第22話 ひとつ心残りがあるとすれば、傷跡が残せなかったことです①
俺こと溝間千晴は今、目の前の事実を受け入れなければならない状況にあった。
こういうことになった理由など知らないし、事の発端に関しても俺は想像すらつかない。
しかしながら俺は受け入れなければならない。
夜勤明けの冴えない頭と顔で古い友人と会社の後輩の三人で京都の立ち飲み屋にいることに。
「じゃあ久しく会わなかった人でなしの友人と!」
「言いがかりも甚だしい」
「新たな飲み友だち兼ライバルとの邂逅に!」
「ライバル?」
「「かんぱーい‼」」
勢いに任せて叫ぶえーこと何故かえーこに同調する注連野さんに驚きながらも、俺はえーこが発案した朝飲み会に強制参加させられ、瓶ビールに注がれたグラスを俺たちは当て合った。俺も注連野さんも退勤した直後の格好なので俺は真っ黒な半袖シャツとジーパン、注連野さんは白のワンピースと上から薄緑色のカーディガンを羽織った姿である。えーこはというと昨日と同じボーイッシュスタイルのままだ。
えーこ発案の朝飲み会は俺が仮眠中に決定したらしく、俺が仮眠から帰ってきた際に「明日暇? いや暇でしょ? 暇じゃなきゃ暇になれ」と無茶苦茶を言ってきた。確かに用事はなかったが「翌朝すぐに撮影がある」とえーこ本人から聞いていたのでやんわりと断ろうとしたのだが、あろうことか同席していた注連野さんからも「どうかお願いします」と嘆願された。店もその時点で予約されていて、朝9時から夕方5時まで営業している立ち飲み屋さんだった。
「なんというか、綺麗なお店だな」
「出入り口がガラス張りっていうのがいいよねぇ。陽の光が入って清潔感もばっちり。しかもワインとビールと焼き菓子とアテだなんて、女の子の大好きなラインアップばっかり。いずもちゃんもそう思うでしょ?」
「はい、五条駅の近くというのも最高です!」
「注連野さんはほどほどにね?」
お店では季節の食材を使用したお酒に合う野菜の盛り合わせに、鮮魚やお肉、パスタなどの一品料理も充実している。モーニングや朝飲み、昼飲み、カフェ利用や焼き菓子の持ち帰りなど。女性でも気軽に行きやすいコンセプトで大いに繁盛しているようだ。固定客もいるそうで、俺たち以外にも三組の男女が利用している。
食事のチョイスはえーこと注連野さんに任せておいた。こういう場合はレディファーストが基本らしい。えーこが言っていたことなので半信半疑だが。
「さぁて酒も入って食事もある程度頼んだところで、千晴」
「なんだよ酔っ払い」
「何言ってんのよ、私がグラス一杯のビールで酔うわけがないでしょう? あ、瓶ビールもう一つ」
すかさず次の瓶ビールを注文するえーこ。養成所時代でも酒が尽きないように飲み会では目ざとく卓の酒の量をチェックし、足りなくなればすぐさま追加注文を促していた。エーコ自身昔から酒に強く、一人で中ジョッキを十杯くらいは飲みきっていた。
「ここ最近の千晴の話、たっぷり聞かせてもらうわよ」
「なんで俺の近況報告をしないといけないんだよ。連絡なら事あるごとに話してるだろ。お前がしつこく聞いてくるから」
「彼女でもできたなら私には言わないでしょ。あんた自分のことあんまり話さないし。例えば」
えーこは視線を注連野さんに向けると、グラスに入っていたビールをちびちび飲む注連野さんの視線とぶつかる。すると注連野さんはバツが悪そうに笑う。
「いずもちゃん! そんなにちびちび飲んでたらせっかくの冷えたビールがもったいないよ!」
「あぁ、すみません私、ビールって苦手で」
「うっそ⁉ それ先言ってよ! なになに何が飲める?」
「でしたらカシスオレンジってあります?」
「うっは! 女の子! 眩しい! 店員さん、カシスぅ!」
もはやえーこの独壇場である。えーことの飲みはとにかく騒々しい。俺は静かに飲みたい派なので、そういった理由からもえーことは反りが合わさない。
だというのにこの昔なじみの友人は養成所時代に週一で飲みに誘ってきた。お互いに金がなかった時分にだ。
「相変わらず、無駄にテンション高いな、酒が入ると特に」
「千晴はいつもフラット過ぎんのよ。もうちょいテンション上げられないの?」
「上げても意味がない。注連野さん、うるさかったらコイツ帰らせるから」
「おいおい! なんで私だけ帰らせるんだよ! ふざけんな! 私はいるからな、誰に何を言われようと留まり続ける!」
「……ウゼぇ」
酒がマズくなる勢いのウザさだった。なんでこんな奴が舞台や映画、ドラマの世界で注目される存在なのか疑いたくなる。
まぁ、それだけ努力を積み重ねて来たからなのだが。
「っていうかえーこ、お前いつの間に注連野さんを下の名前で呼び出したんだ?」
「ふふふ、羨ましいか?」
「お前が変に距離詰めてないか心配なだけだ。初対面でも容赦なくパーソナルスペースに入り込んでくるからなお前は」
「いえ溝間さん! 私の方からえーこさんに下の名前で呼んでほしいとお願いしたので。誰もが知ってる有名女優さんに下の名前で呼んでいただけるなんてすっごく嬉しいです!」
「おぉ……。有名女優。良い響きだ……。いずもちゃん、あとでサインあげるね?」
「ありがとうございます!」
普通の俳優は自身のプライベートを邪魔されないように、己の素性を隠すもの。現に今のえーこの姿はボーイッシュスタイルで注意深く見なければ今をときめく女優「
「おい、えーこ。お前が騒ぎ過ぎたからみんな気づき始めてるぞ」
「いいのいいの。バレたからってどうってことないない」
「いや、注連野さんだけならまだしも俺もいるんだが」
「スキャンダルが怖いの? 私は
「お前もう少しスキャンダル怖がれ!」
やれやれ、とえーこは俺たちのいるカウンター以外の入店客全員に向けてこう言った。
「すみません、皆さん。もうお気づきの方もいるとは思いますが、私は仁志川富和と申します。今日は友人たちといる完全なオフなので、ここで会ったことはどうか内密にお願いします。その代わりじゃないですけどここにいる皆さんの飲み代は私が出します!」
ネットにも上げないでね、と念押しするえーこに客の全員が「はい!」と元気な返事をした。どこまで守ってくれるかは店にいる人の常識力次第だが、えーこは「これで満足?」とウィンクしてきた。
「どうなっても知らんぞ……」
「これで守ってくれないならその時はその時。それより聞かせてよ、最近の千晴のこと」
「そんなこと言われても俺の最近の出来事なんて」
「私が来たことくらいですかね」
いつの間にか、店員さんから受け取っていたカシスオレンジを手に注連野さんは宣言する。
「そうだな、俺の周りで起こった近況で一番変化があったのは注連野さんのことかな」
「ですよね! 溝間さん、新卒の私にも丁寧に日勤のこととか夜勤のこと、あと清掃や事務処理まで教えてくれるんですよ!」
間違ってはいない。注連野さんの言い分は正しい。だが何故かえーこの機嫌はみるみる内に不機嫌になっていく。
「お客さんの対応も私が困っていたらすかさず助けてくれるんです。たまにクレーム紛いの言いがかりをしてくるお客さんもいるんですけど、高圧的な男性のお客様でもすかさずフォローして下さって」
「……ふぅん」
「なんで俺を睨む?」
「べっつにぃ。なんだかえらく若い女の子には優しく紳士的にされてるなって思っただけ」
店員さんから新たな瓶ビールが追加されるや、えーこは自身で栓を抜きたいと栓抜きを店員さんから預かり、豪快にビールの栓を引っこ抜きそのまま自分でグラスにビールを注いだ。
「後輩なんだから優しくするのは当たり前だろ」
「本当かな? もしかして千晴、いずもちゃんにほの字なんじゃないのぉ?」
「寄越せ! 俺もビール飲むからさっさと瓶ビール寄越せや‼」
幸いだったのが、注連野さん本人がほの字の意味を知らなかったことだ。ほの字だろうがそうでなかろうが、注連野さんにとっては迷惑な話に違いない。俺は少しでも酔って冷静な思考を狂わせるためにビールを煽る。
「でもいずもちゃんの方は」
「ちょっとえーこさん⁉ 何を言おうとしているんですか⁉」
「あれ、まだ言わない感じ?」
「言うにしてももうちょっと雰囲気考えて言いますよ‼ 少なくとも今じゃないです‼」
この時、俺は大声を上げる注連野さんを始めて見た。さすがに声量が大きすぎたのでお店の人から「他のお客様おいらっしゃるので……」とやんわり叱られ俺たちは揃って「すみません」と謝罪した。
「もう、いずもちゃんのせいで怒られちゃった」
「全部お前のせいだからね?」
「私、今ので一気に疲れました……」
三人が三人ともアルコールを含んで息を整える。入店して30分も経っていないのにいきなり飛ばし過ぎたので、俺は今回の朝飲みの発端についてえーこに訊いた。
「そういえばまだ聞いてなかったな。なんで今日急に飲みに行くことになったんだよ? 注連野さんまで巻き込んで」
「え、理由いる?」
「強制参加させといて理由なしは勘弁してくれ……」
「だって千晴は今日用事ないんでしょ? じゃあ昔なじみの友人の飲みくらい来てくれたっていいじゃない?」
「喫茶店でも良かっただろって話だ。朝っぱらから酒なんて」
「コーヒーじゃあお互いの
少しだけ、えーこの声のトーンが下がった気がした。こんな声をさせて話す内容は決まって本気の話なのだ。
「昨日の夜から朝まで飲み明かしても良かったんだけど」
「昨日の夜は夜勤中で俺も注連野さんも飲めるわけないだろ?」
「って堅物な千晴は言うと思ったから、今酒を飲むことになったわけだ。おーけー?」
再びえーこが注連野さんに視線を向ける。今度は注連野さんの方もえーこを見据える。
「それに昨日は昨日でいろいろ知れたから、いきなりあれこれ訊き出すのもマナー違反、もとい心の準備が必要かなって」
「前提として、酒が入らないとダメな話なんてないだろ? お互い」
「私たちにはなくとも、いずもちゃんはあるかもしれないじゃない」
挑発的な笑みを浮かべるえーこは、注連野さんを試すように問いかける。
「ぶっちゃけ私、今日は千晴のこともそうだけど、いずもちゃんのこともあれこれ聞きたいと思ってるんだよね」
「な、なんでしょうか?」
「例えば、今のホテルに入った理由とか」
えーこが語った内容は俺も気になっていたところではある。
注連野さんとは彼女が大学生最後の学生旅行中に、うちのホテルを利用した際に出会い、そこですでに決まっていた就職先のことや、卒業後の悩みを聞いたりした時から面識があった。彼女が内定をもらっていた企業は超大手で、何事もなく就職していれば今頃海外で働いていたはずだった。
だが注連野さんは超大手企業の内定を蹴って、うちのホテルに就職した。
「昨日泊まったからわかる。あのホテルはビジネス利用にするにはもったいないくらい使い心地はいいし、ネットの星の数も4以上だからホテル業界を志していた子ならあのホテルに就職するのも理屈が通る。でもいずもちゃん、あなたは最初からホテル業界に働きたい一心であのホテルに就職したのかな?」
二人の間で交わされる空気は尋問室で向かい合う警察と被疑者のそれだった。
注連野さんも自身が尋問されていると自覚しているのか、アルコールで赤らんでいた頬が今は素に戻っている。
「何が、言いたいんですか?」
「別の理由があったんじゃないかってこと」
えーこは注連野さんから俺に視線を向ける。
「……なんだよ? こっち向いて」
「いんや、相変わらずだなって思っただけ」
「お前今完全に俺のこと馬鹿にしただろ?」
「馬鹿にはしてないわよ。ここまで来たらもはや才能の一種だなって驚き呆れてただけで」
「呆れてんじゃん⁉ 俺の何にそんな感想抱いてんのかわからんけど、驚くくらい呆れてんじゃん⁉」
「いずもちゃん、悪いこと言わないから方向転換しとかない? 今のまま進んだら多分ろくな目にあわないよ?」
「ご心配なく。私は私でやりたいようにさせていただきますから。それに私だけじゃなく、もう一人方向転換せず突き進み続けている方もいるようですし」
「……苦労するわよ?」
「こっちは6年弱悩んできたんです。今さらです」
「6年⁉ え、おっも⁉ 重すぎでしょ⁉ どんだけこじらせたらそんなに重くなれんの⁉」
「日本中の人たちに認めてもらってもはや一般人とはかけ離れた存在になっておきながら、未だに当時の想いを抱えたままの人に言われたくありませんよ!」
「言ったなこの泥棒猫!」
「やりますかこのミスドリーマー!」
「ちょっと待て! なんで急に喧嘩腰なるんだよ⁉ 君ら昨日の夜何があったの⁉」
やっぱり朝から酒をかっくらうなんていうのはよくない。初対面の女性同士がなんの脈絡(?)もない喧嘩をおっぱじめる要因になるのだから。
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