溟香天女の守人
香紫 日月
第一章 【一】
桜の花びらがヒラヒラと舞い落ちる四月のある日、タクシーを降りた私はそそり立つ鳥居の前でスーツケース片手に上に伸びる百六十五段ある石段を見上げた。
朱色の一之鳥居には古びた木彫りの扁額が掲げられており、そこに薫衣大辨財天社と彫られているが黒ずんで文字が見て取れない程に古い。言い伝えでは蘭奢待が日本へ伝来した頃から崇敬を集めているとの説と尾張徳川家七代藩主の徳川宗春が篤く信仰したとの説があるが、私は後者の方が信憑性が高いと思っている。
ここは県北部成瀬市にあるその名の示す通り辨財天を祀る社で私の実家だ。
事故で両親と双子の姉を亡くした私は家業を継がなくてはならなくなり、高校を卒業後は神職になるために神職養成所で二年間学ぶことになった。全寮制で休日も月に六日程度しかなく学生と言っても思っていたより過酷な日々を過ごし無事卒業にこぎ着けたが、休みが殆どなかったのを理由に寮生活中は一度も帰省しなかった。
卒業式は三月終盤に終えていたが三月中は学生なのと家に帰ればチャンスはないと思い、月六日しかない休日を全てバイトに費やし稼いで貯めた資金で卒業旅行と銘打って海外に行きいま帰国したところだ。まるで夢のような二週間を過ごしてきたものの現実に直面して私の心は複雑である。これから暮らすこの家は色々な意味で戦場になるからだ。
石段の前でぎゅっと手を握って気合いを入れるとキャリーを持って石段に足を掛ける。早春の柔らかな風も花の香りも心を浮き立たせるには役不足だが、その風が能楽のお囃子の音色を運んできた。
そういえば例大祭が近い。うちの神社では例大祭には能楽を奉納することになっているから、きっとその申し合わせが行われているのだろう。とてもテンポが早い。神舞か急之舞かどちらだろうか? 暫くそのまま聞いていると、やがて謡が始まった。
―げにさまざまの舞姫のー
神舞だ。番組は高砂か。目出度い曲だが何故高砂にしたのだろう。
「例大祭って四月の三週目だったっけ?」
寮生活の間ここに寄りつかなかった私にとって、いや敢えて関わりを避けていた私にとって神社の行事は他人事だった。だがこれからはそうもいかないだろう。だけど今はまだ関わりたくない。でもこのまま進めば申し合わせメンバーと鉢合わせる可能性が大きい。
どうしよう…… どこかで時間を潰してから再度戻って来ようかな。
ただでさえ重い足が更に重く石のように固まった。どれくらいそうしていただろうか? いつのまにかお囃子が止み人がポツポツと階段を降りてくるのが見える。焦るものの動けない。が、階上から下ってくる人々を見て私はキョトンとなった。
随分と若い人達だ。出で立ちや持ち物から察するに学生のようにも見える。彼らは石段の前で立ち竦んでいる私など眼中にないように通り過ぎていく。能楽とは関係のないただの参拝客だろうか? そう思うと少し気持ちが軽くなり、私は石段をゆっくりと登り始めた。重いスーツケースを持ち上げながら半分ほど登り終えた頃だろうか。足下ばかりを気にしていた私の身体は正面からの衝撃をモロに受けてふらついた。
誰かがぶつかってきたのだ。この階段は急で危ないからと左右は勿論、真ん中にも手摺りを付けて、登りと下りを明確に分けているというのにだ。だが怒りより先に恐怖に襲われた。ここから落ちればただでは済まない。
慌てて手摺りを掴もうとするがその手は虚しく空を切る。スーツケースが転がり落ちていく音が遠く聞こえた。もうダメだ…… そう思ってやがて来るであろう衝撃と痛みを思い目を閉じると、だが落ちるより先に強い力で手首を掴まれた。
「へ?」
緊迫感に合わないとは分かってるが私の口からは気抜けするような声が出てしまった。恐る恐る目を開けると黒紋付に仙台平の袴姿の若い男性が私の手首を強く掴みつつ落ちないように全身を支えてくれている。
イケメンだ。いやイケメンなんて言葉では軽すぎる。眉目秀麗とはこういう顔を言うのだろう。凛々しい眉に凛とした目元,スッキリ通った鼻筋、そして澄んで柔らかな笑みを湛える眼。全体的に細身に見えるが鍛えられているだろう身体は腕からでも一目瞭然だった。
「大丈夫ですか?」
うわ、声も良い。
「あ、はい。お手数をお掛けして申し訳ありません」
ぼぉっとしながらその手に身を任せ見つめる私の背中に尖った声が突き刺さった。
「先生、タクシーが来ましたよ」
「那須くん、謝りなさい」
そのやりとりで何となく状況が読めてきた。このイケメンボイスは間違いなく能楽師だ。そして私にぶつかった那須という女子は弟子。
「石段の途中で止まっている方が悪いんですよ」
苛々とした声が返ってくる。どうやら自分が悪いとは全く思っていないようだが、それ以上に私に対して何か別の感情を抱いているようにも感じた。
「ここの石段は左右で登りと下りが分かれている。君が悪いのは明白です。謝りなさい」
私が能楽師に抱き留められているような状況が気に入らないのだろうか? いや、その前にわざとぶつかってこられているしな。あれが事故ではなくわざとだとしたら、私は那須女史に何か恨みを買っているのだろうが皆目知らない顔だ。
「すみませんでした!」
投げやりな謝罪を投げ付けられ、頭の上にいる能楽師の口からは溜息が漏れた。
「危ないところをありがとうございました」
階下にいる気の強そうな美女に臆した私は能楽師から身体を離して頭を下げる。
「こちらこそ弟子が失礼を致しました。えっと荷葉さんですよね?」
胸が痛む程にドキリとした。返答に困り固まったまま能楽師を見上げると向こうは戸惑った表情をしている。まるで自分が何か間違いを犯したかのような表情を見て寧ろ私は安堵したが彼の何もかも見透かすような眼差しが怖く感じる。大丈夫、この人はこの家に一卵性双生児の姉妹がいたという事情しか知らないのだ。そうだ、身内でさえ知らない秘密をこの人が知る筈もない。自分にそう言い聞かせながら答えた。
「荷葉は亡くなりましたが」
能楽師の顔が一瞬のうちに曇り後悔の念を抱いたかのような表情になったが、その中に微細ながらも疑問を抱いているのが見て取れた。
「失礼しました。私がこちらのお社とのご縁を頂いたのは荷葉さんがいたからこそで」
彼の説明によれば何年か前の夏に能公演が催された際に私達一家が観賞に行き、公演終了後に猛烈な勢いでお社で奉納舞をして欲しいと願い出て来た少女がいた。それが荷葉だったと。私の頭の中で記憶が映画のフィルムのように流れる。流れて流してそして漸く思い出した。いや、思い出したという程に昔の事ではない。家族を失った三年前のあの事故の日だ。
あの夏、家族で薪能を観に行った。その時に感激したのと神社のこの先を考えてシテを務めた能楽師にダメ元で薫衣大辨財天社で能楽奉納をして欲しいと頼み込んだのだ。だがその場では了承は貰えなかった筈だ。そして帰路であの事故に遭い、その後この能楽師と会った覚えはない。ただあの時は私も混乱していたし事故後正気に戻るまでに時間を要したから、その時に会っていたなら申し訳なくも記憶にないだろう。
「痛ましい事故でした。でも菊花さんだけでも生きていて下さって良かったと思います。今後も末永くお付き合い下さいますよう宜しくお願い致します」
深々と頭を下げる能楽師に釣られて私も頭を下げたが心の中が不安でざわついている。その時、階上から声が振ってきた。
「菊花ちゃん、おかえりなさい」
留守を守ってくれていた叔母が駆け下りてきて合流した。
「おかえりなさい、菊花ちゃん。こちら能楽師の西桃春馬先生よ」
やはり能楽師で間違いなかったが、それより名前に聞き覚えがあるのが自分でも不思議だった。
「お若いけど西桃流のご宗家なのよ」
宗家と聞いて私は感嘆した。よくよく観察すれば確かに先程ぶつかった学生や私とさして変わらないような年格好だ。こんな若い宗家が日本に存在したのか。
「宗家と言っても私はまだ半人前なので」
つい先頃、宗家の座に就いたばかりで修行中の身だと笑った人は私を不思議なものを見るような眼差しで一瞥し、ではまたとだけ言って去って行った。あの眼差しにはどんな意味があるのだろうか? 興味と不安の双方が私の中で芽吹く。
「なんだか不思議な人ね。能楽師ってあんな人ばかりなのかな?」
叔母を見やると苦笑している。
「さあ、叔母さんは能はよく分からないから。でも、あのご宗家はご自身でも周囲に不思議君と言われていると仰っていたわね」
そもそも実家の神社で能を奉納する経緯を思い出せない私は俄然彼に興味を惹かれたが、今後顔を合わせる回数が増えると思うと一抹の不安が浮かぶ。お付き合いしない訳にはいかないが、できればあまり深入りしたくない相手だなとなんとなく思った。
「さあ、とにかく早く家に入って着替えてきなさい」
二年間の寮生活や旅行の話しを聞きたいわと階下に落ちたまま忘れ去られて等しい私のキャリーケースを拾い上げ足取り軽く石段を登って行く叔母の背中を見て私はコッソリと溜息を吐いた。
悪い人ではない。幼い頃から可愛がって貰っているし家族を失った私の親代わりになり二年間の学費も出し卒業旅行も快諾してくれた。何より私が不在の間この神社を守ってくれていた人だ。だがこの人は双子を見分けることができず、いつも間違えられた記憶しかない。人が良く天真爛漫で多少天然な性格なだけで悪気はないのだ。
石段を三分の一程登ると石造りの二ノ鳥居があり石段はここで左折する。更に昇ると三之鳥居があり黒木のそれには注連縄が取り付けられている。一之鳥居がここから先は神社の中ですという意味を持つとしたら、この三之鳥居は正に結界。俗世と神聖な空間を分けるものだ。
私は改めて心の中で気合いを入れると一礼して鳥居を潜った。ここでは一挙手一投足に間違いがあってはいけない。なのに私は早々にミスをした。
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