると、ゴムのチューブみたいな鼻緒が付いた真っ赤なビーチサンダルだった。サイズは大人用のようだ。助かった、と、スニーカーと靴下を脱いで履き替える。鼻緒がひんやりと指の間を冷やした。

「本当に無料ですか?」

「ハい、無料です」

「そうですか、よかった……ありがとう」

 歯車が、赤くギシギシ笑った。

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