恋ぞつもりて灰となりぬる

運転手

箱庭の日々

第1話 箱庭の日々(1)

 あと何度この道を歩くだろうか。


 離れは本邸から遠い。かろうじて敷地は同じであるものの、屋敷から見えないようひっそり建てられており、一般の使用人はその道を近づくことすら禁じられている。

 僕とそれから荷物持ちとして供をしている女中、限られた数人がこの道を歩くことを許される。

 園芸師の木守きもり調しらべとして、僕はここにいる。

 先祖代々、木守家はこの世で最も美しい花を咲かせる木の世話をしている。


「それでは、私はこちらで」

「ああ、ご苦労さま……」


 玄関前まで来ると、供の女中が手にしていた風呂敷を僕に渡して一礼し、また静かに本邸のほうへと戻っていった。その背中を見送って、僕は懐から鍵を取り出した。この離れの玄関には内鍵がなく、外からしか鍵をかけられない。

 古くから使われている真鍮の鍵は、何度も磨かれてつるりと手から滑り落ちてしまいそうだ。

 ガチンと重たい音とともに扉を開くと、閉め切った空間特有のにおいが鼻に届いた。

 目的の部屋に続く廊下の途中途中で、昨晩僕が鍵をしめた窓を一つ一つ開けていく。専用の鍵を差し込んでいくので時間がかかってしようがない。手間でしかないが、これが古くから受け継がれた手順だ。……くそくらえ。

 屋内に日の光が差し込み、薄暗がりをさっと打ち払っていく。

 廊下を突き当たりまで行って、庭に続く木製の引き戸を開ける。戸を全部引き払って全開にすると、ここから小さな庭が一望できる。と言っても砂利と空っぽの池、やせた木が何本かだけの柵で囲われた殺風景だ。しかし、何にも邪魔されずに広い空を眺めることができ、日光浴には適している。

 植物には光合成が必要である。

 全ての窓を開けて、やっと離れの主とご対面することができる。


「おはようございます、ちるさま。調がやってまいりました。……失礼します」


 庭に面した部屋に向かって、ふすま越しに声をかける。

 返事は期待していないので、そのまま開ける。

 最初に目に入ったのは、部屋の主の生白く頼りない枝のような脚だった。


「……え、もう朝なの?」


 舌足らずの声があまえたに響いた。

 部屋の大部分を占領するようにクイーンベッドが置かれている。部屋の主人である散さまがお姫様のように眠りたいと御要望だったからだ。畳の上に毛の長い柔らかな絨毯を敷いて、無理やり部屋に押し込んだのだ。

 そして希望どおり民の生活を無視するお姫様のように惰眠をむさぼっていた散さまは、部屋のベッドの中央でクッションに埋もれながらしょぼしょぼと日光に目をしばたたかせている。

 その枕元にページが開いたまま散乱している本の群れを見る限り、また夜通し本を読んでいたのかもしれない。


「散さま、もうすっかり朝ですよ」


 僕は一旦風呂敷を棚の上に置いてベッドに近づいた。

 その枕元の横にひざまずいて、さりげなく寝乱れている夜着の裾を直してやり、その顔色をうかがう。

 一晩中文字を追っていた瞳を少し充血して潤んでいた。ゆらゆらと揺れるように瞳の中で光が泳いでいる。ここ最近貧血気味だが今朝の顔の白さは一層際立っており、シーツの中で淡い顔の輪郭が溶けて消えてしまいそうな印象を受ける。視線を少し上に持って行くと、やはりこちらも元気がなさそうだ。


 陶器のようにつるりと白い額の上、その異物。


 僕の握りこぶしより一まわり小さいぐらいの大きさの木だ。額に根を張り、二本の角のように枝を伸ばしている。

 年明けから少しずつ生気を取り戻し、やっと葉を繁らせるようになった。しかし、ここ最近の不規則の生活のせいか、今日の葉は少し元気がない。

 健康状態を確認していると、散さまは僕の視線から逃れるように首を傾けた。しかし、最近伸びてきた枝のせいでそう大きく身動きはできない。


「今日はちゃんと朝食を食べてもらいますからね。その後、すぐに寝てもらいます。不健康が顔に出ていますよ、散さま」

「でも、お話がとてもおもしろかったの。誰だって一度お話の世界に入ってしまったら、なかなかぬけだせないでしょう?」

「最近そんなことばかり言っているでしょう。今日までは大目に見ておりましたが、それで不健康になるというのであれば甘い顔をできません」

「なによ、調のけちんぼ」


 ちいさく文句を言って、でも僕がそれで怒らないかちょっと心配になって、上目づかいでこちらを見てくる。

 成長した額の木が重いのか、散さまは少しうつむき加減だ。


「調は心配しているのです。散さま、僕の気持ちをわかってくださいますね」

「はぁい」


 散さまの返事を聞いて、僕は彼女の背中とシーツの間に腕を差し込んだ。

 風が吹けば枝が折れてしまいそうな薄い身体を起き上がらせた。そして、クッションを集めて背もたれをつくり、彼女をもたれかけさせる。彼女は自力で身体を持ち上げることができないほどかよわい。

 このままでは栄養失調で枯れてしまう。だから食べてもらわなければならないのだが、いかんせん散さまは胃が弱く、朝は食べすぎると吐いてしまう。

 だから、今日の朝食はスムージーとクラッカー、そして桑の実ジャムだ。

 風呂敷に包んで持ってきたそれらを食器に移し替え、お盆に載せてベッドまで運ぶ。

 その短い間に、散さまはうつらうつらと頭を揺らしていた。

 ベッドに転がった本を回収して脇に置きつつ、声をかける。


「散さま、これだけ食べてしまってください。あとは眠っても大丈夫ですから」

「うん」


 ベッドの上でも食事ができるように置いたベッドテーブルの上で、繊細な指先がひらひらと揺れる。

 本のページをめくるぐらいしかしない手の動きはおぼつかず、ジャムを塗るための小さな銀のスプーンすら重そうだ。

 風にも当てず、虫にも近寄らせず、雨も浴びせず、人の手からのみ水を与えられ、日の光も管理され、屋敷の奥深くに隠されているこの世で最も美しい花。


 僕は、この花を守るためにいるのだろうか。

 それとも灰にするためにいるのだろうか。


 この美しい花の話は、随分昔に遡る。

 大雨の晩、村に旅の男がやってきた。西からやってきたというその男は、突然の大雨でひどく難儀していると訴え、一晩宿を貸してほしいと頼んだ。

 困ったときはお互い様と村の人間は男を迎え、できるかぎりのもてなしをした。

 次の日、雨を忘れたように空は晴れわたった。


「あなた方のご親切には大変感謝します」


 男はまた旅に戻っていった、一つの置き土産を残して。

 それは植物の種だった。旅の男いわく、西から持ち帰ったとてもめずらしい品らしい。

 男を見送った村人は、柔らかい土の上に種をまいた。

 種は驚くほどあっという間に成長し、次の年の春には立派な木となり、それはこの世のものとは思えないほど見事で美しい花を咲かせた。

 村人たちは花に見惚れ、花見をして飲めや歌えやの宴会を開いた。

 ――しばらくして、最も美しい花以外の植物が一斉に元気をなくした。

 春が訪れたばかりだというのに花は全て散り、もしくはつぼみを固く閉じ、葉の色はあせた。

 彼らは嫉妬したのだ、村中が褒めたたえる花の美しさに。

 そして、顔も見たくないとばかりにそっぽを向いて、植物は成長するのを止めた。

 春だというのに、村はすっかりと色をなくし、冷え込んでしまった。作物も実らず、あるのは冷たい植物の姿だけ。

 やがて村に病気が広がり、人々は苦しみ、そして怒りは美しい花の木へ向けられた。


「すべてはあの花のせいだ! あの木を切り倒せ! 燃やせ! 灰にしろ!」


 人々は斧で木を切り倒し、根すら掘り返し、火をつけて灰にしてしまった。

 風にのって灰が村中にまかれ、憎き花のあわれな灰を浴びた植物たちは一斉に花開き、実りをつけ、いままで以上に色鮮やかに輝き、例年以上の豊かさを結果的に村にもたらした。

 村人たちは怒りも忘れ、これは天からの恵みだと喜んだ。

 そしてその晩、村に赤ん坊の泣き声が響いた。

 それは、美しい花の木を切り倒し、根を堀り返したその穴の中から聞こえてきた。

 穴の底では赤ん坊が泣いていた。

 豊かさを取り戻したことによって憐れみを取り戻した村人は、赤ん坊を育てることにした。

 すくすく育った赤ん坊はとても美しい少女になった。

 しかし、村人には不安があった。天からの授かりもののように愛らしい赤ん坊の額には、生まれつきこぶのようなものが二つついていた。大きくなるにつれてこぶもぐんぐん伸びていき、少女の額でいまにも花が咲きそうだったからだ。

 それは、まるであの美しい花の木のようだった。

 ある年の春、植物がまた育たなくなった。

 美しい何かに嫉妬するように、自分たちをみじめにさせる美しさを嫌うように、そっぽを向いて冷たくなった。

 少女の額の木は開花目前だった。


「また燃やしてしまおう」


 少女は捕らえられ、額の木を切り落とされ、灰にされて村にまかれた。

 すると、途端にまた植物たちは息を吹き返し、村にはまた豊かさがもたらされた。


「あの木を切って、灰にすれば、村は豊かになる」


 村の誰かがそう言った。

 それからというもの、少女の額の木は春を前に切られ、灰にしてまく祭りが毎年行われるようになった。

 それは村が町となった現在まで続き、今も人々を豊かにしている。

 こうして欲深い村人と嫉妬深い植物たちによって、美しい花は永遠に花開くことはなくなった。

 その花の木が、今、目の前にいる花窪はなくぼちるだ。


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