甘い毒のレシピ
@nihon194
第1話 偶然の発見
東京の高層ビル群を夕暮れが赤く染め始めた頃、広告代理店のガラス張りの会議室に、洗練された拍手と称賛の声が響き渡った。空調の効いた無機質な空間に、一瞬だけ生命が宿ったかのようだった。まるで冬眠から目覚めた動物が、目を開けてはまた永い眠りに戻るように、その熱気はすぐに消えていった。
「さすが佐藤さん、このプレゼン完璧です!」
三十七歳の佐藤健太郎は礼儀正しく頭を下げながら、営業マン特有の完成された笑顔を浮かべた。表情は満足げに作られていたが、黒縁の眼鏡の奥の瞳には何も映っていなかった。スーツの襟元から漏れる疲労の気配を、彼は巧みに隠していた。
会議室を出ると、クライアントの部長が大きな手で健太郎の肩を叩いた。その衝撃が彼の体内の空虚さを一瞬だけ揺るがせた。
「今日は祝杯だな。どこか飲みに行こう」部長の声には勝利の高揚感があった。
「申し訳ありません」健太郎は完璧な角度で頭を下げ、丁寧に断った。「次のキャンペーンのアイデアを練りたくて」
嘘ではなかった。しかし本当の理由は違っていた。彼には今、誰とも杯を交わす気力がなかった。
部長は残念そうな顔をしたが、すぐに商談成立の喜びに満ちた笑顔に戻った。
「さすが佐藤くんは仕事熱心だ。期待してるよ」
会社のガラスドアを抜け、ビルの外に出た健太郎は、誰にも見られていないことを確認してから、無意識に深いため息をついた。背筋から力が抜け、肩が少し下がる。まるで一日中被っていた重い仮面を取り外したかのようだった。オフィスビルの谷間から漏れる夕日が、彼の疲れた横顔を赤く照らした。その光は血のように濃く、彼の内側で少しずつ失われていく何かを映し出しているようだった。
夕暮れの駅へと向かう道すがら、健太郎の心は何も感じられないほど麻痺していた。成功したプレゼンも、クライアントからの称賛も、部下たちの敬意の眼差しも、どこか遠い世界の出来事のように空虚に感じられた。まるで厚い氷の層の下に閉じ込められた水のように、彼の感情は動けなくなっていた。風の中に紛れる人々の声も、車のエンジン音も、すべてが遠く感じられた。彼の周りには目に見えない壁が立ちはだかり、世界を曇りガラス越しに眺めているようだった。
駅のホームに到着した電車に乗り込み、健太郎はイヤホンを耳に差し込んだ。スマホの再生リストには「自主制作CD Vol.2」とタイトルが付いていた。指先で画面をタップすると、自分が作った曲が流れ始めた。
技術的には悪くない。コード進行も悪くない。演奏にも特に問題はない。でも、何かが足りない。心を掴むものが、どこにもない。
これじゃない。
健太郎は眉をひそめ、イヤホンを少し強く耳に押し込んだ。何度聴いても、心に刺さるものがなく、ただ空虚な音の羅列にしか聞こえなかった。それは砂漠に降る雨のように、地面に届く前に蒸発してしまう音楽だった。窓ガラスに映る自分の顔が、陰鬱に歪んでいるのが見えた。そこには創作の渇きに喉が焼け焦げた旅人の姿があった。
スマホの画面が突然明るく光り、メッセージの通知が表示された。大学時代のバンド仲間、松本哲也からだった。画面上の名前を見ただけで、遠い日の記憶が健太郎の中で揺れ動いた。あの頃は音楽に情熱を持っていた。今とは違っていた。
「久しぶりにライブハウス『ムーンシャドウ』でインディーズの発表会があるんだ。お前も出てみないか?いい機会だぞ」
健太郎は画面を見つめたまま動かなかった。電車の振動が手に伝わっても、彼の心は凍りついたようだった。新曲がない。いや、曲はあるが、人前で披露できるような曲がない。松本を満足させられるような曲が、ひとつもない。その認識が胸の奥を重く圧迫した。
電車が目的地のホームに滑り込み、ドアが開くと、健太郎は機械的に降りた。しかし駅を出ると、いつもの帰り道ではなく、突然の衝動で見知らぬ路地に足を踏み入れた。意識的な選択というより、体が勝手に動いたかのようだった。雑多な看板や店先の灯りが目に入る。昼間の顔とは違う、夜の東京の表情がそこにあった。
そして、ひとつの小さな看板が彼の注意を引いた。古びた木製の看板に、青い文字で書かれていた。
「ミッドナイト・ブルー」
薄暗い照明に包まれたバーの内装が、くすんだガラス越しに見えた。カウンター席に座る人々の後ろ姿が、何か秘密めいた雰囲気を醸し出していた。健太郎は立ち止まり、腕時計を見た。文字盤は午後9時を指していた。彼は決断した。少し寄っていくことにした。
渋い音色を立てるドアベルの下を潜ると、バーの扉が開き、落ち着いた雰囲気が健太郎を包み込んだ。ジャズのピアノトリオの曲が、小さなスピーカーから静かに流れていた。カウンター席には数人の客がいたが、その多くは一人で黙々と酒を飲んでいた。壁に掛けられた古い映画のポスターが、独特の時間感覚を生み出していた。
「いらっしゃいませ」バーテンダーが穏やかな声で迎えた。中年の男性で、白いシャツに黒いベストという出で立ちが、この場所の歴史を物語っているようだった。
「生ビールを」健太郎は少し疲れた声で告げた。
木目の美しいカウンターの端に腰掛け、健太郎は周囲を観察した。仕事を終えて一息つく会社員が何人かいる中で、健太郎も同じように見えただろう。黒いスーツ、疲れた表情、少しだけ緩められたネクタイ。しかし彼の内側では、表面上の疲労とは別の、もっと深い何かがすり減っていた。
琥珀色のビールが丁寧に注がれ、健太郎はグラスを手に取った。泡の向こうに見える自分の指が、わずかに震えているのに気づいた。グラスを傾け、苦みが喉を通り過ぎていく感覚に集中していると、バーの奥のテーブル席から女性たちの声が聞こえてきた。
3人組の女性グループだった。ビジネススーツをまとった彼女たちは、最初は静かに話していたが、カクテルグラスが空になるにつれ、声が次第に大きくなっていった。特に一人の女性—後から彼女の名前が村上千絵だと分かる—の声が次第に目立ち始めた。それは健太郎の意識を強く引きつけるものだった。
「マジで信じられないんだけど」彼女が感情を込めた声で言った。
「私を振るなんて何様だと思ってんだ」
その言葉に、健太郎の指先が無意識にスマホへと伸びた。何かに刺し貫かれたような感覚があった。
他の客たちは気まずそうに視線をそらし、バーテンダーは意図的にグラスを磨く音を大きくしていたが、健太郎は聞き耳を立てていた。彼女の言葉には、誰かに裏切られた悔しさ、自分を安く扱われた怒り、そして「忘れられない」という執着が混在していた。その声音には、彼が長い間探していた何かがあった。
「LINEも既読スルーだし、電話は圏外だし。私の存在を消したつもりかな?」千絵の声が震え、その振動が健太郎の胸に共鳴するようだった。「でも、あいつの心から私が消えることはないよ。絶対に」
友達の一人が「もう忘れなさいよ」と穏やかな声でアドバイスするが、千絵は烈火のごとく首を横に振った。肩まである黒髪が激しく揺れる。
「忘れられるわけないじゃん。この痛みは消えない刺青みたいなものだよ」彼女の声には、怒りの下に隠された深い悲しみがあった。
大学時代の文学講義でエミール・シオランの言葉に出会ったことを、健太郎は不意に思い出した。
「あらゆる言葉には、言い表せない何かの秘密が宿っている」
今、千絵の言葉の奥に、彼女自身も気づいていないかもしれない秘密が潜んでいるのを感じた。その秘密こそが、彼の音楽に命を吹き込む何かになるのではないか。言葉の表層を超えた、その核心に触れたいという欲求が、健太郎の中で静かに燃え上がった。
健太郎はスマホのメモ帳を開き、周囲に気づかれないよう、さりげなく彼女の言葉を記録し始めた。指先が画面の上で素早く動く。まるで貴重な宝石を集めるように、彼は千絵の言葉を丁寧に拾っていった。
「SNSには新しい彼女の写真がアップされてたんだよ。私の涙も乾いてないのに」
彼女の声は低く沈み、それからまた怒りに転じた。
「何様だと思ってんだ、私の心を踏みにじって」
バーテンダーがグラスを静かに磨いている。カウンターの奥で、女性たちの笑い声が時折響く。健太郎はビールを一口飲み、喉の渇きが満たされるのを感じた。しかし、もっと大きな渇きが彼の内側で目覚め始めていた。
女性たちの言葉が素材になる。その認識が彼の中で確かなものになっていくのを感じた。体の中の何かが震え、長い眠りから覚めたように感じられた。枯れた木に突然、新芽が吹き始めるような生命の息吹だった。
「何様だと思ってんだ」という言葉が、健太郎の頭の中でリズムを刻み始めた。それはやがてメロディになり、音符となって彼の意識の中で踊り始めた。まるで暗闇に浮かぶ蛍のように、一つ、また一つと光を放ちながら増えていく。創作の炎が、長い冬を経てついに再び燃え上がろうとしていた。それは彼の内側で眠っていた灰の下から、息を吹き返した赤い炭のようだった。
帰宅した健太郎は、興奮で手足が震えながら、玄関のドアを閉めた。靴を脱ぎ散らかし、コートを床に投げ捨て、リビングの一角に設置された簡易スタジオへと直行した。部屋の薄暗がりの中、機材のインジケーターだけが青く点滅していた。
キーボードの電源を入れると、小さな起動音が静寂を破った。健太郎はスマホのメモ帳に記録した千絵の言葉を開き、画面を見つめた。彼女の感情の奔流が文字となって並んでいる。それは生々しく、痛みを伴い、そして何よりも真実だった。指が鍵盤の上でためらいなく動き始める。
「私を振るなんて何様だと思ってんだ」
このフレーズをサビにしよう。健太郎の心臓が早く打ち始めた。何かが生まれようとしている感覚を、体全体で感じていた。
メロディが浮かんだ。それはシンプルながらも、どこか引っかかるようなフレーズだった。指が鍵盤を叩く。リズムが生まれる。言葉が流れ出す。彼女の感情が音になる。
健太郎は時間を忘れて曲作りに没頭した。時計の針が回るのも、外の世界が闇に沈むのも気にならなかった。まるで未知の生態系を発見した探検家のように、彼は新たな創作の世界に夢中になった。千絵の怒り、悲しみ、執着心が、彼の創作の中で形を変え、昇華されていく。それは原石が研磨され、輝く宝石に変わっていくような過程だった。単調ながらも心に残るメロディに、彼女の感情の揺れを表現するために転調を取り入れた。苦しみから怒りへ、怒りから悲しみへ、悲しみから諦めへ、そして再び怒りへと循環する感情の波を、音の起伏で表現していった。その曲は感情の迷宮のように複雑に入り組みながらも、一筋の赤い糸のようなテーマが通っていた。
女性の本音。その闇の中にこそ、自分の求める音楽があった。間違いない。それは鮮烈で、生々しく、魂に響くものだった。
部屋の窓から朝日が差し込む頃、健太郎は「何様」と名付けた曲の第一稿を完成させた。彼の体は疲労で重くなっていたが、心は久しぶりに軽かった。
キーボードの前に座ったまま、通して弾き語りをしてみる。自分の声は枯れていたが、それがむしろ曲の雰囲気に合っていた。
「私を振るなんて何様だと思ってんだ あんたの心は氷より冷たいね」
健太郎の指が鍵盤の上を滑るように動いた。千絵の怒りと悲しみが、彼の声と指先を通して音になっていく。それはまるで、彼女の魂の一部を借りているかのようだった。
「何様だと思ってんだ 私の心を踏みにじって」
その言葉を歌いながら、健太郎は自分が何か重要なものを発見したという確信を深めていった。久しぶりに感じる創作の充実感。何かが変わった気がした。今までになかった手応え。音符が紙の上に踊るように並んでいく。
曲を丁寧に録音し、音源ファイルを整えて松本に送信した。添えたメッセージはシンプルだった。 「急に出来た。聴いてみてくれ」
返信を待つ間、健太郎は長時間の創作活動で疲れた体を横たえ、仮眠を取った。窓から差し込む朝日が彼の疲れた顔を照らしていた。幾晩も眠れなかった魂が、ようやく安らぎを見つけたかのようだった。
数時間後、スマホの通知音が静寂を破り、健太郎は目を覚ました。液晶画面を見ると、松本からの返信だった。緊張と期待が入り混じる感情を抱きながら、メッセージを開いた。
「何だこれ?今までと全然違うじゃないか。女心をよく捉えている。深みがある。ライブで絶対に披露しろ」
健太郎は思わず笑みを浮かべた。その表情は、営業マンとしての作り笑顔ではなく、久しぶりの心からの笑顔だった。初めて、純粋な称賛を受けた気がした。松本の言葉は、彼自身が感じていた手応えを裏付けるものだった。
彼はベッドから起き上がり、メモ帳を手に取った。そこには千絵の言葉と、それをもとに作った歌詞が丁寧な字で書き連ねられていた。指でその言葉をなぞりながら、彼は新たな可能性を感じた。
「女性の本音」を素材にする。
そう、これが自分の新しい創作方法になるだろう。まるで錬金術師がついに不死の妙薬を見つけたように、健太郎は新たな創作の源泉を発見した。
明日から、もっと多くのバーを回ろう。様々なタイプの女性たちの言葉を集めよう。彼女たちの本音こそが、自分の音楽を変える鍵なのだから。それは闇に隠された鉱脈のように、掘り起こせば限りない宝を秘めているはずだった。他人の感情を「素材」とするという行為に、わずかな後ろめたさも感じたが、その感情は創作の高揚感に簡単に押し流された。良心の小さな声は、創作という名の激流の中に飲み込まれていった。
健太郎は窓の外を見た。朝日に照らされた東京の街並みが、いつもより鮮やかに見えた。ビルの谷間から差し込む光が、彼の顔に明暗のコントラストを作り出していた。まるで長い冬の後に訪れた春の朝のように、世界が新たな色彩を帯びて見えた。その表情には、発見の喜びと、これから始まる何かへの期待が混在していた。彼の目には、長い航海の末についに地平線に見えた新大陸を見つめる航海者の輝きがあった。未知の土地に踏み込む恐れと興奮が、その瞳に宿っていた。
「何様」
https://suno.com/song/626bf9ef-ebed-4dfa-883c-e25fb729aa8b?sh=yTDQLyKiunio83eH
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