臆病猫は鳥になる。

蓮饒(りぇんらお)/紅珠(こぉじゅ)

プロローグ。





「──なん、で……ッ」


 あの日以来、二度と会うことはないと、思っていた。

 頭の後ろで結ばれた、明るい茶色のサラサラした髪も、その瞳も、白い肌も、すらりとした手足も。

 全部、見ないはずだった。

 僕は、一人の少女と再会し、そんなことを言った。

 そして、同時に思った。


 ……なんで、よりによって、彼女なんだ。





 ずっと、ずっと、忘れられない。中学二年の──僕がトランポリンという競技を始めておよそ五年が経った頃だったけれど、記憶力に自信がない僕でも、あれからそれなりに時間が経った今も、思い出してしまうぐらいの衝撃だった。

 全日本トランポリンジュニア選手権。

 その時ばかりの幸運に恵まれたに過ぎない僕を除いて、将来は世界にさえ羽ばたき得るだろうダイヤモンドの原石たちが、全国各地から集う大舞台。

 可能性、或いは才能という言葉で全身が出来上がった小中学生の中でも異彩を放っていたのがパールホワイトの煌めくレオタードに身を包んだ少女だった。

 僕と同じ年齢、ということと、地元である大阪の大会で、良く表彰台に上がっていたということしか知らない。

 ただ、初めての全国大会で気持ちが舞い上がっていて、他の選手たちの圧倒的な演技を知りたくて、そのとき僕は空中の彼女を見つめていた。

 一度のミスも許されない、たった十回のジャンプの中で行われる演技。

 時間にして、合計たったの四十秒程度の演技。

 採点基準は、演技の綺麗さ、技の難度、ジャンプの高さ、そして縦四メートル横二メートルの足場でどれだけブレないでいられるか、の四項目。

 大阪でぼんやり見ていた姿とは違う。

 あの時僕が見たのは、眩い照明の真下に迫るほどの高さで宙を自由に舞い踊る白鳥だったのかもしれない。そんな幻を見てしまうほど、全国という大舞台で本気を振り絞った彼女の演技に見惚れてしまっていた。

 天才とは彼女のことを言うのだろう、と、お子様ながらに思い立ったことと、万雷の拍手に包まれながらすれ違ったときに見えた琥珀色の瞳に呆けた僕が映っていたことは今も覚えている。

 彼女のような選手になりたい、彼女と同じ場所に立ちたいって。

 そして僕は、トランポリンという競技に──いや、彼女、鱶丸リョウカに憧れた。


 ……憧れた、はずなんだ。





 ──ガシャン!


 だだっ広いアリーナに響き渡るぐらい大きな音がして、宙返りを仕掛けた僕は着地するべき足場を見失っていた。

 ──まずい。

 そう思ったときにはさっきまでは真下にあったはずのトランポリンが視界の隅にいて、どくん、と鼓動が強く波打った。

 冷や汗。漏れ出た吐息が、行き場のない脚が震える。トランポリン本体の前後にある危険防止の青いエバーマットをはるかに飛び越えた先の空中、そこが僕の現在地だ──気付いたときには鈍い衝突音と衝撃が踵から全身を貫いて、僕は間一髪で投げ入れられたマットに倒れ込むようにして墜落した。

 あれ、どうして僕はこんなところに落っこちたんだ?

 踵がじんじん痛み出す。


「──公音、大丈夫!? ケガはない!?」


 そう言って駆け寄ってきたのは所属しているクラブの北条コーチで、僕は訳が分からないままこく、と頷いて立ち上がろうとして──突然左の踵から骨が擦れるような痛みがせり上がって膝立ちになる。

 結局北条コーチの肩を借りて立ち上がり、審判にぎこちなく挨拶をして、選手の待機場所に連れられた。あれだけ派手な音を立てて落ちたのだ、そこにいた選手たちのほとんどが僕に目を向けていた。

 ジュニアの世界選手権に出ていたこの大会の優勝候補や、小学六年生にして三回転宙返りをやってのけた同い年の選手もそこにいた。三回宙なんて、世界で戦う大学生が学び続けてやっと使えるような大技だ。小学生でそれをやるのは、化物じみている。

 そこで、ようやく思い出した。

 僕は彼らを越えようとした。別に僕は彼らほど難しい技を使えるわけじゃない。彼らほど高く跳べるわけでもない。でも、並びたくて、越えたくて。

 この大会に出場できたのは偶然だということすら忘れて、僕はできもしない背伸びをしたのだ。難しい技はできなくても、せめて高いジャンプを、高さだけは、って。


 だって、これまでは、悔しかったから。

 一度も勝てなかった僕が惨めで、居ても立っても居られなくて。


「はあ……」


 その結果が、これ。カラカラに乾いたため息が出た。でも、それだけだった。

 トランポリンから落っこちて、ここに来るまで僕は、もしかしたらみっともなく、そんな柄でもないのに泣いてしまうんじゃないかと思っていた。そうなる覚悟さえしていたのに、涙はおろか、一握りの悔しささえこみあげて来なかった。

 始めから、才能なんてなかったのだから。同年代に追いつけないどころか、年下の子に追い抜かれるぐらい下手なんだから。

 北条コーチから貰った氷嚢を踵に当てて痛みを冷やしながら、僕の脳裏には出番の前に聞こえてしまった誰かの保護者の言葉が反響していた。


『成瀬って子、まだやってたんだ』


 ──ずっと、あんなに下手なのに。

 そう、思われている気がした。

 ふと、僕はあの白いレオタードの少女、鱶丸リョウカが気になって、彼女の方を向いた。一瞬だけあの琥珀色と目が合って、彼女はすぐに隣のサポーターに振り返った。

 されてもない期待に応えようとした僕の内心を見透かして、不思議がるような眼差しに感じた。


 ────そんな目で見ないでよ、分かってるから。……もう思い知ったんだから。

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