第31話 魂の悲鳴

「――っ」


肌を焼く、純粋な殺意。 リリアナは息を呑み、黒曜石の剣先を見つめた。ルシファーの金の瞳は、もはや彼女を映していない。そこにあるのは、憎悪の炎に焼かれた、見知らぬ王の顔だった。


「ルシファー……お願い、私を見て……!」 「黙れ、魔女め」


彼が剣に魔力を込める。万事休す。 リリアナが、死を覚悟して目を閉じた、その刹那。


「――グ、ァアアアアアアアアッ!!」


憎悪に満ちていたはずの魔王が、突如として絶叫した。 響き渡ったのは、魂そのものが引き裂かれるような、凄まじい悲鳴。


「な……!?」 リリアナが目を開けると、ルシファーは剣を取り落とし、自らの胸を強く掻きむしっていた。 リリアナの喉元ではなく、彼自身の、左胸。 かつて彼女に「契印」を誓った、その場所が。


「ルシファー!?」 「あ……が……っ! なんだ……この、痛みは……!?」


ルシファーは、信じられないものを見る目で、己の手と、リリアナの顔を交互に見た。 憎い。殺さねばならない。 脳がそう叫んでいるのに、魂が「殺すな」と絶叫している。 (プロット第二の柱)


彼の精神が、その矛盾に耐えきれず、激しく混乱していた。 「貴様……! 俺に、何を……した……!」


「――今です、妃殿下!」


ザガンの声が、硬質に響いた。 リリアナが振り返る間もなく、ザガンは彼女の腕を掴むと、床に向かって自らの掌を叩きつけた。


「“影縛りの回廊(シャドウ・ラビリンス)”!」


ゴボッ、と。 床から、有視界の闇が、インクのように溢れ出した。 それは瞬く間に部屋を満たし、ルシファーの視界を奪う。


「ザガン! 貴様ァァァァ!」 闇の中から、魔王の怒号が響き渡る。 「逃がすな! 衛兵! 衛兵! 魔女を捕らえろ!」


ザガンは、リリアナの手を引いて、闇の中を疾走した。 「こちらへ。私の魔術が、一時的に奴らの視覚と聴覚を欺きます」 「待って、ザガン! 彼は……ルシファーは、苦しんでいた! 契印が、彼を……!」 「だからこそ、です」


ザガンは、薄暗い裏階段で足を止めた。 「陛下は、“憎しみ”と“魂の絆”という二つの矛盾した命令(コマンド)に引き裂かれている。あれは、暴走状態の獣と同じ。説得は不可能です」 「そんな……」 「お逃げください、妃殿下。貴女様がこの城にいる限り、陛下は貴女様を殺そうとし、そのたびに魂の痛みに苛まれ、いずれ精神が崩壊なさる」


リリアナは、息を呑んだ。 自分がここにいては、ルシファーを殺してしまう。


遠くから、城の警鐘が鳴り響き始めた。 CLANG! CLANG! CLANG! 兵士たちの怒号と、重い足音が床を震わせる。


「……逃げるって、どこへ。もう、この城は……」 「一つだけ、道があります」


ザガンは、冷徹な観測者の目で、リリアナをまっすぐに見据えた。 「敵の本拠地へ、です」 「本拠地……?」 「アリシア様の精神世界。“忘却の影”が潜む、“記憶の庭”です」(プロット第三の柱)


ザガンは、壁に隠された転移魔法陣へとリリアナを導いた。 「陛下という“結果”を殴っても意味はない。アリシア様という“原因”を叩くのです。貴女様の『始源の血』ならば、他者の精神世界への扉を、強制的にこじ開けることが可能でしょう」 「私が……やるの?」 「私では案内しかできぬ。扉を開けるのは、貴女様の力」


リリアナは、ゴクリと唾を飲んだ。 あの夜の悪夢が蘇る。 契印の力を使おうとして、父の記憶を失った、あの瞬間が。


「……ザガン」 リリアナは、震える手で転移魔法陣に触れた。 「もし、私がこの力を使ったら……私はまた、何かを失うの?」 (プロット第二、四の柱)


ザガンの目が、わずかに伏せられた。 それは、肯定だった。


「……何を、失うことになるかしら」 「予測不能。下手をすれば、陛下と出会ってからの、全ての記憶かもしれません」 「……!」 「それでも、行かれますか。全てを忘れ、彼が誰かも分からなくなるかもしれない。……そのリスクを冒してでも」


リリアナは、扉の向こうから聞こえる、愛する人の苦悶の叫びを聞いた。 彼女は、ゆっくりと顔を上げ、自らの胸に刻まれた契印に手を当てる。 その輝きは、もはや薄れかけていた。(プロット第四の柱)


「……記憶なら、いらないわ」 「妃殿下……?」 「彼が誰かを忘れても、彼との思い出を全て失っても……私の魂が、彼を覚えている」


彼女は、ルシファーが自分にしてくれたのと同じことを、今、自ら選ぼうとしていた。 記憶ではなく、魂で愛すると。


「行きましょう、ザガン」 リリアナの瞳から、迷いが消えた。 そこには、絶望の淵に咲いた、王妃の覚悟があった。


「彼の魂を救うためなら、私は、私自身を失うことも厭わない」


(つづく)

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