スカイブルーの瞳
のま
SCENE 1
彼は無様に倒れこんだ。
そのとたん、口の中に泥水がはねる。生臭い匂いが鼻をつかないうちに立ち上がり、ふたたび走った。なぜ走っているのかは、わからない。ただ、自分が何かから逃げていることだけは確かだった。しかも死にもの狂いで。
走っている路地裏に見覚えはなかった。
いや地名として認識してはいるが、自分がたぶん一生通らないであろう貧民街だ。似たようなレンガ塀のアパートメント。塗装のはげた非常階段。安っぽい小花柄のカーテンが下がった窓。すえた生ゴミの匂い。
こういう街は人が悲鳴をあげても誰も出てこない。特にこのあたりの住民は自分にやましいところがなくても、警官と顔を合わせるのを極端に嫌っている。なぜか彼にはそれがわかっていた。
車がパンクしたような音が聞こえた。
その直後、顔のすぐ左を何かが通り過ぎ、続いて前方で何かが当たった音が響く。左側の歩道に片輪を乗り上げ停まっていたオリーブ色のセダンのフロントガラスに穴が開いた。埃ですすけたガラスに弾痕から無数の亀裂が広がる。
これは夢だ。
映画でも見て寝たからに違いない。
昨夜、TVで刑事ものをやっていた気がする。
そう考えていたら、ふいに突き飛ばされたように前につんのめった。左上腕部、肩のすぐ下辺りをバットか何かで叩かれたような感じだった。そして燃え上がるような痛み――
目が覚めた。
どこかで夢だとわかっていた。
それでもケニーの身体は汗でびっしょりと濡れ、息も全力疾走したかのように荒くなっていた。
無意識に右側に手を伸ばすと、柔らかい感触があった。
彼女に触れてようやく、自分が見たのはリアルな悪夢だったと納得できた。
窓からさしこむ月明かりがセリーナの頭の輪郭を金色に縁取っていた。
彼女はケニーに背を向けて、安らかな寝息をたてていた。ケニーはセリーナの髪をそっと撫でる。やわらかく、なめらかなプラチナブロンド。染めてない天然の美しい髪は、シルク糸のように真っ直ぐだった。
ケニーの手はそのまま彼女のむき出しの肩へ下りていく。手に吸いつくような、瑞々しい柔肌。その背中は奇跡としか思えないほどシミひとつなかった。大切に育てられた果実のようだ。
乱れた鼓動が落ち着いてくると、セリーナの背中に唇を這わせ、強く抱きしめたい衝動に駆られたが、規則正しく上下する彼女の肩を見て、自分の中で鎮めることにする。
ケニーは軽く頭を振ると、立ち上がり、バスルームへ向かった。暑くもなく、寒くもない心地よい晩だ。
何度見てもゴージャスな装飾だよな、バスルームに入ったケニーの鼻から息が漏れる。
床から壁の半分あたりまで敷き詰められたタイルのことを大理石風とセリーナは言っていたが、白と黒のマーブル模様にケニーはアイスのクッキー&クリームが思い浮かぶ。
内部は右側に洗面台、その横にトイレ、部屋を分断するようについたガラスの壁の向こうにジャグジーつきのバスタブがあった。浴槽や洗面台は輝くばかりに白く、蛇口や配水管の金色が映える。施工はセリーナがイタリアの有名メーカーに頼んだものだ。いくらしたのか知らないが、相当なものだったのは想像がつく。
ガラスの扉を開き、バスタブの中に入ると蛇口を捻る。すぐに熱い湯が出てきて、思わず感嘆が漏れた。彼のアパートメントのバスルームは古くて、しかも給湯システムの調子が悪いのか、途中で水になったりするからだ。
軽く汗を洗い流し、さっぱりした身体にふかふかのバスローブを羽織る。
「全く……高級ホテルかよ」ケニーは独り言ち、洗面台の前に立った。
洗面台の鏡も蛇口類に合わせて、
ブラジル移民の血を引く父の陽気さと華僑の母親の気難しさが同居した顔だった。大きな口元にしまりがないせいか本人はいたって真面目でも、なめてるのかと難癖つけられることもたびたびあった。
その一方で東洋の血は女性に何か特別な魅力を発揮するのか、ケニーは十七になる頃にはそこら中の年上女性を知っていた――
「どうかしたの?」
――ような気がした。
ケニーの背後からセリーナが顔だけ出しているのが、鏡に映っていた。
たぶんベッドから出てきたままで、何も身に着けていない。
「いや、何でもない。起こした?」
ケニーは鏡の中の彼女に向かって言った。
セリーナは小さく首を横に振ると、ケニーの右腕に両腕をからめ、抱きついてきた。シルクのバスローブの袖に腕を通したら、きっとこんな感触なのだろうと思った。だがセリーナは温かい。
ケニーはセリーナを振り返り、正面に向き直った。やはり裸のままだった。
少し前まで彼女を抱いていたはずなのに、その美しい身体を見るとあらためて恐怖に近い歓びを感じる。
「怖いな……」
「何が?」
「君みたいな
セリーナは動物の鳴き声のような短い笑い声をあげると、ケニーにもたれかかる。
彼女はケーキにのっている砂糖菓子のように特別だった。
小さな顔。スカイブルーの瞳。花びらのようなやわらかい唇からのぞく小動物のような白い歯。心持ち上を向いた鼻が、整いすぎた顔に愛嬌を与えている。
ケニーはその唇にキスをするのがふいに怖くなった。するとセリーナは気持ちを読んだかのように、やわらかいキスをした。ゆっくり離れた顔をそのまま彼の心臓の辺りにつけると囁く。
「ひとつだけ約束して」
ケニーの胸に彼女の吐息がかかる。
「今あなたの腕の中にいる女は……あなたのものだって強く信じてほしいの」
当然だ。
だが一方で、ケニーは常にどこかで不安を感じてきた。
彼女の気持ちがいつか自分から離れていくのではないかと。
こんなに自信がないのは初めてだった。いや、一人の女にこんなに執着したのは初めてだと言うべきか。
今までの付き合いは、たとえ相手が離れていっても、その頃にはケニーも同じように相手に飽きており、むしろ清々していた。
それがセリーナの場合、この手に入った瞬間の震えるような喜びから一転、すぐに彼女を失った時のことを想像し始めた。その不安をかき消すようにまた彼女を抱きたくなる。
「じゃあ、信じさせてよ」
背の低い彼女の腰を抱えて抱き上げると、くるりと反転させ、洗面台の上に座らせた。
そのまま唇を重ねる。
まるでティーンエイジャーのように余裕なく何度も貪る。
宥めるようにセリーナも受け止めた。
それがいつしか湿り気を帯びた熱い息遣いに変わった頃、ケニーは彼女を抱えながら挿れて、欲望のまま突き上げていた。ケニーの身体に蔓草のように白い手足を絡ませたセリーナが喘ぎ声をあげる。
「ほら」
乱れる息遣いの中から、かすかに彼女が言った。
「私はここにいるわ」
「おい、聞いてるのか?」
ケニーが顔を上げると、男が彼を覗き込むように見ていた。
(誰だ? こいつ)
知らない顔だった。ケニーは男を観察する。
男の顔は汗か脂かで、とにかく湿っていた。色は肌の色以上に白く、どこか病的だ。
茶色い瞳が忙しなく瞬きを繰り返している。その様子は落ち着きがないのを通り越し、薄気味悪い。耳や鼻、下唇にまぶた、顔だけでも相当な数のピアスがついていた。何日も洗ってないようなベタベタした赤毛の頭髪に思わず顔をしかめる。何か酸っぱい匂いがするのはこいつのせいだろうか。
(なんなんだ? もしかして、また、夢?)
「決行は来週の木曜だとよ。五時半、レイフに言われた最終のパスコードをチャーリーが入力して、六時にはオフィスを出る。安全なところまで車を走らせたら、電話でおれらにパスコードを教える手筈になってる」
「チャーリー、あのネズミみたいなヤローがそんな大胆なことマジでやるのか?」
ケニーは味の濃いタバコをふかしながら聞き返す。
「安い給料でレイフにこき使われるのはうんざりなんだと。それにあいつ、株の借金が限界まできちまってるらしい。それだってレイフの言いなりで買って、暴落した責任を無理やり取らされたんだ。最悪だろ?」
「チャーリーからパスコードを聞いた後、おれらはどうするんだ?」
「それでオフィスに入ったら、簡単な鍵のついてる金庫を開けるだけさ。安全ピンかなんかで簡単に開くやつらしい。見たことあるか?」
「ああ、バーの売上金とかしまってるやつだろ? たしかに学校のロッカーみたいな安っぽい金庫だった。レイフはよくわからないところでケチだからな」
「チャーリーが言うにはオフィスのパスワードは毎日変えてるから、しかもそれはチャーリーとレイフだけが共有してるってことで安心しきってるんだと」
「まあ、たしかにおれは教えてもらってないな」
男の言葉にケニーが同意する。
男は興奮してきたのか少し頬が紅潮し、顔色がよくなっていった。ただ、軽く広げた脚の上で組んでいる両手は細かく震えているのがケニーには気になった。何かの病気だろうか。
(しかもこの話……犯罪なんか企んでいるのか。おれとこいつで?)
「ビルじたいに入るのは問題ないのか?」
それは不思議な感覚だった。自分の身体なのに、自分じゃないみたいだ。
勝手に動き、勝手に喋っている。
男から聞かれたことにケニーは答えた。
「複合オフィスビルだから正面玄関にはごつい警備員がいる。けど、地下の駐車場から上がっちまえばなんでもない。管理室のボビーは居眠りばっかしてる爺さんだから」
(ここはどこなんだろう?)
だが、思い通りにならない身体では、当然視点も思い通りにならない。
目の前には大きな籠があり、白い布が山になって詰め込まれている。尻に軽い振動を感じた。
薄暗がりの中でようやく、どうやら小型のトラックの荷台の中にいることがわかってきた。トラックは動いているようだ。彼ら以外の誰かが運転しているらしく、曲がるたびに二人の身体が左右に揺れる。
「それでも……話がうますぎると思わないか。バズ、おれは……なんか引っかかる」
(こいつ、バズって名前なのか)
バズはニヤリと笑ったが、ケニーはゾッとした。夢の中のケニーは見慣れているのか、鼻から息を吐いただけだった。
「気にするなよ。十年近くも真面目にお勤めしてきたチャーリーにまさか裏切られるとは、レイフも夢にも思わないだろうさ。きっとうまくいく」
(夢にしては具体的だな。おれはチャーリーと一緒にレイフってやつの下で働いているのか。なんの仕事をしてるんだろう?)
「それにおれたちがいただくのは金庫の中の三万ほどの売上金だけだ」
「じゃあ、チャーリーは何を持ってくんだ?」
「貸し金庫の鍵。レイフが叔父貴の稼ぎの運用からちょろまかして貯めた金だから、やつが訴えるはずもない。三万ドルもチャーリーが盗んだことになるし、おれたちが疑われることはまずないさ」
「ああ、バッカスとナローズの売り上げね。それなら来週の金曜に事務員がまとめて持ってくな」
あいかわらず事情を知ってるかのように夢の中のケニーは勝手に納得している。
だが、続けてケニーは顎を触りながら少し疑うようにバズを見た。
「けどおれたちに三万ドルもやって、チャーリーはなんの得が?」
「まあ、そこは……察しろよ。ヤツはおれより抜き差しならない状況になっちまったってことで」
バズが鼻をすすりながら答えると、ケニーは眉根を寄せて鼻から息を吐いた。
この男は売人ではないが、売人と親しくなるほどには薬漬けになっていたのを思い出す。チャーリーが望んだのかは知らないが、いつの間にやらヤツをその道に引き摺り込んだらしい。
(薬漬けって……そんな男とおれは友達なのか)
「それにおまえも金が必要なんじゃないの?」
「おまたせいたしました。無花果とメロン、日本酒のシャーベット添えです」
黒いタキシード姿の男が、目の前に皿を置いた。
それは小鳥の餌かと思うほど少ない量だった。メロンと無花果の横に小さく盛り付けられた白いシャーベット。気取った料理によくある何味かわからないオレンジ色のソースが皿の上で奇妙な線を描いている。
「え? また、夢?」
ケニーはつぶやくと、自分を見た。上等なグレーのスーツを着ており、膝の上には白いナプキンを敷いている。
「いやだ、ケニー。
向かい合う席で、セリーナが笑っていた。
テーブルの上の小さなグラスに入ったロウソクの炎が、セリーナの顔をやけに黄色く見せている。
レストランだろうか。店の中は薄暗かった。
どこからか流れるピアノの旋律。周囲のテーブルから聞こえる控えめな話し声や食器の触れ合う音。白いテーブルクロス。
「ねえ、どんな夢を見ていたの?」
セリーナは上手にナイフとフォークを使って無花果を口に運びながら、こちらを見た。
ケニーも真似をして無花果にナイフを当てたが、胸元に果汁が飛んだ。それを責めるでもなく、穏やかに微笑むセリーナの青い瞳が、まるで
「いや、変な夢だよ。なんかヤク中っぽい赤毛の男と顔つき合わせてヤバい相談をしてた。MOMA(近代美術館)にモネの『睡蓮』でも盗みに行くのかな?」
くだらない冗談でごまかしたつもりだったが、セリーナの顔から笑みが消えて、ケニーは驚く。
「どうかした?」
「ううん……何でもないの。ちょっと疲れてるみたい。最近、ノーランズの訴訟にかかりきりだったから」
セリーナが辛そうにしていると、胸が痛む。
一人の女にこんなにもイカレるときが来るとは、ケニーは苦笑した。
たしかに彼女は忙しい。
ソーホーの片隅でなんとか売れている自称芸術家のケニーとはわけが違った。シティ・ホールに燦然と輝く高層ビルの二十階にあるトーマス&ワトスン法律事務所の弁護士秘書様なのだから。
「だいじょうぶかい? ここを出たら真っ直ぐ家に帰ろうか」
「本当に平気よ。それにこのチケット、ムダにはできないわ」
「チケット?」
セリーナはオーク材の椅子の背に軽く引っ掛けていた自分の黒革のハンドバックから何かを取り出した。
「ワォ、『アマデウス』か。君、どんな魔法を使ったんだ?」
「リチャード・クリフって太っちょのおじさまがくれたの。ジェイクの顧客の一人よ。カーネル・サンダースにそっくりなの。彼、ブロードウェーに劇場主の友人がいるって言うから、二枚頼んでみたのよ」
ジェイク・トーマスはセリーナの上司であり、その名の通り弁護士事務所のパートナーの一人だ。もし彼が若く美しい成功者なら、ケニーも気が気ではなかったが、幸いジェイクは時折腰を痛める七十歳の老人だった。
「罪深い女だな、君は。クリフは今ごろベッドの上で独り身悶えてるだろうよ」
ケニーは邪な下心を利用された気の毒なリチャードを思うと笑わずにはいられなかった。
「やめてよ、ケニー。下品な想像するのは」
そう窘めながらセリーナも笑っていた。
ケニーはさきほどのやけに生々しい夢の感触を消し去ろうと、もうおかしくも何ともないのにしばらく笑い続けた。
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