大切なもの日記

藍無

第1話 大切なもの

 私は、大切なものをすべて失ってしまった残りかすだ。

 きっと、そうなんだろうと思っている。

 私には信用がない。

 他人を信用できないから、信用がないのだろうと思っている。

 そして、小さい頃からずっといろんな嘘をつき続けてきたからある意味、自業自得とも言えるだろう。しかし、小さい頃からいろんな嘘をつき続けてきたのには、一応理由がある。

 それは、嘘をつけば、みんなにみてもらえるからだ。嘘をつかなければ、だれも私のことを見てくれない。ほかの家族どころか、実の母親さえも。

 誰一人として、私を見てくれない。私は、みんなのことを見ているのに。

 誰かが、ここは自分の居場所じゃないと承知していれば誰から何を言われても、それこそ誰にも見てもらえなくても傷つくことはないのだと言っていた。

 けれど、私はそうはできなかった。

 家族のいる場所を、自分の居場所ではないのだと思えなかった。

 家族にどんなひどいことを言われても、ひどい扱いを受けても、私はここは自分の居場所なんだと思わなきゃいけなかった。

 だって、ここは自分の居場所じゃないって思ったら自分の居場所はいったいどこにあるんだ? と心の中の誰かが問いかけてくるから。

 とにかく、居場所がなかったのだ。

 居場所がないのに、あると思いたかった。それがゆえにずっと、傷ついてきた。

 ある日、涙があふれてきた。

 何も、感じていないはずなのに、急に。

「痛い…」

 なぜか、急に胸が痛くなって、私はその場にうずくまった。

 もちろん、だれも私を気にせず声もかけようとしない。

 水が、肌を伝った。汗だろうか? そう思い、目の前にあった鏡を見ると、それは涙だったらしい。目から流れていた。

「あはっ…おかしいな」

 私はにっこりと笑って、自分の感情をごまかそうとしてみる。しかし、失敗して泣き笑いのような表情を浮かべてしまった。

「どうして…?」

 どうしていまさら、涙が出てくるのだろう。

 冷たい冬の日に、お風呂場に放置された幼いころの私でさえも、涙を流さなかったというのに。いや、違う。その時、私は確かに泣いたかもしれない。泣いて、泣くことを忘れたのだ。

 涙を流して、声を上げて泣いたのに、誰一人として私を助けようとしなかった。

 だから、忘れたのだ。

 涙を流すことは、無意味なことだと、その日に知ったのだ。

 私は流れてくる涙をティッシュで拭うと、鏡の前から姿を消した。

「お母さん…」

「どうしたの?」

「私、精神科行きたい」

 どうやら、目が壊れてしまったみたいだから。

 感情が制御できなくなってきているみたいだから。

「…どうしてそんな馬鹿なことを言うの!」

「え…?」

「そんなところに普通の子であるあなたが行く必要なんてないでしょ!」

「あ……うん、そうだね」

 そうか、お母さんは私のことを普通の子だと思ってるのか。

 壊れたほうがいいのかな?

 狂えば、私を精神科に連れて行ってくれるだろうか?

「もう二度とそんなこと言わないで!」

そう言って、お母さんは私の幼いころから大切にしていた花瓶を割った。

「あ…」

 あ、という言葉が頭の中に何回も繰り返される。

「あら、こんなところに花瓶があったなんて気が付かなかったわ。まあ、また買えばいいわよね」

 そう言って、割れた花瓶の破片をお母さんはかき集めて、ごみ箱に捨てた。

 あ、あ、あ…ずっと、それが頭の中に繰り返されていく。

 ついには、私は背後から自分をじっと見ているような感覚にさえなった。

 まるでゲームのアバターを自分で後ろからテレビ画面越しに見つめているような。

「そんなところに突っ立ってないで、破片集めるの手伝いなさいよ」

 その言葉で、急に現実に引き戻された気がした。

「あ、うん」

 ぼんやりとした意識の中で、私はそう答えて、破片を集めるのを手伝おうと、破片を手で拾った。

 手で拾うと、破片の先で指を切ってしまったのか、指から血が出ていた。

「はあ…もう手伝わなくていいわ。手を洗ってらっしゃい」

「…はい」

 私は手を洗い、絆創膏ばんそうこうを付けた。

 その間もずっと頭の中で、あ、という言葉が繰り返されていた。

 何か、今日は大切なものを失ったような気がした。

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