第28話 二つの事実
魔王執務室の扉が閉まる音は、リリアナにとって世界の終焉のように響いた。 ルシファーの腕の中にあるはずの温もりは、もうない。彼が差し伸べた「庇護」という名の分厚い壁が、二人を隔ててしまった。
(信じてもらえない)
それは、火刑台で誰にも無実を信じてもらえなかった時の絶望と、よく似ていた。
(違う。あの時よりも、もっと)
あの時は、失うものは命だけだった。 今は、愛する人との記憶、絆、そして自分自身という存在のすべてを失おうとしている。
リリアナはよろめく足で、自室ではなく、城の最下層にある大書庫へと向かった。 ルシファーが信じてくれないのなら、彼女が「事実」を突きつけるしかない。 あのタペストリーが「確かに存在した」という記録を。
◆
大書庫は、埃とインクの匂いに満ちていた。天井まで届く書架には、魔界の数千年の歴史が眠っている。
「失礼します」
老齢の書庫番が、カウンターの奥からゆっくりと顔を上げた。 「これは、妃殿下。このような夜更けに、いかがなさいましたかな」 「……調べたいものが。魔王城の調度品に関する、古い記録台帳を探しています。特に、西棟の回廊に関する記述を」 「西棟、でございますか」
書庫番はこともなげに、分厚い台帳を棚から引き抜いてきた。 「どうぞ。西棟の記録は、ここ五百年は変更がございません。始祖たる“深淵竜”の肖像画。それ以外には、何も」
その言葉は、ルシファーの言葉を寸分違わずなぞっていた。 「……タペストリーの記録は」 リリアナは、震える指で台帳をめくった。 ない。 ない。 どこにも、ない。 あるのは「深淵竜の肖像画」という文字だけ。
「そんな……私が、この目で見たのに……!」
記録が、ない。 記憶が、間違い。 世界が、私を「狂人」だと指さしている。
(違う。私は、間違ってない)
リリアナは、ドレスの胸元を強く握りしめた。 服の下、肌に刻まれた「契印」が、かろうじて彼女の正気を繋ぎ止めている。
(そうだ。この力を使えば……)
彼女は目を閉じた。 失った母の顔を、この絆の力で取り戻せないか。 ルシファーとの魂の繋がりが、記憶の霧を晴らしてくれるかもしれない。
(お願い、思い出させて……!)
契印に意識を集中させた、その瞬間。
――キィン、と。 頭の奥で、細い弦が切れるような音がした。
(あ……)
脳裏に浮かんでいた、別の光景が霞んでいく。 幼い頃、人間界の屋敷の庭。 父と二人で植えた、小さな白い花。
(あの花、なんて名前だっけ……?) (すごく、好きだったのに……) (父様は、なんて言って、私にそれをくれたの……?)
思い出せない。 母の記憶を取り戻そうとした代償に、父との大切な思い出が、砂のように指の間からこぼれ落ちていく。(プロット第二、四の柱)
「いやっ……!」
リリアナは喘ぎ、力を中断した。 恐怖に、膝が笑う。 戦おうとすれば、失う。 絆にすがれば、記憶が削れる。
「……どう、すれば……」 書庫番が、怪訝な顔で彼女を見ていた。 「妃殿下……?」
リリアナは、何も言わずに書庫を飛び出した。
◆
「お姉様?」
夜の回廊で、最も聞きたくない声に呼び止められた。 アリシアだった。 薄いナイトドレス姿の彼女は、水の入ったグラスを手に、心配そうに小首を傾げていた。
「こんな時間に、どうかなさいましたの? お顔が、真っ青ですわ」 「……アリシア」 「眠れなくて……。お姉様も? ふふ、なんだか昔みたい。昔もこうして、二人で夜更けにおしゃべりしましたわよね」
無邪気な笑顔。 昨日、中庭で見たものと同じ、完璧な笑み。 その裏で、この少女が世界を歪めている。
「……どうして、そんな風に笑えるの」 「え?」 「あなたは、何も覚えていないの? 私の記憶が、世界が、おかしくなっているのに!」
リリアNは、衝動的に彼女の肩を掴んでいた。 だが、アリシアは怯えるどころか、不思議そうに瞬きを繰り返した。
「お姉様……? 何を仰って……」 「とぼけないで! あなたが笑った時、私の契印が痛んだ! あなたが、何かしたんでしょう!」 「契印……? ああ、魔王様との、あの……」
アリシアはうっとりとした表情で、リリアナの胸元に視線を落とした。 「素敵ですわ。でも、お姉様。それは魔王様のものですわ。わたくしのような者には、何も……」 「あなたね……!」
「――妃殿下」
リリアナが声を荒げた瞬間、低く、厳かな第三者の声が響いた。 ハッとして振り返ると、そこに立っていたのは、魔王参謀筆頭・ザガンだった。
ザガンは、アリシアに一瞥もくれず、リリアナにだけ深々と頭を下げた。 「夜分に失礼いたします」 アリシアは、ザガンの闖入(ちんにゅう)にわずかに頬を膨らませた。 「まあ、ザガン様。わたくし、お姉様と大切なお話の途中でしてよ」 「アリシア様」
ザガンは感情のない声で遮った。 「貴女様の夜の散策が、衛兵の交代時間に“混乱”を招いていると報告が上がっております。速やかにお部屋へ」 「……!」
アリシアの笑顔が、初めて凍りついた。 彼女はザガンを睨みつけたが、鋼のような視線に射抜かれ、不満げに踵を返した。
「……おやすみなさいませ、お姉様」
アリシアの姿が闇に消えるのを待って、リリアナはザガンに向き直った。 「……助かったわ。ありがとう」 「職務ゆえ」
ザガンは無表情のまま、リリアナをじっと見つめた。 その目は、ルシファーのような憐憫も、アリシアのような偽りも宿していない。ただ「事実」だけを見定めようとする、冷徹な分析官の目だった。
「妃殿下。貴女様は先ほど、アリシア様に向かって『世界がおかしくなっている』と仰いました」 「……聞いていたの」 「そして、ザガンはこう申し上げる。――同感です」
「え……?」 リリアナは、息を呑んだ。
ザガンは、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。 「これは、昨日の謁見の間における、衛兵の交代記録です。衛兵の名はAとB。しかし、私の記憶では、交代したのはCとD。そしてCとDは、昨夜の記録では西棟の警備についていたことになっている」 「それって……」 「記録と、私の記憶に“齟齬”が生じております」
ザガンは、リリアナの目をまっすぐに射抜いた。 「私は“事実”のみを信じます。そして今、この城には“二つの事実”が存在している」(プロット第二の柱) 「……!」 「妃殿下。貴女様がご覧になっている“もう一つの事実”を、このザガンにお聞かせ願えますか」
それは、問いかけではなかった。 孤独な戦場に現れた、最強の同盟者からの、決起の合図だった。 リリアナの瞳に、絶望の淵で初めて、確かな光が宿った。
(つづく)
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