第三章 【ニ】
転落の衝撃を私は覚えていない。相当の高さから落ちたのに私は眠りこけていたのだ。今にして思えばあれは眠りではなく半ば気絶していたのではないかと思う。いくら眠っていたとは言え車がガードレールを突き破って谷へ落ちた衝撃はただごとではなく生死に関わる。そんな大事故に気付けなかったなんて明らかにおかしい。ただ本当に気絶していたとして何故そうなったのかは分からない。
異変に気付いたのは覚醒した時だった。目の前に満点の星空があるのを訝しんで無意識に身体を起こしたところ、目の前に原型を留めない金属の物体があった。
あの光景を私は忘れることができない。原型を留めないほどに歪んだ車の周囲では散乱した割れたガラスが月明かりを受けてキラキラと輝いていた。変形した窓枠の中は真っ暗で中に両親と菊花が取り残されているのか否かさえも判別できない。
あの状況の車の中から自分だけが放り出されたとは思えなかったから私は辺りを見渡した。両親と菊花もどこかに放り出されていると思ったからだ。だが周囲には誰もいなかった。その時、車の中から苦痛に呻く声がしたのだ。痛い痛いと呻く声はやがて半狂乱の体を要していき遂にはヒステリックに叫び出す。
「なんで私がこんな目に逢わなきゃならないの! 助けて! 荷葉、そこにいるんでしょ! 早く私を助けなさいよ!」
いつもの癇癪に更に拍車が掛かったかのような菊花の声はどす黒い闇を含んでいるように聞こえて私の身体は竦んだ。そんな私の耳にこのまま放置すれば楽になると悪魔が囁きかける。その囁きに背中を押されるようにして私は逃げようとしたが、そもそも断崖絶壁を登る術はない。そう悟ったや否や私は突如冷静になった。そして車内の取り残されているであろう両親を思った。
菊花以外の声はしないが菊花が生きているということは両親も生きているのではないかと淡い期待を抱いてフロントの方へと這いずって近付いた。フロント部分の破損が一層凄まじいのは落下する際にフロントを下にして落ちたからだろう。絶望的状況ながら私は窓枠の奥に声を掛ける。
「お父さん! お母さん!」
暫く全神経を耳に集中させて人の気配やか細い声を聞き取ろうとしたが反応はなかった。まさか二人共…… そう思うと私に対していつも冷ややかだった両親であっても恋しくなった。
その間も菊花はギャーギャーと騒ぎ立てて命令口調で助けろと叫んでいるが、あれだけ元気なら放っておいても差し障りはないだろうと考え私はとにかく両親の安否を確認しようと懸命になってフロントの窓枠に引っかからないよう少しだけ中に潜り込む。と、微かに身じろぎする音が確かにした。
「お母さん、お父さん、無事?」
「荷葉……」
母の声だった。
「荷葉、早くここから離れなさい」
父の声は聞こえず母の声は弱々しくて今にも消え入りそうだった。
「嫌だ」
私が泣き出すと母の白い腕が私に差し出された。私と認識しての行為なのか無意識の行為なのかは判然としないが、その細く白い腕が震えているのは見て取れる。懸命に手を差し伸べているのだと判断するのにそれほど時間は掛からなかった。そう分かるや否や私はその手を握ると力一杯引いた。なんとか車の中から引っ張り出そうとしたのだ。
「無理よ」
母の声がどんどんか細くなり、握っていた手も冷たくなっていき突如ずっしりと重みを感じる。人の、それも肉親に死を目の当たりにして私は泣きじゃくるしか術がなかった。その間も菊花のヒステリックな訴えは相変わらずで何故彼女が生きているのかと憎しみが湧くが、かといって生きている人間を見捨てる訳にもいかない。
私は這いつくばったまま助手席へと向かうと菊花に手を差し伸べる。その手を十七歳の女子とは思えないほどの力で掴まれ怯んだ。と同時に鼻孔を油の匂いが擽る。ガソリンが漏れ出しているのだ。一刻の猶予もない。私は菊花の手を力一杯引いたが菊花は痛い痛いと悲鳴を上げるばかりで一ミリたりとも引き出せない。恐らく潰れた車内に足が挟まれているのだ。
油の匂いが鼻をツンと突く。目を上げると黒い煙が立ち上っているのが闇の中でも分かった。ガソリンに引火したのだ。頭の中で警鐘が鳴り響く。このままでは菊花と共倒れだ。私の身体がじりじりの後退する。生きている姉を見殺しにしようとする私を世間は非難するだろうと思うと怖かったが焔に巻かれるのはもっと怖かった。後退するうちに私の手は菊花の手を離していた。
「荷葉、何してるのよ! もっと強く引っ張りなさいよ!」
その声を振り切るようにしてヨロヨロと立ち上がると、よろめきながらも一目散に車から離れた。ある程度の離れたと同時に爆発音がして車は焔に包まれる。爆風で私は投げ出されたがそこは草地で私の身体を柔らかく受け止めてくれた。
だが私は眼前に光景を生涯忘れることはないだろう。ガラスが割れたドアの中から焔が吹き出し熱によって変形に拍車が掛かっているのか金属が軋むような不気味で不快な音が鳴り響く。
私は尻餅を付いたままズルズルと後ずさる。その時、手に感じた感触からなんとなく下を見たとき私の目はこの世のものとは思えない光景を捉えた。山間の谷間に菊の花が一面に咲き誇っていたのだ。いくら山間部とは言え菊が咲くほど秋めいてはいない。何より目を疑ったのはその菊が青かったことだ。鮮やかなブルーではなくまるで夜の海のような昏い蒼色。それが土が見えないほどに生い茂っている。この菊が私を受け止めてくれたと考えるにはあまりに非現実的だった。だって菊から連想するものは菊花で彼女が私を助ける筈がないから。
焔に照らされて山間に生えている青紅葉が赤く染まってまるで紅葉のようだと思ったとき、焼けて崩れ落ちた車の中から地獄から響くような恐ろしい声が聞こえてきた。何と言っているのか聞き取れなかったが私にはまるで菊花の怨嗟の声のように思えて身体が震える。焼け死のうとしているのだからとかそういう類いの声ではく人間の声とは思えなかったのだ。
一体あれは誰の声? 現実的には菊花の断末魔と考えるのが普通だが、あの野太い怨嗟の声が菊花のものとは考えられなかい、では一体誰の? その時初めて菊花とはなんだったのだろうと思った。
菊花が私を恨んで死んでいったとして、その恨みは私が生き残ったことだけでなく彼女が行きたいと言いだした薪能で私が手柄を働いたことに対してだろう。西桃の宗家との邂逅がそれだ。菊花を気にしてか両親は話しを纏めた私を褒めることはなかったが、私はそれが気にならないほど充足感に満ちていた。だが神社の跡取りに拘り大して興味もない薪能に無理矢理出掛けてきた菊花にしてみれば私の行動は大いに気に入らなかったことだろう。
ゴウゴウと音を立てる焔は留まることを知らず、かつて車だったものは完全に燃え尽きようとしている。そうなって漸く遠くサイレン音が聞こえてきたことに安堵したのか私の意識は虚ろになっていったが谷底からレスキューされたことは覚えている。その時。何点か質問を受けたがあれは多分医療的な確認だろう。その後に救急車に乗せられたが動き出すと同時に意識を失った。
目覚めたのは病院のベッドの上だが事故から二週間も眠り続けていたと知らされても何の感情も浮かんでこなかった。そして自分が菊花と取り違えられていることに対しても否定することができなかった。まだ頭がボンヤリしていたこともあるが私が声を失っていたのだ。筆談も試みたが事故のショックか手が震えてそれも諦めざるを得なかった。
眠っていた二週間はICUにいたが意識を取り戻してからは一般病棟に移された。傷は奇跡的にも軽傷だったが声は戻らないまま一ヶ月の入院を経て私は退院した。迎えには叔母一家が来てくれそのまま成瀬市の実家に帰ったがその後も暫く声は戻らなかった。
菊花の生徒手帳が私のポシェットに入っていたことを教えてくれたのは叔母である。ちなみに両親の遺体は損傷が激しかったが菊花の方はそうではなく彼女のポシェットの中に私の生徒手帳が入っているのを確認できたとも言われた。
退院してひと月経っても声は戻らず自分が荷葉であることすら打ち明けられずにいて、心中ではとんでもないことになってしまったと後悔したが同時にこれが菊花による呪詛のような気もして自分が荷葉であることを遂に告げられないまま時間だけが過ぎていくのも苦痛だった。
元来軽傷だったから怪我による後遺症は全くないが心の傷はそう簡単には癒えない。それでも私は自我を押し殺す術と菊花になりきることばかりを模索するようになっていった。だが自我を押し殺すことはともかく菊花になりきるには傍若無人に振る舞わなければならい。流石にそれはできそうになかった。声は戻っていなかったが学業へと復帰したのは毎日悶々と過ごすことに耐えられなくなったからだ。そしてそのタイミングで進路調査があった。これが私にとっての転機になったのは言うまでもない。
どのみち山奈の跡取りは私しか残されていなかったし、周囲は跡取りの菊花が生き残って良かったと口にはせずとも態度は見え見えだったので自分の存在の意義に疑問を持ちながらも全寮制の神職養成校への進学を決めたが今にして思えば生徒手帳をすり替えたのは菊花なのかなと思う。彼女が事故を予測していたとは思わないが気分を損ねた彼女による嫌がらせの一環だったのだろう。
あの日、薪能の会場の駐車上は車でごったがえしていた。当然イベントのことも車が多いことも地元の警察は熟知していただろうから帰路で検問なり職務質問があっても不思議ではない状況で、菊花はそれに引っ掛かった時に私が困るような悪戯をしたのかもしれない。すり替わっていましたで済む話しなのだが、予測を超えた悲惨さに私は何かしらの悪意を感じずにはいられなかった。菊花が何かしらの干渉をして事故が起きたのではないかとさえ思うのだ。
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