天下無双

藤宮一輝

「ダンス、辞めようと思ってる。」


私はそう呟いて、彼の顔を見た。彼はしばらく黙ってスマホを見つめていたが、

「そっか。」と言ってまた指を動かし始めた。


大した反応は期待していなかった。でも、実際に大した反応もされないと無性に腹が立った。


「それだけ?もっと他にないの?」


彼に詰め寄ると、やれやれといった風にスマホを横に置いた。


「どうして辞めようと思ったか、は聞かなくてもいいか。おおかた、自分の肉体の限界を感じた、とかだろうし。」


図星だった。


昔から、体を動かすことが嫌いではなかった。中学高校と、テニスを心の底から楽しんだ。大学生になって、新しいことを始めたいと思ってダンスサークルに入った。最初こそ初めての動作に戸惑ったが、すぐに全身を躍動させる快感にのめり込んだ。


違和感を覚え始めたのは、三年になって後輩が増えた時だった。新一年生を見て、「若いな」と感じた。高々二年前後の違いでしかないと、今でも頭ではわかっている。それでも、これから自分の体は動かなくなっている一方だという恐怖が、脳裏にこびりついて離れなかった。なんとか振り払おうと、この半年間は今まで以上に練習に打ち込んだ。


ついに、私はその恐怖を克服できなかった。だから私は何も言い返せずにいた。


「他には……。」彼は少し伸びたひげを触った。「そうだな、俺にどうして欲しい?」


特に何かをしてほしいわけではなかった。私さえも、どうすればいいかわからなかった。どうすればいいかわからないことを口に出してみたら、どうにかなるかもしれないと思った。ただそれだけだった。


「じゃあ、引き止めてみて。私にダンス辞めたくないって、思わせてみてよ。」


我ながら、無理難題を言っているとは思った。だから彼の返事には驚いた。


「いいよ。ちょうどそうしようかと思ってたところだし。」


「……半分冗談だったんだけど。」


「半分は本気なんでしょ?心配しなくても、明日の朝には気が変わってるから。」


そう言って彼は立ち上がった。


「とりあえず夕飯でも食べに行こう、奢るよ。」


彼がなぜこんなにも自信満々で、しかも乗り気なのかはわからなかった。ただ同時に、私に断る理由もなかった。だから彼に乗せられてみることにした。


「いいね、ちなみにどこ?」


「天下無双とかどう?大学前の。食べたことないでしょ?」


天下無双といえば、豚骨ベースのこってりラーメンで有名なチェーン店だ。前に店の前を通った際に看板のメニューを一目見たが、そこで提供されるラーメンがどれほど体に悪影響を及ぼすかは想像に難くなかった。だから私は食べたことはなかったし、そもそも食べたいと思ったこともなかった。


「せっかくだし、食べてみようかな。」


これもいい機会だと思って、私も支度を始めた。

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